第四話『侵蝕』

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 「マーマ。おやつたべていい?」  目の前に現れたのは、噂の天野命花だ。  第二の事件以降、命花本人と直接顔を合わせたのは久しぶりとなる小町警察官も、驚きを隠せなかった。  向かいに座っている美琴も、ひきこもりの娘の予期せぬ登場に困惑を露わにした。  「ええ……冷蔵庫の棚にケーキがあるから食べて。ママはいらないから」  「ありがとう! あ……」  困惑しつつもおやつの場所を教えた美琴へ屈託なく微笑む命花は、そこで小町の存在に気付いた。  命花の無垢な視線にいたたまれなくなりながらも、小町は丁寧に頭を下げた。  「どうもお邪魔しております」  「こんにちは……こまちさん? でした? いつも、おつかれさまです」  「え……あ、こちらこそ恐縮です」  命花は小町の顔を数秒見つめてから、思い出した様子で指を打った。  丁寧なお辞儀と共に労いの言葉すら零すと、命花は素知らぬ様子で踊るパタパタと冷蔵庫へ向かった。  最初に逢った時とはまた異なる雰囲気を感じた小町も、狐につままれた表情で美琴へ目配せした。  小町の眼差しが問いかけていることを察した美琴は、肯くように見つめ返す。  「あのね……ママに、はなしたいことがあるから、またあとでおへやにきてくれる?」  「ええ……わかったわ。ママはもう少し話をするから、ゆっくりおやつを楽しんで」  「うん!」  瑠璃唐草の咲いた陶器の皿に、直径十五センチのホールケーキを丸ごと乗せた命花は、上機嫌に声をかけてきた。  瑞々しいデーツと木の実、香草を練り込んで焼いたバターと蜂蜜が芳しい濃厚バタークリームを塗ったケーキは、命花のお気に入り。  いたずらっぽい笑顔と含みのある言葉に、美琴は内心訝りながらも微笑み返した。  命花は待ち遠しげに歌を口ずさみながら、階段を上がっていく。  異様に上機嫌な命花の姿を、美琴と小町は安堵と微笑ましさ、不安がない混ぜになった気持ちで見つめた。  「命花さん、思っていたよりも元気そうで安心しました」  「はい……そうなんです……んです」  現実は、言葉よりも真実を克明に語っていた。  たった今見かけた天野命花の精神は、凪の海のように落ち着き、心は温かな南国海のように晴れやかだった。  だから、命花は"以前の命花"ではなかった――。  美琴と小町の胸に波及した違和感は、氷のように冷たく固まっていく。  天野命花は――。  梔子(くちなし)の花びらみたいに滑らかな肌は、甘く香り立つように。  黒水晶さながら艶やかな黒髪は、流れるように。  無垢な瞳は、湖さながら透明感に輝き満ちていて。  純白のスウェットワンピースから伸びる手足は、花茎さながら華奢で可憐。  愛らしさと美しさを絶妙に織り混ぜた顔立ちは、百年もの人形(アンティークドール)さながら端麗で上品に映った。  存在そのものから香り立つ聖なる美しさ、と相反するを纏うようになった。  血と怪奇の戦慄に満ちた事件は島を騒がせ、被害者達は致命的な後遺症を負った身体に精神を病んでしまったのを他所に――。  唯一、清廉無垢な生命力と美に輝く天野命花の変貌は異様だ。  「いつからあんな風に?」  「あそこまでの変化は、五日前から……」  「事件の後は、あれほど取り乱していたというのに」  「それは……昔、命花が受けていたいじめの記憶と、加納さん達の嫌がらせが重なり、恐怖感情を喚起させられた反応かと。やはり、第二の事件のことも、命花は「覚えていない」ようです……一体誰が加納さん達を傷つけたのかも……」  本来であれば、病的な拒食と過食を繰り返した身体は歪み、悪夢の不眠と瑞夢の過眠、心の爪痕と恐怖に蝕まれた精神は崩壊へ近付く。  しかし、先程顔を合わせた天野命花からは、病の片鱗すら感じられなかった。  まるで、養分を吸収して美しく成長した花のように。  命花が事件の記憶に限って忘れてしまう不可解な現象と、何か関係があるのか。  「小町さんの方は、何か分かったことは? その……事件の犯人について」  「はい、幾つかは。