第三話『真紅』

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 「すみません。聖先生はどちらへ?」  「ああ。先生なら、さっき急な出張に行ったの。多分、夕方前には戻ってくるわ」  四月十九日・金曜日――不可解な焼肉店事件から、一週間は経とうとしていた。  しかし、警察の捜査は、想像以上に難航しているらしい。  テレビでも、様々な憶測が行き交うばかりで、事件は謎に包まれたままだ。  「ねぇ、まさか『瑠璃山精神科病院』なの?」  一人の若い看護師が含み有り気に耳打ちしてくると、三島看護師は毅然と答えた。  「そうよ。何だか複雑困難事例の患者を是非、聖先生にも診てもらいたいだとかで急に呼ばれたみたい」  「確かあそこって、の病院ですよね?」  三島看護師の答えを耳にした看護師達はわざとらしい悲鳴を零す。  怯えながらも面白半分に(はや)し立てる若手を、三島は軽く諫める。  美琴も、予て小耳に挟んだ瑠璃山精神科病院の”闇の歴史”と”都市伝説”を朧気に思い出す。  しかし今、美琴の頭を多く占めるのは、やはり娘の命花のことだ。    『ちょっと命花。熱いじゃないの。風邪かしら?』  一見、普段と変わらない月曜日の今朝に、登校する命花を見送った時の事。  普段は青白い命花の顔が、ほんのり紅潮している気がした。  心配になった美琴は、命花の小さな手と丸い額へ手を触れると、じんわり熱かった。  『え? そうかな。わたし、だいしょうぶだよ?』  熱に無自覚な命花は、不思議そうに頭を振る。  改めてじっくり観察すると瞳も熱く濡れ、瞳孔は揺らめいているが、本人は平気そうだ。  『そう……? ならいいけど、無理しないでね』  『うん! だいじょーぶだよ。さとーくんもいっしょだから』  自宅から最寄り駅前で合流する予定らしい。  命花にとっては、初めて一緒に登下校する友達となる佐藤の存在を思い出し、美琴の表情も自然とほころぶ。  『そうだ……ママにプレゼント!』  屈託のない笑顔を咲かせた命花が差し出したのは、淡い空色のお守り袋だった。  布は無地で袋の口は、紺碧色の紐と可憐な葉っぱ付きの白い造花で結ばれている。  某百円ショップの手芸コーナーで販売されている、手作りお守りだ。  布から紐の色と種類から飾り付けまで自由に組み合わせ、オリジナルのお守りを作るキットが小中学生に人気だ。  小学生の娘を持つ三島から教えられた。  きっと娘は母親を少しでも励ますために、わざわざお守りを手作りしてくれたのだ。  昔から命花は美琴へ、小さな贈り物をたくさんくれた。  野に咲く花から自然の木の実、家庭科実習で作った固くて香ばしいクッキーやほつれたハンカチ、何故か唯一苦手な似顔絵まで。  不器用な娘の真心がこもった贈り物に、いつも美琴は心慰められた。  『ありがとう、命花。すごく嬉しい』  『きっと、このおまもりはママをまもってくれるよ……だからげんきだしてね』  無邪気な祈りをこめた声に、琴線を震わされながらも、美琴は娘を抱き締めた。  『そうね……ありがとう命花……ずっと大好きよ』  『わたしも、ママのことずーっとだいすき……』  耳許で囁き合う愛と朝陽の祝福に満たされる中、二人の日常は明けた。  それでも、美琴の胸に巣くう不安の種は、拭えないままだった。  このまま、何も起きなければいいのだが。  小町警察官の情報から、美琴は野生動物襲撃説が濃厚だと信じた。  悪意を持つ人間の仕業ではなく、自然災害や獣災であれば、命花は容疑者から外される。  反面、獣の仕業であった場合でも、別の不安に襲われる。  もしも、命花達が登下校中に危険な野生動物に遭遇し、先輩二人の二の舞いになる可能性も考えると気が気でならない。  警察には一刻も早く事件を解決してほしい、と美琴は真に祈るばかりだ。  「そういえば天野さん。最近の命花ちゃんの様子はどう?」  午前中の診療時間は終了し、昼休憩に入った時に三島は美琴に尋ねた。  「はい。思ったよりも元気そうです。ちゃんと毎日通学して、真っ直ぐ帰ってきますし。やっぱり大学の勉強は楽しいようで」  「そう。それを聞いて安心したわ」  三島は命花のことは当然、実は何よりも美琴自身を気にかけてくれる。  三島の気遣いを、美琴は有り難く感じながら口を開いた。  