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第33話 理由なき涙
そのとき、ノック音が響き渡った。
「陛下、王妃殿下がアラン殿下の帰還の挨拶に伺いたいとのことですが……」
「エスメラルダが? 分かった。通してくれ」
王妃殿下ってことは、イグニス陛下の奥様ね? つまり、アランにとっては義姉に当たる方だ。
扉が大きく開き、一人の女性が静々と入ってきた。淡い黄色のドレスを身に纏った、小柄で可愛らしい女性だ。私よりも年上ではあるけれど、顔は童顔寄りなため、美しいよりも愛らしいという表現の方がしっくりくる。
そして目を引くのは、腕に抱いている小さな命の存在。
私たちが立ち上がり跪こうとしたところを、陛下が視線で止めるように伝えてこられる。そして女性の横に立つと、彼女の肩を抱き寄せながら微笑んだ。
「改めて紹介しよう。彼女が私の妻である、エスメラルダ・クレイ・テ・フォレスティだ。そしてこの子が――」
「オルジュ・レミトバ・テ・フォレスティ。この国の第一王女ですわ」
そう言いながら、王妃殿下は抱いていた赤ちゃんに慈しみの視線を向けながら紹介をなさった。
皆の目が、一斉にオルジュ姫殿下に集まる。
か、可愛いっ!
ふわふわな黒髪に、王妃様似のパッチリ二重の瞳がキラキラと輝いている。濁り一つない、とはこのことだろう。肌も滑らかで、頬は赤く染まっている。
あまりの愛らしさに、自然と口元が緩むのが分かる。それは皆も同じようで、マリアは双眸を細め、ルドルフは目尻を下げて笑っている。
アランの口角は上がり、イグニス陛下は御子が愛おしくて堪らないと、終始顔が緩みっぱなしだ。
赤ちゃんがいるだけで、部屋の中が、幸せな空間へと早変わりするなんて、赤ちゃんの力って凄いわ。
皆が姫殿下の可愛さに悶える中、アランがエスメラルダ殿下の前に進み出た。
「おめでとうございます、お義姉さん。無事ご出産されたとは知らせを受けていたのですが、お祝いに参じなかったことをお許しください」
「いいえ、気にしないで、アラン。お祝いは、ちゃんとお手紙で下さったではないですか。でもこうして、オルジュに会わせることが出来て、とても嬉しいですよ。あ、よければ、抱っこしてあげてくれませんか?」
エスメラルダ殿下は優しく微笑むと、私の方にも顔を向けた。
「ご迷惑でなければ、奥様も」
「お、奥様⁉」
もしかして、王妃殿下も勘違いしてるの⁉
この調子だと、城中の人々が私をアランの奥さんだと勘違いしているんじゃ……
アランと私の表情が固まり、彼が口を開こうとした瞬間、陛下の笑い声が響き渡った。
「はははっ、すまない、エスメラルダ。アランが嫁を連れて帰ってきたと言う話は、どうやら勘違いだったらしい」
「あら、そうなのですか? ということは、ご友人ということでしょうか?」
「そうらしい……今はまだ、な」
「ふふっ、今は……ですか」
「……兄さん、お義姉さん……一体何の話をしているんだ?」
アランの低い声によって、お二人の会話が中断された。だけどお二人は、顔を見合わせて、フフッと笑い合っている。王族の婚姻なのだから恐らく政略結婚なのだろうけれど、とても仲睦まじい。
いいな。
私も、アランとあんな風に仲の良い夫婦になれたら……って、こんな場所で何を考えているのかしら、私ってば!
必死で、脳内で繰り広げられるアランとの新婚生活の妄想を振り払っていると、アランがエスメラルダ殿下から赤ちゃんを受け取るのが見えた。
抱き方を教えて貰いながら、ぎこちない動きでオルジュ姫殿下を抱く。
「わわっ……ふにゃふにゃで、ちょっと怖いな……」
そんなことを言いながらも、赤ちゃんを抱き、少し揺らしてあやすアラン。彼の表情には、小さな命に対する慈しみの微笑みが自然と浮かんでいた。
こ、これが、父親になったアランの姿なのかしら?
