第四話『侵蝕』

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 五月五日――淡い空色の花びらを踊らせる瑠璃唐草は、道なりに咲いている。  当島の象徴たる瑠璃唐草は、胸の暗い燻りを真っ青に浄化してくれるように美しい。  朝陽のぬくもりを吸収したアスファルトの坂道を登る中。  並び建つ邸宅の頭上を雄々しく泳ぐ鯉のぼりや、子ども達の無邪気な笑い声に和む。  「こんにちは」  子どもの日で楽しく賑う世の中の片隅で、息を潜めているような一軒家の玄関で足を止めた。  同時に周りの気配への確認も怠らない。  既に幾度目かの訪問になる家の前に立つと、心臓が引き締められる緊張と罪悪感に疼いた。  「……こんにちは……どうぞ、あがってください……」  微かに開いた玄関扉の隙間、と鎖の施錠(チェーンロック)越しに顔を覗かせた相手は、来訪者を迎えた。  しかし、決して歓迎しているわけではない。  最早、用件を聞いて断る手間すら煩わしそうな態度は、憔悴しきった顔色と声から窺えた。  「ご協力感謝いたします。お邪魔させていただきます」  心臓を巡る灼けつく感情と不快感が増す中、小町警察官は冷静な表情のまま沈着に答えた。  「早く入ってほしい」、と苦言を申される前に足を踏み入れた。  小町を貫く不信と苛立ちの眼差しの奥で瞬くのは、果たして救いを希うだろうか。  「あれから娘さん……命花さんは?」  「あの事件から変わらず……今日も部屋からほとんど出てきません」  爽やかな柑橘香の芳しい紅茶を口に含ませると、小町自身も言い飽きた事務的な質問をする。  すっかりやつれた美琴は、濃い隈で落ち窪んだ眼差しのまま、同じ台詞を零した。  またしても起きた"惨劇"を思い返せば無理もない。  時は遡ること、四月十九日・金曜日の正午。  昼休みで集まっていた多くの瑠璃山大学生達の目の前で、は起きた――。  『瑠璃山大学・事件』が大々的に報道されてから、二週間は経過した。  大学の旧校舎前にある広場に浮かんだ血の池に、在学生の女子七名が倒れているのを警察と救急隊に発見された。  広場を濡らしていた大量の血液源は、被害者だと判明した。  第一被害者・加納エレナは「左頬から顎、肩を斜めへ」状態で、血溜まりに沈んでいた。  加納エレナと同じ、心理学研究サークル内で親しかった残り五名の女学生達も重傷だ。  一人は両腕を骨ごと、二人目は両脚の骨と前腿の皮膚ごと、三人目は下腹部の皮下脂肪、四人目は臀部と裏ももの肉、五人目は毛髪を頭の皮膚ごと裂き剥がされていた。  正視に耐えがたい酸鼻極まる事件現場は、多くの学生に目撃された。  校内とSNS上でも事件の詳細と不穏な噂は、瞬く間に広がった。  幸いか否か、迅速な応急処置と救急搬送のおかげで、被害者は怪我と出血量が危うかったにも関わらず、全員一命を取り留めた。  とはいえ、今も入院している被害者六名には、事件当時の凄まじい恐怖と痛みの記憶による再現(フラッシュバック)等、明らかに急性ストレス障害からPTSD(心的外傷後ストレス障害)による深刻な精神症状が現れている。  そして、事件のもう一人、七人目の被害者である天野命花は――。  「容態はいかがですか?」  「……最近になって、ますますひどくなってきています」  「……と、いうと?」  「……ある日は頭痛と吐き気がひどくて、食べたものを全て吐いてしまい、一日中食事も水一滴すら欲しくないと寝台に伏せて……。かと思えば、別の日は私が出勤で家を空けた間に、冷蔵庫のお肉や野菜、米を食べ尽くして。昨日は突然ケーキが食べたい、と苦しみだしたから仕方なく買ってあげたら、スーパーのホールケーキを、七個も一人で平らげました」  「……他には?」  「ああ……やっぱり、夜は悪夢にうなされて目が覚めるらしく眠れていないみたい。