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第8話 名前で呼んで
「そう言えば、この馬車はどこへ向かっているの?」
「隣国フォレスティ王国です」
ルドルフが、視線を前に向けたまま答えてくれた。目尻の皺が深くなっているのをみると、どこに行くかも分からずについて来てる私に呆れてるみたい。
ちょっとだけね!
「あそこはいい土地ですよ。自然が豊かで、何より精霊を大切にする国ですからな」
「そうそう、きっとエヴァお嬢様も気に入ると思いますよ」
そう話すルドルフの表情はとても優しいし、マリアの声色もどこかウキウキしている。
そう言えば、ルドルフもマリアもアランも、フォレスティ王国出身者だったっけ。故郷に帰れるのが嬉しいのかもしれない。
行き先はさておき。
問題は、
「ちょっと、そのお嬢様っていうの止めてくれない? 追放された私は、もう公爵令嬢じゃないわけだし」
そう、このお嬢様問題。
もう私、公爵令嬢じゃない。なら、私たちの関係は対等なはず。
いや、むしろ次の新天地に連れて行ってもらってる私は、逆に三人に頭を下げる立場だ。
それに――
「私、あなたたちと仲良くなりたい。だから、もうこの主従関係は止めましょう?」
一人の世間知らずな女性として、これから色々教えて欲しい。
そして、もっともっと仲良くなりたい!
三人は顔を見合わせて、少し困惑している様子だった。だけど、
「ええいいわ。なら、私はこれからエヴァちゃんって呼んでいいかしら? お嬢様……いや、エヴァちゃんのこと、ずっとこんな妹がいたらいいなって思ってたの」
真っ先に切り替えてくれたのはマリア。
それに続くように、
「ならわしは、エヴァ嬢ちゃんと呼ばせて貰おう」
ルドルフが、顎にはやした白いひげを撫でながら笑う。嬢ちゃんというのは、お嬢様という意味ではなく、小さな女の子を呼ぶ感じなんだろう。まあ、七十歳のルドルフから見たら私なんて、孫娘と同じぐらいの年齢だろうし。
そして、
「アランは?」
少し伺うように隣に座る彼に視線を向けた。私に話し掛けられて初めて、彼の身体が震えた。どうやら考えごとをしていたみたい。
話すら聞いてなかったみたいで、マリアがコショコショと彼の耳元で囁いた。何故かアランの頬がみるみるうちに赤くなり、青い瞳が零れんばかりに見開かれている。
「エヴァお嬢様の呼び方……ですか? えっと……わ、私は……」
凄く困っている。こちらをちらちら見てるけど、視線を合わせようとすると避けられてしまう。
うーん……
アランの真面目な性格を考えると、お嬢様呼びを止めてていうのは、まだ難しかったかしら。
私としては、ちょっとぐらい関係を進展させたいなーっていう下心もあるんだけど、長年の主従関係を思うと、やっぱり厳しいかな。
「急に普通にしてって言っても、アランには難しい? エヴァりんって呼ぶぐらい、くだけてくれていいのよ?」
「え、エヴァ……りん⁉」
「あはははっ! エヴァちゃん、かっわいー! いいじゃない、アラン。エヴァりんって呼ばせて貰いなさいよ!」
手を叩きながら、マリアが大爆笑してる。
そんな彼女の姿を見たアランの瞳が、つり上がった。そして、憎々しそうにからかってきたマリアを睨みつけると、唇を真一文字に結び、ツンッと顔を窓の方に向けてしまった。
いつも冷静な彼が見せる子どもっぽい仕草が、とっても新鮮。
私の知らないアランの意外な一面を見ることができて嬉しいし、それを私に見せられるくらい、距離が縮まった気がする。
その時、
「アランをからかうのはそこまでじゃ、マリア。エヴァ嬢ちゃん、アランはこういうことに奥手でな。彼に何と呼んで欲しいか、エヴァ嬢ちゃんが言ってやってくれないか?」
「……ええっ⁉」
「そうですね。お嬢様が呼び方を指示して下されば、それに従います」
突然、なんて呼ばれたいか自分で決めろと言われて、こちらが戸惑う番だ。
さっきまで拗ねていたアランも、ここぞとばかりに元気を取り戻し、こちらに視線を戻してきた。
今度は、私が彼と目を合わせられない。
だってなんて呼ばれたいか、私の中で決まっていたから。
手元の指先を弄りながら、私は消えそうな声色でお願いした。
「だ、だったら……あ、あの……エヴァって……」
「え?」
「え、エヴァって呼んで欲しい! だ、だってアランは二十四歳で、私は二十二歳でしょ? 一番歳が、ち、近いわけだし! もちろん、敬語もなしよ!」
慌てて言い訳をする。
あなたが好きだから、恋人同士みたいに名前呼びしたいなんて、言えるわけがないじゃない。
アランは、私の言葉を聞くと目を丸くした。でもすぐさま、嬉しそうに瞳を細めると、笑みを浮かべながら口を開いた。
「分かったよ……エヴァ」
名前呼びされた瞬間、頭の中が恥ずかしさで一杯になった。
初めて呼び捨てされた優しい声色が、記憶に刻み込むように、何度も繰り返される。
は、恥ずかしい!
きゃあぁぁぁぁっ‼
だけど、
(凄く……嬉しい……)
頭の中で、何故か結婚式で奏でられるファンファーレが鳴り響いた。
早すぎます、私。
まだそのときじゃないから落ち着こう、ね?
ルドルフとマリアの視線が、前に向けられた。二人の背中を見ながら、火照った頬を両手で覆って、こっそり熱を冷まそうと頑張る私。
その時、アランの唇が耳元へ寄った。前の二人に聞こえないように、声量を落とした掠れた声が耳の奥をくすぐる。
「俺も、エヴァって呼びたいと思ってたから……凄く嬉しい」
「っっっっっっっっ⁉」
せっかく冷ました頬の熱が、再加熱し始めた。
あまりにも熱が頭にのぼりすぎて、脳天から湯気が出そう。
恥ずかしすぎて何も言えず、激しく瞬きを繰り返している私に向かって、アランは肩を竦めながら、ふふっと小さく笑った。その表情は、どこかしてやったりといった感じだ。
さっきエヴァりんって呼んでいいよって言って、あなたを戸惑わせた私への仕返しなの⁉
いや、それはいい。
そんなことよりも、さっきの発言よ!
アランも私のことを、名前呼びしたいって思ってくれてたなんて、喜んでいいのかしら?
わ、私のことお仕えすべき主でなく、友人レベルまで近付けたって思っていいの……よね?
そ、それにしても、
(アランの一人称が、私じゃなく俺だったなんてっ‼)
どうしよ……
こういうギャップ、めっちゃ好きなんですけどっ!
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