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ほとんどの先輩達は心理学研究という名ばかりの適当な占いとアンケートで遊び、サークル活動費は研究食事会という名の飲み会に使い潰していた。
案の定、歓迎会では蜜柑果汁洗礼の餌食になった数名の新入生がいた。
彼らの内の一人になりかけた命花は、自分がとっさに庇わなければ、確実にジュースと勘違いして飲んでいた。
佐藤のとっさの機転で「天野さんには軽度のアルコールアレルギーがあるみたいで」、と誤魔化した。
先輩の無茶振り洗礼を逃れた後も、歓迎会は一気に合コン飲み会さながらの白熱した雰囲気に呑まれた。
強烈な酒気と焼けた肉、香水と汗の入り混じった匂いと熱気、酔っぱらいカラスさながら耳障りな騒ぎ声に胸焼けを覚えた。
案の定、隣の命花は終始無言で俯いて自閉の殻で自分を守っていた。
この前の金曜日は、今年最悪の夜になるだろう。
仕方なく嗜んだ麦酒が災いして催し、たまらず駆け込んだ手洗い場で散々待たされた。
やっと戻って来たら、命花はいなくなっていた。
代わりに、パリを歩き回るモデルさながらやたら派手な服装と濃い化粧、甘ったるい香水と酒気を纏った『加納エレナ』に席を陣取られていた。
しかし、真っ先に気になった命花の行方を加納に教えてもらった自分は、またしても駆け出した。
全身の血が悪魔に吸い尽くされそうな悪寒に襲われる中、焼肉店の駐車場で、ほんの一瞬――見てしまった――。
『十二日の夜のことだけどさ……天野は、覚えてない? その……駐車場で、先輩が』
『おおけがして、にゅーいんしているんだよね? かわいそう。はやくよくなるといいね』
先輩二人が「頸部から胸部を裂き抉られる」凄惨な事件現場となった駐車場へ駆けつけ、直ぐ救急車と警察へ通報した第一目撃者である佐藤だけは知っていた。
ただ、この目で見てもにわかに信じ難かった。
事件以降、胸にわだかまっている一つの疑念の確証を得る鍵は、同じ現場に居合わせた「命花の記憶」だ。
しかし、肝心の彼女は、事件当時の記憶を思い出せずに首を傾げるばかり。
『天野は……先輩を襲ったのは、熊か狼だと思う?』
『ごめん、わからない』
『そっか。犯人が未だ見つかってないから心配だな……』
『それなら、だいじょうぶだよ』
命花は天真爛漫な笑顔を咲かせながら、無邪気に零す。
『エルゥがまた、まもってくれるから。まっしろいおばけさんを、たいじしてくれたの』
友人としては日が浅いとはいえ、佐藤は命花という純真な人間を理解しているつもりだ。
命花は嘘をつけない。
むしろ、他人の簡単な嘘を鵜呑みにするくらいだ。
自分を毒牙にかけようとしたかもしれない先輩二人の悪意に気付きもせず、入院中の彼らを心配する命花は、他人には無関心だが、決して冷酷ではない。
命花の特殊性は「自閉スペクトラム症」、という先天性の発達症が基礎にあることを彼女の母親から知り、ようやく腑に落ちた。
それでも、事件以降の命花の不可解な台詞は、佐藤の胸を曇らせる。
『エルゥはやさしいから、ともだちのさとーくんのことも、きっとまもってくれるよ』
命花の口から零れない日はない存在は、彼女が創った守護霊。
実在したかも不確かな古代神話の精霊、いずれにしろあくまで架空の存在だ。
しかし、命花はあたかもエルゥがそこにいるような口ぶりで語る。
エルゥに心酔する命花の甘い炎の眼差し、愛しさに滲み溢れた声は、まるでイエス・キリストに恋焦がれる乙女を彷彿させた。
聖なる狂信を香らせる命花の言動に、佐藤は空寒さと同時に好奇心をそそられた。
命花の隣を望む自分の気持ちは、心理師の卵として彼女への症例的な興味か、彼女の純朴な人間性への好意から来るのか、それとも――。
「あれ? おい、裕介。あの女子じゃね? ほら、お前とよく一緒にいる」
四月十九日の正午――二限目の必修英語の授業を終えた後。
佐藤は同級生と一緒に話しながら移動していた。
金曜日の二限目では、命花とクラスが分かれているため、彼女に逢えるのは昼休みだ。
普段は、最も混雑する昼休み開始直後の生協店の前で、待ち合わせる。
しかし、生協と食堂のある旧校舎の道中にある中央広場を指差した同級生に促された佐藤は、視線を追った。
途端、信じ難い光景を映した佐藤の双眸は、愕然と見開いた。
「ちょ……!? 佐藤!?」
突然、俊足で駆けた佐藤に、隣の同級生は驚きの声を上げた。
しかし、既に数メートルも前へ突き進んでいた佐藤の耳には、同級生の声どころか周囲の守衛と野次馬の姿と声すら届いていなかった。
学内では見間違えることなく、一度見れば忘れられない。
毎日同じ白地の野暮ったいスウェットワンピースに床を擦る長い黒髪、矮躯に不釣り合いの大きなリュックサック。
人垣に遮られた視界の断片に映る特徴は、まごうことなき天野命花だ。
広場の中央を囲む守衛、と救急隊員の人垣を猪突猛進に突き破った佐藤は、友人の下へ辿り着いた。
「天野! 天野……! どうして、こんな……っ」
しかし、命花の心と体は沈んでいた――。
"五体の血濡れ人形"に囲まれた血の池の中心で、青白い眠り顔を晒しながら――。
濡れた地面へ落ちた花びらのように血溜まりで転がっている六人は、一斉に激しく咳き込んだ。
彼女達の唇からは、真っ青な空を塗ったような美しい花びらが吹き舞う。
***次回へ続く***
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