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天野命花は今まで出逢った女子の中で、最も唯一神秘的で独特な存在だ。
最初に出逢った母親は、顔も名前すら生まれた直後に忘れた。
二番目は、児童養護施設の寮母。
猫のようにおっとり微笑み、猫のように叱り、母猫のように抱きしめてくれる、世間一般でいう理想的な親らしい親だった。
三番目と四番目の女は、同じ施設に入っていた孤児。
片方はガサツで男勝りなため、他の子ども達には男女と揶揄われ、保育士には可愛げがないと疎まれていた。
もう片方は、対照的に可憐な女の子らしいタイプで、他の子どもの憧れの的で、保育士には模範生と贔屓されていた。
しかし正反対な二人は、同じ陰険で泥棒な性質を備えた「女」だった。
男勝りな女児は、内面で惨めな劣等感と意中の異性への恋心を燻らせていた。
他の女児を軽蔑し、憂さ晴らしに気に入らない子どものモノを盗み隠し、遊具からこっそり突き落とした。
可憐な女児は、女子の長的存在として恋の協力者を装いながらも、男を掻っ攫っては飽きて捨て、嘘の美容・ダイエットの助言によって相手を貶めていた。
佐藤裕介は十八歳まで施設で生まれ育ち、念願の大学進学までの間に出逢った他の女達も、大体そうだった。
大概の女は、感情的で非論理的で嫉妬深くて理不尽な反面、面倒見が良く柔軟で感受性の鋭い生き物だ。
ただ、稀有な変異種を除いて――。
『何を描いているの?』
彼女は広い教室の最前列に、一人きりで座っていた。
尾骨辺りで跳ねる長い黒髪を無造作にひと束ねていて。
一五〇にギリギリ届かない華奢な体をすっぽり覆う、毛布みたいに野暮ったい白のスウェットワンピース。
花茎みたいに細く青白い首には、魔女が好みそうな瑠璃石の花が咲いた首飾り。
ファンデすら塗っていない素顔。
若さと美貌、お洒落に恋愛といった青春の絶頂期にある女子大生らしからぬ彼女は、異彩を放っていた。
『――わたしに、こえをかけているの?』
言葉を覚えたての赤ん坊さながら、たどたどしい調子で奏でられた声は、氷砂糖のように甘く透き通っていた。
初めて真近で見た彼女の顔は、幼女さながらあどけなく、人形めいた色の白さに輝いていた。
容姿だけでなく、中身の幼さも匂わせる話し方とズレた抑揚は、ますます彼女を十四歳程度の少女に見せた。
選択科目の発達心理学で、唯一最前列に座って真剣に講義を受けている『天野命花』に目が入ったのが、きっかけだった。
周りの同級生は、教壇から極力距離を取って授業を聞き流し、お喋りや携帯端末いじり、他の授業の課題に暮れ、真面目に勉強するつもりがアルバイト疲れ、退屈と睡魔に負けた者達ばかり。
しかし、天野命花だけはいかに退屈で難解な授業も毎回、最初から最後まで居眠りしたことがなかった。
尋常ならぬ集中力を密かに発揮する天野命花が気になった自分は休憩後、思い切って彼女の隣へ移動してみた。
『授業のプリントに絵を描いている女子は他にいる? それで、ソレは何だい?』
しかし、意外にも命花は先生の説明や補足を事細かに書き足した講義資料の空欄を、落書きで埋め尽くしていた。
一目で興味と驚きをそそられた自分は、命花に絵のことを訊ねた。
『エルゥだよ。紀元前……聖書より古のバビロニアに起源を有する聖霊』
質問されているのが自分であることに直ぐ気付かなかった天然ぶりに加え、狂執的な趣味と関心を匂わせる斜め上な回答に、佐藤は一瞬反応に窮した。
『そうなんだ……エルー? ってどんな聖霊?』
バビロニアとか、名前しか聞き覚えのない少数派な神話・歴史の話、もしくはそれに基づいた独創的存在の類かもしれないと思いながら、佐藤は質問を続けた。
『エルゥはね、肥沃の大地バビロニアに存在した深い森……無垢なる命達の聖域を守護する神の霊なの。森みたいに広くて、太陽みたいに温かくて、天使みたいに優しい存在なの』
エルゥという謎の神霊について熱心に語る時、命花の声は知的で凛と大人びていた。
しかし、天真爛漫な笑顔は花のようで、瞳は無垢な心に輝く純粋な少女みたいだった。
内容こそ意味深で幻惑的ではあったが、いつの間にか自分は彼女の言葉一つ一つに興味を惹かれた。
天野命花の心の内側は、未知なる宇宙さながら広大で美しい何かで構成されているのだ。
その何かの正体を知るべく、佐藤は科目履修登録完了時には命花と同じ授業を選択し、教室移動や時間変更に戸惑う彼女を支えることを希望した。
大学サークルに関しても、命花が唯一関心を寄せた心理学研究サークルと絵描きサークルの二つの体験利用を共に梯子している。
『エルゥ……エルゥ……♪』
すると、当然ながら命花という天真爛漫な”少女のまま大人になろうとしている”人間について色々と知った。
架空の神霊エルゥ、と瑠璃唐草もどきの同じ絵を繰り返し描くのが好きなこと。
大学では、心理学とオリエント文学の勉強に熱いこと。
聞き取り辛さや情報処理力の課題から騒然とした食堂や人混み、複数人との同時会話が苦手なこと。
固くて生臭い食べものが苦手なこと。
柔らかくて甘いものは、食べるのも触れるのも嗅ぐのも好きなこと。
爽やかな自然や動植物、キラキラ輝く鉱石やビー玉が好きなことなど。
中学時代は、同級生にいじめられて一度不登校になったが、母の働く精神・心療内科クリニックの職員との出逢いを機に、公認心理師を目指していること。
何よりも神霊エルゥに心酔していることまで……隠し事をしない彼女は、素直に色々な質問へ答えてくれた。
『いつも、ありがとう。さとーくんは、やさしいね』
他の女子とは違い、普段は基本的に物静かで雑談に疎い。
その上、あまり世俗や他人に興味がかなり希薄な命花は、傍にいる佐藤を良くも悪くも「空気扱い」していた。
しかし、あまり人を寄せつけない独特の雰囲気を持つ命花も、やがて佐藤に対する信頼を垣間見せるようになった。
思い切って心理学研究サークルの新入生歓迎会へ誘ってみれば、命花は「かんがえるじかん、ほしい」と保留してから後に応じてくれた。
学内では佐藤以外の学生と話すこともなく、孤立気味な命花に歓迎会を通して友人を増やせればと思った。
しかし、良かれと思った佐藤の作戦は、空回りする羽目となった。
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