第四話『侵蝕』

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 小町警察官が帰った後、美琴は命花との約束を思い出した。  今頃ケーキを平らげて満足し、ソワソワと待っているだろう。  林檎紅茶を淹れたお揃いのカップをお供に、美琴は部屋へ向かった。  「お待たせ、命花。入ってもいい?」  扉越しに声をかけながらノックすると、珍しく「はーい」と上機嫌な返事が聞こえた。  美琴が来るまで健気に待っていた様子から、余程楽しみにしていたのは窺えた。  それほど話したい内容は何なのか、美琴も気になった。  事件の惨劇と外の現状に、不相応な明るい表情に上機嫌な口ぶりから、命花にとって「良き話」に違いない。  「ママ! おつかれさまっ。あのね、さっそくきいてほしいのっ」  美琴がノブへ手をかける前に、命花は先に扉を開けた。  命花は嬉々とした調子で、美琴を部屋の中へ招いた。  途端、美琴の視界は黒灰色の薄闇へ染まった。  命花の部屋は照明すら布で覆い隠し、黒い夜の森模様の窓掛けを広げて真っ暗に閉め切っている。  ここ二週間以上、自室へ引きこもっている命花は、窓越しの光すら厭うようになったからだ。  しかし、今は精神的に安定している様子をみれば、小さな照明を灯すくらいいいのではと思った。  美琴は、林檎紅茶の甘い芳香を漂わせるお盆を勉強机に置くと、灯りを点けた。  すると最初に美琴の瞳へ映ったのは、あの後ろ姿の天使の絵だ。  しかし、絵の中で咲いている瑠璃唐草の絨毯を改めて観察した美琴は「ひっ」、と口元を押さえた。  「ママ……?」  恐ろしさで言葉を失う美琴に、命花は心配そうに声をかけるが、美琴の耳には届いていなかった。  真っ青な花の根本には、ゼンマイを彷彿させる緑の渦巻きが描かれていた。  事件現場で発見されたのと同じ、青い花びらとゼンマイ型の葉は、娘の絵に描かれている。  瑠璃唐草に似て異なる花びらは不吉な空色、葉っぱは悪魔の触手みたいに映った。  「……命、花?」  「あのね、ママ……わたしね」  不意に服の袖を軽く引っ張られてハッと我に返ると、こちらをじっと見上げる命花がいた。  娘の名前をか細く零した口元を押さえながら立ち尽くす美琴を他所に、命花は朗らかに打ち明けた。  「わたしね……――……」  仄闇に染まった部屋に、固い破裂音は鳴り響いた。  空間に充満していく爽やかな優しい芳香が、鼻腔を掠めてから気付いた。  これは、陶器の割れた音だ。  林檎紅茶のカップを、美琴は落としたのだ。  早く飛び散った破片、と濡れた床の絨毯を片付けなければ。  しかし、美琴は爪先どころか息すら止まっていた。  身体は凍りついていながら、震えの止まらない瞳に映るのは――。  「わたし、ができたの――!」  未だ見ぬ愛し子を想う甘い眼差しで、天真爛漫に微笑む命花――。  ちっとも膨らみのない薄い腹を撫でる、小さな両手――。  背後の壁一面を覆い尽くす、おびただしい枚数の闇に浮かぶ――不吉な黄金(目玉)が光った。 ***次回へ続く***
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