第141話 全部ぶつけてやろう

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第141話 全部ぶつけてやろう

『去ッテ――』  血塗れのエルフィーランジュのザラッとした声が、頭の中に直接響いた。  たった一言なのに、指先から熱が失われるほどの寒気に襲われる。平らな場所に立っているはずなのに、足下がおぼつかなくなり、思わず後ろに一歩足を引いた。  彼女の姿は怖い。  だけどそれ以上に、言葉なく伝わってくる冷たい憎悪が、ナイフのように首筋に当てられているみたい。奥歯を噛みしめて堪えなければ、少し震えただけで深く突き刺さるんじゃないかという恐怖に襲われる。  動けない私に、エルフィーランジュが言う。 『去ッテ。私ノ存在ヲ忘レテ、オネガイ』  お願い、という懇願に、向けられていた憎しみが少しだけ緩む。お陰で、彼女の問いに答える心の余裕が僅かに生まれた。 「な、何故……?」 『コンナ醜イ感情ナンテイラナイ。自分ガ自分デナクナルノガ怖イ」 「醜い、感情……?」  次の瞬間、私の心にエルフィーランジュの感情が注ぎ込まれた。  言葉では言い表せなかった。  終始頭の中が熱くて真っ白で、  お腹の奥から煮え立つ何かが喉から噴き出しそうで。  言葉にならない叫びが喉の奥から迸りそうになる。何かを言いたいわけじゃないのに、叫ばずには居られない熱量が、お腹の奥から絶えず湧き出ている。  私と愛する人を引き裂いたあの男が憎い。  私の大切な娘を奪ったあの男が憎い。  私を、大好きなあの国から連れ去ったあの男が憎い。  お前の為だという言葉も、  愛しているという言葉も、    吐き気を催すほど――いいえ、あの男の言葉を受け入れなければならない耳を、壊してしまいたくなるほど、汚らわしくて、忌々しくて堪らない。  あの男の行動が、  言葉が、  存在自体が、  憎くて、憎くて憎くて、憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて――  その憎しみは、ソルマン王だけに留まらず、エルフィーランジュの監禁に関わっていた者、バルバーリ王国へと広がり、何も関係なく幸せに生きている人々にまで及ぼうとしていた。  本来、家族と幸せを奪ったソルマン王へ向けられる憎しみが、関係のないものにまで際限なく広がっていくのが恐ろしくて堪らなかった。  だから、憎しみに染まった自分を封じ込めて、存在自体を消そうとした。 『去ッテ。私ノ存在ハ、忘レテ』  激しい憎しみに翻弄される私の頭の中で、エルフィーランジュの声が響く。まるで、お前に私の憎しみが受け止めきれるのかと、問われているみたい。  だけど、 「……嫌、よ」  唇が動く。  このまま立ち去るなんてしない。  忘れることなんてできない。 「あなたの存在を、想いを……なかったことになんてさせない‼」  憎しみで溢れていた頭の中が、一気にクリアになった。  息が荒い。  全速力で走ったような疲労感が、身体を支配している。  だけど一歩、足を踏み出す。  悲鳴に似た叫びが、脳内に響き渡った。 『来ナイデ! 私ハ、存在シテハナラナイ! コノ気持チハ、皆ヲ不幸ニスル!』  エルフィーランジュが身体を縮こまらせた。  膝を抱え、私の存在を拒絶するかのように俯くと、足下に溜まっていた血が複数、丸く浮かび上がり、私に向かって飛んできた。   そのうちのいくつかが当たったけれど、ただ身体が赤く染まるだけで痛みはない。血がぶつかり、跳ねる音を聞きながら、また一歩、また一歩歩みを進める。  この空間は、エルフィーランジュのための世界。  本気で願えば、私を追い出すことなんて可能なはず。  だけど追い出すこともせず、痛くもない攻撃で威嚇をしてくる。  私を拒絶しながらも、拒絶しないその理由は、きっと―― 「やっと、見つけたわ」  私は彼女の前にしゃがむこむと、視線を同じにした。私の存在を感じたのか、エルフィーランジュが顔を上げる。  