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実のところ、ユリシアは外の風に当たって、逃亡して捕まって。それからすったもんだの末、ここにいる。
つまり、なぁーんにも考えていなかった。
だから内心、焦っている。こんなに早く交渉の席につくとは思ってもみなかったから。
でもチャンスは一度きりと焦ってみたものの、よくよく考えれば、自分はそこまで沢山のことを要求する気がなかったことにも気付く。
要はお飾りの妻になっている間、命の保証と快適な生活を約束してもらいたいだけなのだ。
(それくらいは強欲って言われない……よね??)
そんな確認をしたくて、チラッとグレーゲルを見る。苛立った彼と目が合って、すぐに後悔した。
「まさか、なにも考えてないなんてことはないよな?」
「ないですよー」
うっかりフランクな口調で返してしまったユリシアは、自分の失態を誤魔化すようにコホンと小さく咳払いしてから口を開く。
「ではまず、大公閣下にお願いがございます」
「言ってみろ」
「殺さないでください」
「は?」
「ダメですか?」
「……」
これだけは絶対に譲れない条件だ。
けれどもグレーゲルは、大袈裟に溜め息を吐く。
「まず最初にそれか?」
「はい。母国から煮ても焼いてもお好きにと言われた私を少しでも哀れと思っていただけるなら、どうか慈悲を」
形振りかまっていられないユリシアは、母親がたまに父親にやっていた上目遣いを見よう見まねでやってみる。
すぐさまグレーゲルは口許を片手で覆って横を向いてしまった。
気持ち悪かったのだろうか。それとも、下手くそすぎて笑いをこらえているのだろうか。
まぁ、どっちでも良い。とにかく命の保証をもらうのが先決だ。
「閣下……お願いします。身分不相応なことは望みません。これだけ叶えていただけるなら───」
「もういい。黙れ」
「……っ」
「その件は、約束する。君を殺すことはしないし、生涯身の保証は約束する」
「ありがとうございます!あ、あと殴らないで」
「くどい。身の保証を約束すると言った以上、怪我を負わすわけないだろう」
予想外にもグレーゲルから”生涯”という無期限保証をもらったユリシアは、ぱぁああっと笑顔になる。
これで正妻の座を退くことがあっても、口止めのために殺されることもないし殴られることもない。ならば、次はこれだ───
「あと、今使わせていただいてます別邸は、これからも使わせていただきたいと思います」
「それは条件付きで許可する。君は私の正妻になる。正式に婚約した際は、君は本邸の部屋に移動してもらう。……なんだ?不満そうだな」
グレーゲルからギロッと睨まれ、ユリシアはぴゃっと座ったまま跳ねてしまう。
殺さないという約束をもらっても、彼の醸し出すオーラと血濡れの大公という二つ名のせいで、怖いものは怖いのだ。
そんな獰猛な肉食獣を前にした小動物のような表情になったユリシアに、グレーゲルはすっと目を細める。
「話し合いの途中だが、君に言っておくことがある。一度しか言わないから、しっかり覚えておけ」
「ひゃいっ」
「変な声を出すな。……まぁ、良い。とにかく聞け。俺は自分の掌中にあるものは、とことん大事にする主義だ。当然、自ら壊すような愚行はしないし、逆に誰かが手を出そうとするなら容赦はしない。わかったか?」
抽象的すぎて実際のところ、あまりよくわからなかった。
でも、素直にわからないと言ってはいけない気がして、ユリシアはこくりと頷く。
「……はい」
「よろしい。では、続きを再開しよう」
そう言ったグレーゲルの耳は、ほんの少しだけ赤かった。
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