第四話『侵蝕』

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第四話『侵蝕』

 天野命花は、不気味なガキっぽい女だった。  高名な国立瑠璃山大学にめでたく合格し、完璧な青春の大学生活を謳歌するはずだった加納エレナの苛立ちは頂点に達していた。  エレナは早速、「在学中限定彼氏」と将来有望な「婚約者候補」となる男を品定めしていた。  最初に目をつけたのは、心理学研究サークルの書記を務めるアイドル系のイケメンで楽しい浅山先輩。  もう一人は、誠実系の爽やかイケメンな優等生・佐藤裕介だった。  彼氏候補の浅山先輩は、見た印象を裏切らないサバサバした遊び人だが気前も人当たりも良かった。  エレナの積極的な接近(アプローチ)にも乗ってくれたのは、好感高い。  婚約者候補の佐藤裕介に対しては、新入生歓迎会と言う一大イベントで接近を図り、エレナを印象付けるのが効果的だと思った。  しかし、エレナの完璧な大学生活、と未来計画を妨げる目障りなはいた。  「ねぇ、ちょっとアンタ」  「……♪ ……♪」  「ちょっと! 聞いてんの!? シカトしないでよ!」  「っ……!? えっと、わたしに、こえをかけているの?」  大学内の一角に茂る竹林を突き抜けた先にある、満月型の湖畔に咲く瑠璃唐草の茂みで、天野命花は絵を描いていた。  二度目の声かけで、命花はようやく自分が呼ばれているのだと気付いた。  苛立ちに声を荒げたエレナに、命花はか弱い小鹿みたいに怯えて応じた。  しかし、目の前のエレナと後ろで仁王立ちする五人の取り巻き……事件に巻き込まれたサークルの女子生徒を、"見ているようで見ていない"透明な瞳は、神経にさわる。  「アンタ以外に誰がいるの? 耳と目がついてないの?」  「すみません。きづかなくて……」  部屋着みたいに野暮ったい白地のスウェットワンピースに、履き潰した灰色の運動靴、山登りでも行きそうな大きいリュックサック、伸ばしっぱなしの毛先がボサついた長ったらしい暗い黒髪には、別の意味で釘付けになる。  見た目を裏切らない、舌足らずな口調と幼稚な仕草、たどたどしくズレた抑揚。  天野命花は、自分と同じ成人前の女だと(にわか)に信じ難いほど、小柄で童顔の地味な容姿だ。  今時の幼稚園児のほうが、お洒落で地に足がついている。  明らかに垢抜けない命花は、エレナを含む他の女子の失笑を買った。  それだけなら、歯牙にも掛けない存在で済むはずだった。  「アンタにはっきり言うわ。佐藤裕介君に近付かないでくれる?」  「え? さとーくんが? なんで?」  「あんな事件があったのに、よくもなんで? ってシラを切るわけ? アンタが一緒にいると、佐藤君に迷惑かけてるのが分からない?」  佐藤と距離を置くよう、エレナが要求する理由を分かっていない命花は、心底不思議そうな眼差しを浮かべる。  あの知的で誠実で容姿端麗な佐藤裕介は、何故よりによって、天野命花という地味で愚鈍、不気味なオタク女を気にかけるのか理解に苦しむ。  「えっと、わたしは、さとーくんといっしょにいたら、ダメなの?」  エレナの真意をようやく理解したらしい命花は、困惑気味に問う。  それでも、自分の言動は如何に他人を苛立たせ、不愉快にさせているのかに無自覚な眼差しは、エレナ達の神経を無性に逆撫でした。  「当たり前よ! 歓迎会の事件だって、浅山先輩と小野先輩が襲われたのは、アンタのせいなんでしょう?」  「で、でもわたし……ごめんなさい……なにも、おもいだせなくて……せんぱいたちのけが、はやくよくなってほしいっておもって……っ」  「はあ? 覚えていないとか! よく抜け抜けと! つまりアンタは疫病神なの! じゃないと、先輩達と友達がひどい怪我をしたのに、どうしてアンタだけ無傷なの?」  「本当よ! 私なんて、腕に痕が残ったらどうしてくれるのよ?」  凄まじい剣幕でまくしたてるエレナに続く者達は現れた。  後方で控えていたエレナの同級生三人と浅山先輩、親しい先輩二人も寄って集って命花を責める。  「テレビでは野生動物か通り魔のせいだって噂されているけど、本当はアンタが先輩達を襲ったんじゃないの?」  「ち、ちがう……わたし、そんなことしない……っ」  「じゃあ、何でアンタだけ無事なのよ? 忘れたのも嘘じゃないの?」  エレナ達は慕っていた先輩に全治三ヶ月以上の致命傷を負わせ、焼肉店の出火で学生を火傷させ、さらには事件のショックと先輩の不在から暫くの活動自粛を余儀なくさせた元凶は、”唯一無傷だった”命花だと決め付ける。  エレナの狙いは、浅山先輩の身代わりにならず、佐藤裕介と馴れ馴れしくしている命花への、逆恨みと憂さ晴らしだった。  さらに、事件によって蓄積された他の女子生徒の怒りと不満を命花へ集中させることで孤立を図り、佐藤から引き離す計算も入れていた。  やがて増長(エスカレート)していく疑惑と罵倒の大合唱。  