以前と変わらない、とは言い難い点はあるが命花自身がいたって安定しているのは事実だ。  穏やかに零れた美琴の答えに三島も安堵で応え、直ぐに茶目っ気な笑みを浮かべた。  「命花ちゃんが元気なのも、やっぱり”噂の佐藤君”のおかげかしら? 彼と命花ちゃんはどうなの?」  何時になく、楽しげな笑みで朗らかに訊いてくる三島の意図を察した美琴は、苦笑で首を振った。  「いえいえっ。佐藤君とはそんなつもりでは……命花とは、良いお友達なだけです」  「あらそう? 話を聞いていると、佐藤君は好条件だと思うわ。誠実で優しくて、命花ちゃんの特性に理解を示していて、同じ分野を学んでいる。命花ちゃんとお似合いよ」  思わず否定した美琴だが、三島の冷やかしに改めて逡巡してしまう。  佐藤裕介は誠実で穏やかな好青年なうえ、周りから浮いている命花を唯一気にかけてくれた。  事件当時から今も命花に付き添い、絵描きに没頭する命花に気分を害する様子もなかった。  むしろ、命花の独特な絵の感覚(センス)に一目すら置いてくれた。  きっと、命花に対する同情や無粋な好奇心からではない。  自閉スペクトラム症の面もひっくるめて彼女自身に興味を寄せ、優しくしてくれていると思った。  「あれ? 天野さんの携帯が鳴っているわ」  「あ、本当ですね。誰からでしょう……?」  談笑の途中で振動した美琴の携帯端末の画面を確認すると、最近登録したばかりの氏名と番号が表示されていた。  「佐藤君からだわ」  「あら、噂をすれば」  奇しくも絶妙な時期にかかってきた着信は、話題の中心を占めていた佐藤本人からだった。  「もしかしたら命花ちゃんとのことで大事な話がありますって、言ってくるのかも」  「もう、やめてくださいよ。三島さんってばっ」  親戚の叔母さながら、横から微笑ましそうに茶化してくる三島。  美琴は苦笑しながらも、満更ではなかった。  他者とは異なる感覚と振る舞いを備えた命花の恋愛や結婚、それに伴う困難を考えたことはある。  命花の特性を理解して受け入れ、彼女に合わせるか、彼女自身が合わせられる相棒(パートナー)との出逢いと結びつきは、この狭い和国の瑠璃島では望みが薄いだろう。  正直美琴は薄々諦めていたが、もしも二人にその気があれば――佐藤こそは――。  「もしもし? 佐藤君」  不安と期待半々で妙に緊張しながら、美琴は極力平静な声で着信に応じた。  『もしもし! 天野おばさんですかっ。突然連絡してしまってすみません!』  しかし、携帯端末のマイク越しに響いた佐藤の声は、ひどく焦っている様子で切迫していた。  しかも佐藤の音声の背後から遠く鳴り響いているサイレン音は、少し耳障りだった。  突然の着信とただならぬ雰囲気から、瞬時に良くないことが起きた、と察した美琴の心臓は早鐘を打つ。  「どうかしたの? 何があったの?」  『本当にごめんなさい! 僕がついていながら、こんなっ』  「まさか、命花に何かあったの……?」  戸惑い気味ながら優しく問いかけた美琴に対し、佐藤は心底申し訳なさそうに謝罪を零した。  聞いている方が気の毒に思えるほどの狼狽ぶり、と罪責感を示す佐藤に、美琴は嫌な予感を止められない。  痛ましい沈黙が流れた数秒後、佐藤は意を決して状況を伝えてきた。  『命花さんは今……救急車で運ばれています! 怪我をした他の同級生と一緒にっ」  「っ――命花が?」  『行き先は瑠璃唐草総合病院です……』  絞り出すような声の佐藤からの連絡を耳にした途端、美琴は全身から血の気が引いた。  「分かったわ」、と簡潔に返した美琴は、通話を切ると直ぐにロッカーを開けた。  無言で鞄だけを乱暴に引っ張り出した美琴のただならぬ焦り様に、三島も異変を察した。  しかしながら、三島に一言謝った美琴は説明の余裕すらないまま、クリニックを飛び出した。  「(命花……! どうして、あなたばかり、こんなことにっ)」  仕事着の白衣姿で駆け抜ける美琴へ、道ゆく人々は怪訝な眼差しを向ける。  一方、美琴は途中でタクシーを捕まえると、命花の搬送先の病院へ急ぐよう詰め寄った。  目的地への到着まで車で約十五分の間、美琴は理不尽な不安と困惑が渦巻く中、ひたすら娘の無事を祈った。  *
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