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第1話 この身も心も、誰にも縛られない
私は走った。
全速力で走った。
”お願いっ‼ お願いだから間に合ってっ‼ 動け、両足っ!”
そう心の中で祈りながら、疲労でスピードが落ちつつある両腿を叱咤した。
石垣をよじ登り、草を掻き分け、屋敷の裏口に飛び込むと、目の前に飛び込んで来た黒髪の青年に向かって叫ぶ。
「あ、アラン⁉ わ、私、間に合った⁉ マルティとの約束の時間、間に合ってる⁉」
「エヴァお嬢様っ‼ 約束の時間が少し過ぎていますが、丁度マルティ様のドレスが破れたとかで、時間を取られています。さあ、今のうちにご準備を!」
セーフ……じゃなくて、アウトだったけど、セーフっ‼
はー、良かった。
以前も間に合わないと思った時、こういうトラブルがあって間に合ったわ。私って昔から運だけはいいのよね。
今日は、義妹であるマルティのお茶会に同行する日。もし少しでも私が時間に遅れようものなら、キィキィという金切り声で、どれだけ文句を言われるか分からない。まあ口だけならいいけれど、下手すれば、物や手が飛んでくる。
まあ仕方ないと言えば仕方ない。
だってここ、クロージック公爵家の中で、長女である私の立場は使用人と同じなのだから。
私は、長年仕えてくれている使用人の青年――アラン・ルネ・エスタに促され、準備に入った。
といっても、大した化粧もしないし、着ていく余所行きのドレスも一着しかないから、準備なんてすぐに終わるけれど。
「それにしても、今日はどこに行かれていたのですか? こんなギリギリになるなんて……」
私の髪を結いながら、アランが不服そうに尋ねてくる。彼も相当ハラハラしたんだろう。もし私がマルティの機嫌を損ねるようなことをしたら、彼に罰が向けられる可能性だってある。
それを思うと、私の行動も軽率だったなって思う。
でも、
「ごめんね、アラン。でも今日はどうしても、デライトさんの店の手伝いに行きたかったの。ほら給料日だったし、特売日で人も多かったから」
懐から袋に入った銀貨を取り出し、アランに手渡した。それを見て、彼が呆れたようにため息をつく。
「とはいえ、もし約束の時間に遅れていたら、エヴァお嬢様が酷い罰を受けたのですよ? 少しはご自身のことを大切になさって頂かないと!」
「うーん……ごめんね!」
「……絶対に、ご自身が悪いって思ってないですよね?」
あは、バレた?
でも仕方ない。こっそり街に出て、お店の手伝いでもなんでもしなければ、お金が手に入らないのだから。
この国を追放された時、一人で生きて行くためのお金が――
アランの手の感覚が、私の意識を今に戻す。
髪を整えてくれる彼の手は大きいのに、とても繊細だ。壊れ物を扱うような優しい手つきに、何だか心臓がドキドキしてしまう。
ちらっと鏡越しに、アランの姿を盗み見た。
目元が、黒くボサボサな前髪で隠されているため、表情はよく分からない。全体的に地味で、目立たない彼だけど、前髪を上げたその下には、綺麗な青い瞳が隠れていることを知っている。
ふと鏡の中の彼と目が合った。全身の血液がドクドクと脈打ち、平常以上に爆走しているのを感じる。
五歳の時に立場を落とされ、使用人たちなどの周囲の態度が変わった。
私が十二歳の時、アランがこの屋敷にやってきたけど、彼は私の立場を知ってもなお、公爵令嬢としてずっと大切に接してくれてきた。
ある日、こんな自分に価値はないって泣いていた私に、彼はこう言ってくれた。
『エヴァお嬢様は、エヴァお嬢様です! 誰がなんと言おうと、貴女様の価値は変わりません! 誰が何をしても、貴女の誇りや心の自由までは奪えないのですから!』
誰に認められなくてもいい。
心の自由や誇りは、誰にも変えられない、誰にも奪えない、唯一のもの。
彼の言葉を聞いて、私は目の前が明るくなり、どんな苦難にも耐えられる強さを得た。
そして、この心を救ってくれたアランに私は――身分を超えた恋をしていた。
今この瞬間に、彼に想いを伝えたら……どんな反応をするかしら?
困らせてしまう?。
今までの関係が、崩れてしまう?
……ああ、なんか胸の奥がザワザワするから、考えるのやめやめ!
髪の毛を整え、身支度を整えた私は、ひび割れた鏡の前に立った。
手入れはしているけど、お古感はぬぐい切れない、流行遅れのドレスを身にまとった姿が映る。
野暮ったい恰好と、化粧らしき化粧をしていない私は、どこにいってもマルティの引き立て役であり、笑いもの。あの子はいつでも私を連れて歩き、笑いものにするのが趣味みたいなものだから。
だけど、
今は亡きお母様と同じ、銀色の長い髪。
今は亡きお父様と同じ、紫色の瞳。
これが私、クロージック公爵令嬢エヴァ・フォン・クロージックだ。
例え、育ての両親から使用人のようにこき使われていようが。
例え、古き盟約によって強制的に結ばされた、この国バルバーリ王国の王太子リズリー・ティエリ・ド・バルバーリの婚約者であろうが。
そして殿下と未来の妃という立場が欲しい妹マルティが共謀し、近々婚約破棄されて追放される身分であろうが――
「……私は私よ。この身も心も、誰にも縛られないわ」
身なりこそ酷いものだけど、輝きを失っていない瞳を見つめながら、私はそう呟いた。
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