最初は弱々しく首を振っていた命花も、恐怖に凍り伏せた。  「いいこと思いついわ。《ゲーム》をしましょう?」  悪意に耐性がなく無垢に怯える命花の眼差しは、エレナ達の嗜虐心を芽吹かせた。  エレナは、命花の胸に大事そうに抱えられていた絵描き帳を、強引に奪い取った。  絵描き帳の消えた腕を真っ青な表情で見つめる命花を、エレナ達は嘲笑うと走り去った。  「返してほしいなら、自分で取り返せば?」  「佐藤君と私達の前から消えてくれたなら、返してあげないこともないわよ!」  命花は大切な絵描き帳を取り返そうと、息を切らして必死に走る。  しかし、命花の全速力はエレナ達には亀の鈍足に等しい。  甲高い声で歌い笑いながら軽やかに走るエレナ達は、華麗な白鳥の群れになった爽快感に酔いしれる。  一方、鈍い足取りでハアハアと惨めに息を切らし、段々と距離を開ける天野命花はさしずめ醜い家鴨(あひる)だ。  ずっと胸に燻らせていた不満や苛立ちは、痛快な炎に燃える。  愉悦の美酒を注ぎ込んださらなる陶酔感に、エレナは仲間と共に笑う、嗤う。  「おねがい! かえして! 『エルゥ』とのたいせつなっ、おもいでなのっ……かえして!」  いつの間にか辿り着いた旧校舎前の広場に、命花の悲痛な懇願は木霊する。  丁度昼休み直前で集まっていた学生達の怪訝な視線は、エレナ達と命花へ注がれるが、誰も止める者はいない。  「はあ? またエルゥ〜とか、キモい」  「オタクってほんと痛イ奴!」  切羽詰まった表情の命花の口から、『エルゥ』という空想の存在が出る。  エレナ達は、こぞって彼女を侮辱した。  以前、エレナ以外の女子は興味半分で命花に話しかけた際、絵描き帳を埋め尽くすエルゥについて蘊蓄(うんちく)と共に延々と語る彼女に、辟易させられた。  エルゥについてあたかも実在するように語り、現実と空想を混同させた幼い言動に薄気味悪さを覚えた。  今だって、まるで恋人からの贈り物か形見を取り戻そうとするような必死さは、あまりに滑稽で異常だ。  広場の中央で足を止めたエレナ達は、互いに耳打ちした。  天野命花を懲らしめるのに効果的なエレナの考えに、取り巻きも口角を釣り上げた。  「そんなにこの紙切れ達が大切なら……こうしてあげるわ!」  エレナは、命花の絵描き帳を左右から両手で摘みながら高々と掲げた。  エレナの次の行動を察した命花の顔は、色を失った。  エレナ達が一度足を止めたことで、命花は手を伸ばす。  後、数歩で触れられる距離まで飛びかかるが、間に合わない。  絶望に見開いた眼差しで叫ぶ命花に、エレナ達は邪悪な笑みを深め――。  「せーのっ!」  目の前で絵描き帳を――《破り捨てた》。  「――エルゥ……っ」  硝子(がらす)のように透き通っていた美しい宝物が壊される音は、命花の耳朶を打ち付けた。  バラバラに破かれた絵の断片が羽のように宙を舞う様は、無惨で悲しい。  悲嘆に立ち尽くす命花へ浴びせてきたエレナ達の声は、大切な宝の残骸すら、彼女を嘲笑う道具へと穢れ貶めた。  「ああ、ごめんね? ちょっとやりすぎたかもしれないけど、アンタが悪いのよ? これに懲りたら、佐藤裕介には二度近づかないことね」  「私達の視界にも入ってこないでよ! この疫病神」  「いっそ、大学やめちゃったら? てゆーか、来るな! あははははは」  絶望に凍りついた無垢な瞳に、悲しみの墨が広がっていく。  一方、エレナ達の瞳は愉快な輝きに燃える。  青春の魔力が授けてくれる至高の全能感と優越感。  自分達を最上へ昇らせてくれる快楽こそ、天野命花のように低脳で醜い家鴨を踏みつけて手に入るのだ。  中学時代に誰もが悟る真理は、愉悦の炎となってエレナ達に蘇る。  罵倒と嘲笑は火矢のように、天野命花を串刺しにしていく。  「ちょっと、さっきから動かないけど?」  「やっぱマジで耳ついてないんじゃない?」  「死んでたりして? ちょっとアンタ確かめてよ」  「やだ! 触りたくもない!」  固く冷たい地面に膝をついて俯いたままの命花に、エレナ達は嘲笑を浴びせ続ける。  命花の次の反応見たさにエレナは、地面に折れ落ちた桜の小枝を拾う。  汚らわしい芋虫の生死を確かめるように、エレナは枝木の先端で命花の頭頂部をつついた。  「きゃああぁあぁあぁあぁ!」   エレナは、背後から見物している取り巻き達の絶叫を聞いた。  恐ろしい野獣に遭遇したような凄まじい悲鳴に、エレナは何事かと訝った。  しかし、エレナ自身は見ることも訊くことも、叶わなかった。  人工的な華やかさに縁取られたエレナの眼差しは、恐れ慄く取り巻き達を映して一寸も動けなかった。  程なくして視覚を含む五感は、”真紅の闇”に染まっていく中。  純粋無慈悲な『獣』の咆哮は、遠くから鼓膜を戦慄させた――。  *
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