そのせいか、昼間はずっと寝台で十四時間以上伏せている日もあります」  血の広場事件当時、加納エレナ達と一緒に血溜まりに倒れていた天野命花も、救急隊員によって保護・搬送された。  幸い、天野命花も大事には至らず、軽い擦り傷以外は怪我も異常も見られなかった。  暫くの間、医療管理を要する重傷の六人とは違い、天野命花は事件の二日後に直ぐ退院した。  とはいえ、精神的な衝撃(ショック)と恐怖が強かったのか、今は自宅の部屋にひきこもり続けている。  母親の美琴と同級生の佐藤裕介、担当警察官の小町に見守られる中で意識を取り戻した直後も、精神不安定に陥っていた。  『いや! おねがい! もうやめて! おねがい! うばわないで! きずつけないで! こわさないで! おねがい! もういや! こわいのもいたいのもかなしいのもくるしいのも! もう、いやああぁぁあぁ……え、る……たす、けて! たすけてぇ……っ』  小さな赤ん坊さながら、悲痛な形相で半狂乱に首を振り、けたましく泣き叫んでいた命花。  駆けつけた呼びつけた看護師が打った鎮静剤、と美琴の優しい声かけのおかげで、徐々に落ち着いた。  しかし、あの尋常ならぬ怯え様と錯乱ぶりは、今思い出しても痛ましい。  何より理不尽なのは、多くの瑠璃山大生とメディアが一連の猟奇事件の"元凶"として天野命花を疑い、槍玉に挙げたことだ。  命花が最初の焼き肉店事件に続き、血の広場事件において必ず現場にいたことに加え、唯一無傷でいられた理由――。  それは、命花自身が浅山先輩達と加納エレナ達を襲った犯人だと仮定すれば、民衆は腑に落ちる。  現場に居合わせた学生は、事件直前に天野命花が加納エレナ達に私物を奪われ、目の前で壊され踏みにじられ、罵声と嘲笑を浴びせられるという――明らかな"いじめ"行為を目撃した。  加納エレナ達の残酷な仕打ちを鑑みれば、命花の方が被害者だ。  しかし、多くの目撃者がむしろ加納エレナ達とのトラブルと結果、起きた惨劇は命花に原因があると見なしている。  学生達は犯人の烙印を押した挙げ句、外聞を憚った大学側も「療養のための休学」を勧める形で遠回しに"疫病神"扱いしたという。  天野命花の再通学は、現実的に厳しいだろう。  当然ながら小町警察官達も、天野命花を最初の事件の捜査開始時から容疑者と仮定して、取り調べを継続してきた。  とはいえ、天野家にとっては不条理極まりない不幸と世間の冷ややかな対応に、さすがの小町も内心穏やかではない。  しかも捜査の進展につれて、天野命花への怪しさは濃厚になる一方、彼女は無実潔白である証拠も明かされていく「矛盾した結果」が想定される現状に薄気味悪さを覚えた。  「しかも……五日前から、また様子がのです」  常軌を逸した過食と拒食を往復し、不規則的な覚醒・不眠と過眠を繰り返すのは、明らかに異常だ。  本来であれば、今すぐ精神科・心療内科を受診させるべきだ。  聖クリニックでPSWを務める美琴も、その重要性を痛いほど理解しているはずだが、他の問題があった。  事件直後から一週間以降、事件に対する世間の関心は下火になりつつある。  しかし、報道陣は事件の情報を流すだけでは飽き足らず、天野命花の個人情報にまで手を伸ばしてきた。  本人の容貌から大学での立ち振る舞い、さらには彼女の不遇な過去と家庭事情まで晒した。  好き勝手な憶測や非難を報道されている現状を鑑みれば、やむを得ない。  最近、美琴が仕事を休んで自宅にいることが増えた理由は、娘を放っておけない他、好奇と侮蔑の槍雨を避け凌ぎたいのだろう。  学生の本分たる通学どころか、通院すらまともに叶わない状況に気を病んでいる母娘に対し、警察の自分がしてあげられることは。  小町が心許なさげに視線を彷徨わせながら、沈黙に伏す美琴の言葉を待っていると、居間の扉は開いた。 .
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