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第一話『苦悩』
『娘』の話をしよう。
娘は精神保健福祉士の母親と教育学者の父親の間に生まれた。
娘は命の花と書いて『命花』と名付けられた。
娘は夫婦にとって命であり、花のように優しくて美しい人間へ育つように、と願いを込めて。
夫婦にとって唯一無二の宝として、娘の生まれは祝福された。
娘は命のごとく清廉無垢、花のように静謐可憐だった。
娘は野に佇む花のように物静かで、変化に不安を感じやすい繊細な気質だった。
それでも赤ん坊と遜色ない無垢な微笑み、動植物や自然への強い関心と愛情は天使さながら愛らしいものだった。
娘は両親にとっての愛し子だった。
たとえ、他の子どもと同じ言葉を喋らなくても。
生まれながらに、自分達とは異なる宇宙で生きる存在であったとしても。
「それでは、今日もよろしくお願いします」
昨年と比べて花冷えの日が長引いていた中春の早朝――。
この日も『天野美琴』は、出勤のために玄関で靴を履きながら、携帯端末の通話相手へ、依頼内容と時間割の確認をする。
相手は今村洋子・行動援護従事者だ。
二十代後半の若手だが、福祉業界では技術も心構えもベテランに恥じないものだ。
上司の知り合いから紹介されて契約した人物なだけあって、信頼に足る仕事ぶりを見せてくれた。
『それでは……今日も予定通り、午前八時〇分に自宅へ迎えに行き、午前八時二十五分発・瑠璃華大学前駅行きの電車に乗り、午前九時〇分開始の一限目「基礎心理学I」の講義に間に合うようにします』
未だ若くて優秀でありながら決して気取らず、むしろ穏やかで落ち着いた雰囲気は無条件に安心感を与えてくる。
その辺りは、今村を紹介してくれた知り合いとは意見が一致し、娘すら彼女に懐いているのも頷けた。
「いつも丁寧にありがとうね……それじゃあ頼むわね、今村さん」
今日も、嫌そうな声色一つ出さずに依頼内容の流れを事細かに説明してくれた今村に、美琴は感心と感謝を抱きながら通話を切り上げた。
洗髪料だけでまともに手入れしていないパサついた亜麻色の髪を、ゴムで無造作に一束ねする。
「マーマ」
氷砂糖を溶かした水のように甘く透きとおる声。
いつの間に気配もなく近づいてきたのだろうか。
突如うなじに雪を当てられたような柔らかい寒気に、肩を軽く跳ねさせた美琴は振り返った。
「おはよう。もう起きていたのね?」
ごく自然な微笑みを張り付けて応答する自分に美琴は、患者と接している時と同じ居心地の悪さを覚えた。
「うん。ママのでかける、おと、がしたから」
「そう……ごめんね、起こしてしまって」
「ううん。ママが、おしごといくまえに、かお、みたかったから」
機械仕掛け人形じみた話し方、抑揚のズレた声色は特徴的だ。
あどけない眼差しに舌足らずの稚拙な話し方は、昔から変わらない。
やはり、娘が来年に成人を迎える女性には到底見えなかった。
しかし、娘の年齢に不相応なあどけない口調と雰囲気は、不思議と愛らしくて微笑ましさすら喚起させる。
「ありがとう……先に行ってくるわね。後であなたも気をつけて」
「うん、ありがとうママ。いってらっしゃい」
美琴の心内を知る由もない娘は、天真爛漫に答える。
無邪気に細めた瞳に映った母・美琴も、自然と笑顔を浮かべる。
無垢な愛情と無条件の信頼を惜しげなく寄せるこの娘の前では、嘘も恐れも全て無意味なのだ。
「きょうも、ずっとだいすき……」
踵を返す前に、娘からぎゅっと強く抱きつかれた美琴は足を止めた。
腰辺りまで伸ばした長い黒髪は一度も染めたことがなく、洗髪料の自然な甘い香りが仄かに漂った。
既に自分を追い抜きそうな身長まで成長した矮躯から伸びる、無垢な白い両手に絡まれる。
しかし、耳許をくすぐる囁きはどこまでも幼く甘やかで、胸は妙にざわついた。
胸の辺りに小さな固い感触がコツっと当たる。
娘が昔から大切にしている首飾りだ。
青い地球みたいな瑠璃石が、娘の首元で煌めく。
楕円にトゲトゲを生やした太陽かお花が半分に欠けた形状を成す。
深い瑠璃色に澄み輝く石は不思議なことに、赤ん坊だった命花が持っていた。
胎児が石を握り締めた状態で産まれた不思議な現象に「きっと神様の贈り物ね」、と。
浪漫的な助産師の台詞に、美琴も微笑みを止まらなかったのは未だ記憶に新しい。
命花自身も不思議な瑠璃の石を首飾りにして、肌身離さず大切に持ち続けていた。
「……私もずっと……大好きよ」
きっと、娘には理解し辛いだろう。
母親である美琴は、いつも何を胸に娘を想うのか。
「愛しているわ、命花」
娘の全てを愛し慈しみながらも、胸の奥で密かに巣食う影の感情を。
「いって、らっしゃい、ママ」
「……そうだ。今夜は仕事が長引きそうだから、夜ご飯は一人になってしまうけど、大丈夫ね? 夕食は冷蔵庫に入っているから」
「うん、だいじょうぶ。『エルゥ』といっしょだから、さみしくないよ」
まただ――今最近始まったことではなく、昔から繰り返し耳にし飽きた言葉。
大学でも、同じことを周りに言いふらしていなければいいのだが。
娘の自室に飾られたカンバスやスケッチブックにいる『後ろ姿の天使』――。
薄氷さながら虚ろに凍った瞳の娘――。
否、今は思い出すのをやめよう――。
美琴は、瞳の奥に焼き刻まれた記憶景色を振り払った。
内心溜息を吐くと同時に、不安の暗雲が立ち込めていくのに気付かないフリをした。
「そう」、と否定も肯定も乏しい曖昧な返事だけをして、やっと玄関の外へ踏み出した。
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