ただ……今回の一連の事件は正直、"不気味"の一言に尽きます。一つ明らかなことは、第一事件と第二事件はであることです」  血で酸鼻極まった現場、体を裂き抉られた被害者、人間技とは思えない痛ましい傷跡。  第一事件と共通点がある第二事件も、噂の未確認野生動物の仕業だろう、と美琴も結論付けていた。  「両事件の被害者の診療録、と治療記録を警察の科学捜査部は分析しました。結果、傷口の形状や深い損傷具合から、犯人は鋭利な牙と爪で、接近に気付かれない俊足を備えた恐ろしい『獰猛生物(ハンターアニマル)』である可能性が高いです」  「なら、人間ではなくて猛獣の仕業だと言うなら、話は早いのでは……」  「しかし、我々警察が調べるほどに、ますます不可解なのです……」  「どういう意味ですか」  ほぼ予想通りの回答だが、小町警察官にしては煮えきらない言い方だ。  普段から冷静沈着な仮面を崩さない彼女の瞳に、不穏な陰りが差す。  美琴が内心訝る中、小町は核心へ迫る。  「傷口に付着した犯人の唾液や細菌、土の成分を動物学者の協力下で分析した結果、どれもが和国のどの島にも存在しないはずのものでした」  「え……?」  「しかも、動物学者の推定では、『ことも分かりました」  小町が報告した内容に、美琴は理解が追いつかなかった。  小町自身も懐疑的な眼差しに、美琴の困惑顔を映していた。  「そして、もう一つ……現場で発見された手がかりとして、私個人が気になっているものが。これを見てください」  事件現場に残っていた手がかりとして小町が提示した写真を、美琴はおずおずと受け取って見た。  空の雫のように青い花びら、とゼンマイみたいな葉っぱが、特徴的な花は映っていた。  一見、瑠璃唐草と見間違う謎の花に、美琴は見覚えがあった。  不覚にも心臓がドクリと高鳴り、頭の天辺が冷え渡る。  小さな砂底の宝を掻き掘っている内に、自分達は広大無辺の砂海に飛ばされたようで呆然とさせられた。  聖書より古に存在した枯骸(ミイラ)の猛獣が、音も気配もなく忽然と人を襲い、瞬く間に消えた。  しかも、惨劇が大衆の目前で起きたにも関わらず、誰も猛獣の姿を確認できていないと言う。  いかに不気味で荒唐無稽な話でも、現場の状況と痕跡から、今はそう結論付けざるを得ない。  美琴は次の言葉を探して、暫し沈黙する。  「お気持ちは察します。警察も、見たままのモノや教授の話を鵜呑みにはしません」  小町も思う所は同じらしく、美琴が感じている懐疑と困惑に共感を示した。  「今では我々警察も大学付近を厳重に警備し、捜査部も専門家チームが始動しました。そしたら、直ぐに明らかになります。常に世を騒がせ、人々を翻弄するのは彼らの恐怖と思い込みに便乗する……"生身の存在"なのですから」  動物学者の唱える超自然的(オカルト)めいた見解を、小町は暗に否定する。  科学の発展が目ざましい現代でも、時に怪奇現象への恐怖や好奇に翻弄される世と人々のために尽力したい。  そんな強い意志も籠められていた。  小町の冷徹な雰囲気と対応に、美琴は身構えてきた。  しかし、捜査の名目で天野宅へ足繁く訪問する小町は、事件によって私生活を狂わされ、世間から孤立している母娘の様子見も兼ねて心配してくれている気がした。  「お忙しい中、いつもありがとうございます」  玄関口で会釈と共に感謝を零した美琴に、小町は意外そうに目を張った。  「いえ、こちらこそ……いつも、ご協力感謝しております。もし……何か気になることがあれば、いつでもご連絡を」  小町は慇懃な口調を変えずに頭を下げると、扉へ手をかけた。  仏頂面は相変わらずだったが、彼女の醸す空気が幾分和らいだ気がした。  一見冷たいが、根は正義感の強い優しい方なのだろう。  最初は苦手だった小町のことを、頼もしく感じ始めた。  小町を見送った美琴は、彼女から渡された緊急連絡先のメモ用紙をそっと握り締めた。  心の隅に渦巻く不安の雲を祓うように。  *
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