……やだ、凄くいい。
こんなの、益々妄想が捗っちゃうわ!
やっぱり一人目は、女の子の方がいい――
「ほら、今度はエヴァが抱っこしてあげて?」
「えっ⁉」
幸せすぎる妄想に浸っていた私の意識を、アランの声が現実に引き戻した。ほら、というように、少しだけ腕を前にして、オルジュ姫殿下をこちらに差し出している。
アランの奥さんじゃない、という誤解が解けた今、私が抱っこしてもいいのかしら?
不安に思い、王妃殿下に視線を向けると、彼女は両胸の前で手を組み、大きく頷いた。
「ええ、エヴァさんも、抱っこしてあげてください。将来、お子様をもったときのために!」
「あ、はい……」
特に後半の言葉に力が入っていた気がする、エスメラルダ殿下の言葉にぎこちなく頷くと、私はアランからオルジュ姫殿下を受け取った。
弱々しくも柔らかく温かな感覚が、胸と腕一杯に広がった。ふわっと、ミルクの甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
アランも言っていたけれど、抱くための力加減が分からない。少しでも力を込めると、潰してしまいそうでちょっと怖い。
だけど私に抱かれても泣きもせず、アランと同じ青い瞳をこちらに向ける赤ちゃんを見ると、幸せな気持ちが湧き起った。
小さな命が愛おしくて堪らない。
自然と口元が緩むのを止められない。
他人の子どもでもこれなのだから、自分の子どもを抱いたら、一体どれだけの幸せを味わえるのだろう。
それが、アランとの子どもだったら――
(……あれ?)
急に幸せだった気持ちが、しぼんでいく。
温かさで一杯だった心が急に冷たくなり、鳩尾辺りがキューっと締め付けられた。
「エヴァ嬢ちゃん⁉」
「エヴァちゃん!」
私の異変に気付いたのか、ルドルフとマリアの心配そうな声が聞こえた。彼女たちに視線を向けようとしたのに、何故か景色がぼやけている。
不思議に思って、何度か瞬きを繰り返すと、目尻から何かがツーと零れ落ちる感覚がした。
これってもしかして、
「エヴァ、どうしたんだ! いきなり泣き出して……」
「え? 私、泣いてる?」
オルジュ姫殿下を抱っこしている私には、それを確かめる術がない。アランが近付くと、そっと私の頬に触れ、指先を見せてきた。
彼の指先は濡れていた。
泣いていると認めたら、急に胸を締め付ける苦しみと、理由の分からない悲しみで、心が一杯になった。みるみるうちに視界がぼやけ、瞬きするたびに、滴となって頬を伝っていく。
喉が震えだし、嗚咽が漏れそうになった。
「もしかして、長旅での緊張が解けて、一時的に精神が昂ぶったからかもしれない。もうエヴァを、休ませてあげていいか、兄さん」
アランの切羽詰まった申し出に、陛下は大きく頷いた。
「もちろんだ。今すぐ部屋を手配させよう。無理をさせて済まなかったね、エヴァ」
「……い、いいえ。も、申し訳ございません……私にも、理由が分からなくて……」
しゃくり上げるのをなんとか耐えながら、私はオルジュ姫殿下をエスメラルダ様に差し出した。
私の手から小さな命の温もりが離れた瞬間、心が引き裂かれるかと思うほどの痛みが走った。心臓が激しく脈打っているのに、手先が冷たくて堪らない。
オルジュ殿下を受け取った王妃殿下は、まだポロポロと涙を流す私を心配そうに見つめていらっしゃるのに……
何故こんな気持ちになるのか分からなかった。
だた頭の中では、ずっと誰かの声が響いていた。
『ごめんなさい……守ってあげられなくて、ごめんなさい……』
そう何かに謝罪し続ける、悲痛な叫びが。
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