何もない黒い空間が、私を見つめる。  初めは衝撃を受けた容貌だったけれど、今はもう怖くない。 「憎んで良いのよ。その気持ちに蓋をしちゃ駄目」  ヌークルバ関所で、ルドルフが私に言ってくれた言葉を思い出す。理解できない感情だからと憎しみを封じ込め、濁らせ、外に溢れさせた結果が、目の前の彼女なんだわ。  私は、エルフィーランジュの肩にそっと触れた。触れた手から、熱くも冷たい憎しみが伝わってくるけれど、拒絶はしない。  微笑みながら、彼女に伝える。  「私は、あなたの存在を、その気持ちを、認めるわ」  彼女は私であり、私は――彼女。  ならば、エルフィーランジュが抱え続けた憎しみも、エヴァ(わたし)のものなのだから。  だけど、彼女は首を横に振る。 『私ノ存在ハ、皆ヲ不幸ニスル――』  この想いが、大好きな人たちを傷つけてしまうかもしれないと、恐れているのね。  でも、 「大丈夫よ。皆、あなたや私が思っている以上に、とっても強くて優しいから。もしあなたが憎しみに飲まれそうになったら、皆が――ルゥが、助けてくれるわ」  今までフォレスティ王国で出会った人たちの顔が、皆と過ごした楽しく穏やかな日々が思い出された。    空っぽだった心に、たくさんの愛を注ぎ込んでくれた、愛する人の姿も。  だけど、倒れたルドルフの姿や、戦いに出ようとするアランの声、そして今この瞬間も、命を懸けて戦い続けているフォレスティ王国の人々の姿がよぎり、エルフィーランジュの肩を掴む手に力がこもった。 「でも、私たちの大好きな国が、人々が、バルバーリ王国との戦争によって窮地に陥っているの! 私は皆を守りたい。守る力が欲しい‼ だから、あなたの力を貸してっ‼」 『私ノ……チカラ? 私ハ何ノ役ニモ立タナイ――』 「そんなことない! だって戦争の指揮を執っているのはあの男――ソルマン・ベルフルト・ド・バルバーリだから」  ソルマン王の名を出した瞬間、エルフィーランジュが纏う憎しみが、いっそう深く、濃くなった。自身を役に立たないと卑下していた雰囲気が、一変する。  ずっとずっと、ソルマン王が怖かった。  どれだけ奮起しても、前世の記憶と感情が蘇り、彼を目の前にすると恐怖が勝った。そんな自分が、情けなくてしかたなかった。  そう。  今、私に必要なのは―― 「前世の恐怖と苦しみを越えてあの男に立ち向う、強い感情と意思。それが、あなたの力であり、皆を救う唯一の鍵」  エルフィーランジュは、憎しみは醜い感情だと、隠すべきだと言った。  けれどその力を正しい方向に導いてあげれば、現状を打開したり、大きな成長に繋がるはず。  その憎しみを――本来向けるべき相手に。  エルフィーランジュが、私に向かって手を伸ばした。  彼女の手が、私の頬に触れる。  闇が広がっていた眼窩の奥に、小さな光が視えたかと思うと、私と同じ紫の瞳が現れた。  瞳を濡らす血は、もう流れていなかった。彼女の喉にくっきりついていた痣は、初めからなかったように消えている。  初めて聴く、エルフィーランジュの肉声が、耳の奥を震わせた。 「私はあの男が憎い」 「ええ、それでいいのよ」 「私はもう、この感情を否定しない」 「否定なんてしなくていい。全部ひっくるめて私なんだから」  強く、強く、頷いた。  この身も心も、誰にも縛られない。  心の自由や誇りは誰にも変えられない、誰にも奪えない唯一のもの。  だから―― 「全部、ぶつけてやろう。あの男に。そして三百年前から続く因縁に、決着をつけよう」  その言葉に、彼女は満面の笑みを浮かべて応えると、私の身体を強く抱きしめた。  目の前の闇が、白く染まる。  お腹の底から力が湧いてくる。  湧き上がった力が、身体の隅々まで行き渡っていく。  懐かしい気配が、空間を満たしている。  温かくて、優しい、馴染みのある気配だわ。  ゆっくりと目を開き飛び込んできたのは、空間に満ちる金色の粒。  ――精霊たちの姿だった。
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