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『待たせたな』
力強く温かい手に包まれた途端、ユリシアの瞳から涙が一筋流れ落ちていく。
同時に、これまでどれだけ暴れても引き剥がすことができなかったアルダードの気配が消えた。
「俺の婚約者に気安く触れるな」
一瞬で温かい世界に変えたグレーゲルは、ユリシアに視線を移した途端、この世の終わりのような表情を浮かべて抱え上げた。
ふわりと浮いた身体にユリシアが驚く声を上げる間もなく、グレーゲルが自分の肩を掴む。傷口に触れられているのに、不思議と痛くない。
ただ湯たんぽが当たっているような優しい温もりだけがそこにある。
「……すまない止血しかできない。すぐに手当てするから待ってろ」
詰まった息を吐き出してそう言ったグレーゲルは、抱えているユリシアを目に付いたソファに横たわらす。
次いで上着を脱いで傷付いた愛しい女性の身体にかけた後、表情を別のものに変えた。
対してユリシアは、かろうじて見えた視界の中で、アルダードが壁に張り付いているのにぎょっとした。
だって彼の靴底は地面に付いていない。宙に浮いたまま壁にへばりついているのだ。ただ良く見れば、細い金色の鎖が彼の身体に巻き付いている。
これはつまりグレーゲルの魔法によって拘束されているということ。
「グレーゲル……魔法、使っちゃ駄目」
ここはリンヒニア国だ。条約違反でグレーゲルが罪に問われてしまう。
自分の元に駆け付けてくれただけで、もう十分。そんな気持ちで彼を止めようと手を伸ばしたけれど、その手を掴んだのはグレーゲルではなくほっそりとした女性の手だった。
「大丈夫よ。心配しないで」
優しく、甘いクリームのような声音は聞き覚えがある。
「……シャリスタンさん?」
「まぁ、名前を覚えてくれていたなんて嬉しいわ」
ぱぁああっとこの状況に似つかわしくない輝かんばかりの笑みを向けられ、ユリシアは混乱する。
じっとりと首筋に汗も浮かんでいるが、これは冷や汗だ。
グレーゲルの本命に手を握られている。しかもついさっき彼は自分のことを婚約者だと言った。
最悪だ。彼が条約違反をかましたことより最悪だ。
今ユリシアは、たくさんの想定外の出来事が重なり、かつ傷のせいでまともな判断ができていない。
「シャ……シャリスタンさん……違うんです。あの、これは、事情があって……あの」
オロオロしながら懸命に弁明しようとするユリシアを、シャリスタンは熱烈なハグで遮った。
「喋っちゃ駄目よ、シア。あなた怪我しているのよ。さあ、わたくしに身を預けて。わたくしが来たから、もう大丈夫よ。安心して……ね?」
「っ……ん?」
シャリスタンからふっと耳に息を吹きかけられたユリシアは、なんかおかしいと気付いた。
そんな中、ポツリと呆れと困惑が混ざった声がユリシアとシャリスタンの元に届く。
「シャリー。ゲルが怒ってるから、その辺にしときなよぅ。僕、異国で自国民の喧嘩の仲裁するために来たんじゃないんだからさぁ」
ほっそりとした腕の隙間から顔を出して声の主を手繰れば、夜会で美味しいハーブティーをご馳走してくれた王太子がいた。
しかし王太子ことエイダンは、ユリシアの視線に気付かず言葉を続ける。
「シャリー、ゲルから氷の串刺しに会う前に、あっちの女の子の介抱しておいで」
「……はぁい」
しぶしぶユリシアから離れたシャリスタンは、未だに気を失っているフリーシアの元に近付いた。
「久しぶりだね、ユリシア嬢」
「あ……えっと、お久しぶりでございます」
エイダンからにこっと人懐っこい笑みを向けられたユリシアは、リンヒニア国に突如現れた王太子とグレーゲルの婚約者にどんな顔をすれば良いのかわからず、ぐらりと眩暈を覚えてしまった。
そんな中、気を失っていたのか、口がきけなくなるほど混乱していたのかわからないが、自我を取り戻したアルダードは目を剥いて叫んだ。
「野蛮な奴めっ、今すぐコレを外せ!我が国でこんな振る舞いが許されると思っているのか!」
「黙れ。先に手を出してきたのはそっちだろ?むしろすぐに首を飛ばされなかったことを、この俺に感謝しろ。クソが」
グレーゲルの口調は年下の少年をからかっているような軽いものだった。
絶対的な力の差を確信しているからこそ出せる態度に、アルダードはカッと頬を紅潮させ暴れ出す。
「禍々しい術を使う蛮族風情がっ。ここがお前たちの仕える国だということも忘れたのか!?今すぐこれを外せっ!そうしなければーー」
「そうしなければ、どうなるっていうんだ?」
アルダードの言葉を遮ったグレーゲルは、腕を組んでゆっくりと壁に近付く。そして、ははっと笑いながら言葉を続けた。
「条約違反で戦争でもするか?それとも俺個人を処刑するか?……いいさ、やってみろよ。ただ、その前に馬鹿なお前に一つ教えてやる」
一旦言葉を止めたグレーゲルは、懐から1通の書類を取り出すとアルダードの眼前に掲げた。
「見ての通り、俺とユリシアは正式な婚約者だ。マルグルスでは異国の人間は婚約した時点で、うちの国に属することになる。な?」
くるっと身体の向きを変えて、グレーゲルはエイダンに同意を求める。
既にこうなることを予測していた王太子は一つ頷くと、事前に頭で組み立てておいたもっともらしい文言を紡いだ。
「大公リールストンのいう通りですよ、ガラン家の当主殿。我が国マルグルスでは婚姻法第23条の特例で、ある一定の条件を満たす場合、異国の女性を妻に迎える男性は自己判断により婚姻前に相手に国籍を与えることができます。エイダン・フォル・マルグルスの名の下、ユリシア・ガランはこの契約書に署名した時点で、我が国の一員となりました」
流れるような口調で語り終えたエイダンは「おわかりいただけましたか?」と、小首を傾げてみせる。
グレーゲル程ではないが、小馬鹿にされたことにアルダードは奇声を発して暴れ出す。しかし、身体に巻き付いている金の鎖はびくともしない。
喚くアルダードの声に被せるように、グレーゲルは眉一つ動かすことなく更に言葉を重ねた。
「条約では、確かにリンヒニア国で魔法を使うことは禁じられている。でもな自国民に危害を加えて、大公爵の婚約者を誘拐したとなると条約違反にはあたらない。なぜなら彼女に危害を加えた場所はマルグルス。こちらは逃げた罪人を追っかけて制裁しているだけだ。条約を読み直してみろ、こう書いてあるはずだ。「ただし、自国の刑法が適用される場合、それを最優先とする」と」
もともとこの条約は、用があればマルグルス国民を呼びつけ、気に入らない態度を取れば適当な罪をでっち上げて裁けるようにと考えた、リンヒニア国にとって都合の良いものだった。
しかしその身勝手な条約内容のせいで、アルダードは窮地に追い詰められている。
「……汚い真似をっ」
「はっ、お前だけには言われたくないな」
呻くアルダードに、グレーゲルはニヤリと笑う。
「さあて、罪人のアルダード殿。君をどう裁こうか。マルグルス流では、人を傷付けたらその3倍の傷を負ってもらう。また人の物に手を出した男は、足を斬り落として雪山に埋めるのが習わしだ。と、なると君は肩から先と足を切り落としてから、雪山に埋められることになるな」
まるで教科書を読み上げているような抑揚のないグレーゲルの口調は、本気なのか脅しているだけなのかまったくわからなかかった。
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