第三話『真紅』

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 『命花は高機能自閉症の女児という「希少価値」の高い症例だ。文字言葉の表現に比較的富んだ自閉症者の書籍は女性が大半を占める。彼女達は診断を見過ごされ、過酷な環境で育った』  『だが、もしも命花に幼少期からな療育と教育を受けさせれば、何か変わるかもしれない!』  夫の娘・命花に対する愛情を疑うようになった理由は、夫の純真な知的探究心と身勝手な研究的打算だった。  命花の診断宣告の時から夫へ抱き始めた違和感の正体は、ようやく浮き彫りになった。  宗也は自分の見識と医師の診断が読み通りに一致した結果へ、満足そうに目を細めていた。  さらには、命花を自閉症児向けの療育センターへ通わせ、特別支援学級・学校への進学を勧めた。  ここだけ聞けば、宗也は我が娘の特性を受け入れ、公認の支援を積極的に受けさせようとする良き父親だろう。  しかし、宗也が療育と特別支援教育へ固執したのは、父親として娘の特性と将来を入りしているからではなかった。  高機能自閉症の女児という”珍しい症例”の命花へ、通常の特別支援教育と療育を受けさせたらどういう結果(データ)を得られるのか――いわば自分の娘を”研究標本”として見なしていたのだ。  障害福祉の教育学者だからと言って、何故夫の人間性まで無条件に信頼したのか。  夫の本性とそれ見抜けなかった己の愚かさを、美琴は悟った。  美琴が夫へ見切りをつけたのは、命花が小学一年生になった冬の時期だった。  『命花は私の決めた学校へ転校させる。あちらとはもう話と手続きを進めてある』  『勝手すぎるわ。せっかく命花は、今の学校での勉強と先生を気に入っているのに。それに、私だって仕事があるのに急に引っ越しだなんて』  当時の命花が在籍していた小学校には、常時支援と介助を要する重い障害児向けの特別支援学級しかなく、市内にも特別支援学校は存在していなかった。  すると、宗也は現住所から車で三時間以上も離れた田舎町にある特別支援学校へ命花を転校させる手続きを、勝手に独断で進めていた。  貴重な娘を自分の選んだ研究舞台へ放り込むためならば、娘にとっては慣れ親しんだ街と優しい大人達との離別、妻の職場への迷惑と信頼の失墜を伴う引っ越しを強いたのだ。  娘と妻の都合と意思を無視した夫の独善的な行動に、さすがの美琴も黙認できなかった。  特別支援学校への編入へ固執する宗也、慣れた地域と人々に囲まれた普通学級での現状維持を願う美琴の意見は対立した。  今回ばかりは、美琴は母親として今の命花の状態と気持ちを、第一に尊重したかった。  夫婦の諍いが続いていた途中、いくら説得を試みても譲らない妻に、夫は痺れを切らした。  『崇高なる私の研究と娘の成長を邪魔するなら、お前だって許さないぞ』  怒りでカッとなった夫・宗也は美琴を平手打ちした。  殴られた勢いで尻餅をついたまま呆然と床を見つめる美琴に、夫は吐き捨てた。  素直に従わなかった美琴の自業自得だ、と咎めるばかりに。  たった一度きりの暴力に、衝撃と恐怖を覚えた美琴の頭には、二文字の選択肢が浮かんだ。  きっと、――。  アレは夫へ燻らせた強い失望や怒り、恐れと不安で混乱していた自分が見せたと悪夢だったに違いない――。  *
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