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ハカモリって何?
ハカモリ。
それが何なのか、僕には最初わからなかった。
「ハカモリをね、任せたいと思っているんです」
お茶を一口飲んで、おばあちゃんはまた言った。ハカモリ、と。
真っ先に反応したのは七海おばさんだ。
「任せるって……、まさか私たちに何の相談もなく買ったなんて言わないわよね」
七海おばさんの視線は、おばあちゃんではなく、テーブルを挟んで向かい側に座る僕の父さんに向けられていた。父さんと七海おばさんは男女の双子で、二十分の差で先に生まれたのが七海おばさんだった。
「買ったのか?」
と、父さんはおばあちゃんに向かってたずねた。
僕の家と七海おばさんの家はとなり同士で、おばあちゃんは七海おばさんの家で暮らしている。僕はひとりっ子だけど、七海おばさんちには男、女、女の子供がいる。僕らはまとめて四人きょうだいのように育った。
週末はみんなで一緒にサッカーの試合を観に行ったり、キャンプをするし、家族の誰かが誕生日のときはみんなでお祝いをする。ゴールデンウィーク最終日の今日だって、七海おばさんちの庭でバーベキューをする予定だった。リビングのテーブルには食材が山と乗っていて、僕のお腹はさっきから空腹でうなり声を上げていた。なのに、「お肉を焼く前に、話しておきたいことがあります」とおばあちゃんが改まった声で言うものだから、僕らは急きょ、和室に集合したのだ。
僕は黙って父さんたちの会話に耳をすませた。ハカモリって何? と質問したかったけど、そんな空気ではなかった。
「蓮林寺です。ご住職さんとはお話をすませてあります」
蓮林寺は、おばあちゃんが散歩ついでによくお参りに行くお寺だ。
僕はおばあちゃんにバレないようにテーブルの下でそっとスマホを操作した。はかもり、と検索すると、すぐに『墓守』と変換された。
【墓守】……墓所の世話をするひと。墓の番人。墓を継ぐひと。
なるほど。買った、買わないっていうのは、お墓のことか。
そういえば――、とスマホをズボンのポケットにしまいながら思った。
僕は生まれてこの方、お墓参りをしたことがない。今まではまったく気にしてこなかったけど、考えてみれば結構、特異なことなのかもしれない。
当たり前のことだけど、僕がこうして生きていられるのは、考えるだけで気が遠くなりそうなほど、はるか昔から命が受け継がれてきたからで、それはすなわち、気が遠くなりそうなほど多くのご先祖さまがこの地球上のどこかに埋葬されてきたってことだ。それじゃあそのご先祖さまのお墓はどこにあるんだ?
おばあちゃんは九州の生まれで、両親はおばあちゃんがまだ十代のうちに亡くなっている。僕は九州人とのクォーターだけど、九州はおろか、大阪より西には行ったことがない。
「あなたたちが将来的に私が買ったお墓に入るかどうかは、それぞれの好きにするといいわ」
でもね――、とおばあちゃんは真剣な顔で僕たちを見渡した。
「七海と陸斗、それから孫であるコウイチたちの代までは、どうか私のお墓を守ってください」
*
翌朝、ランドセルを背負って家を出た僕は、角を曲がったところで、「遅いっ」といきなり怒鳴られた。びっくりして声がした方を見ると、中学校の制服を着たヒナが、ふくれっ面で僕を見返していた。
「コウイチ、家出るの遅すぎ。遅刻したらどうしてくれんのよ」
「いつもと同じ時間だし……。それに一緒に行くなんて約束してないよね」
ヒナこと――新藤雛は、七海おばさんちの末娘で、僕の一歳上のイトコだ。
ヒナが通っている中学校と僕が通っている小学校は道路を挟んで向かい合っている。家から学校までは、どんなにのんびり歩いても十五分といったところ。僕は毎日、八時ちょうどに家を出ているから、全然ヨユーなのに。
「こういうのは暗黙のルールってやつでしょう。ホント、コウイチって空気読まないよね」
ヒナのずけずけした物言いには慣れっこだけど、朝イチで空気が読めないやつ呼ばわりされたのには、さすがにカチンときた。
「意味不明なんだけど」
「昨日のおばあちゃんの爆弾発言について、話し合おうと思っていたのにさ」
「爆弾発言って、墓守のこと?」
「当然」ヒナは、すました口調で返した。「――で、コウイチはどう思ったの」
うーん、と僕は体操服の袋を膝でバウンドさせながら、ヒナを見上げた。細面で、目がくりっと丸いヒナの顔は、どことなくリスに似ている。頭の高い位置で結ったポニーテールが、朝日を受けながら軽やかに揺れていた。
「今時お墓を買うなんて、おばあちゃんらしくないなぁって思った」
「え、お墓ってダサいの?」
流行っているのか、どうなのか。それが何であれ、十代の僕らにとっては重要な判断材料だ。
「ダサくはないと思う。でも今って子供の数が減ってるっていうじゃん。それと都市部への人口集中が影響して、お墓も深刻な後継者不足らしい。だから『墓じまい』や『永代供養』といって、先祖代々のお墓を撤去して、更地に戻して、遺骨を海や山に散骨したり、永代供養塔に埋葬して、お寺に管理をお願いする家も増えているんだって」
昨日の夜、ネットで調べた知識だ。せっかく僕がわかりやすく説明してあげたっていうのに、
「よくわかんないけどさ」
とヒナは一蹴した。それから、
「陸斗おじさんたちは何て言ってた?」
と訊いてきた。
「近くてお参りするのが便利だって」
「うちのお母さんと同じこと言ってる。――それで? お墓買うのが、おばあちゃんらしくないっていうのは?」
「おばあちゃんって、挨拶や礼儀作法にはキビシイけど、案外、古いしきたりは気にしないでしょう。僕たちってお墓参りもしたことがないし」
「まあね。なんせ我が家には、お墓がなかったから」
「どうしてないのかなぁ」
僕は昨日、墓守の話を聞いて覚えた違和感をヒナに伝えた。
「そんなの何年も前に、コウイチが言った『墓じまい』ってのをおばあちゃんがしたからに決まってんじゃん」
「え、それどこ情報?」
「おばあちゃん情報。ゆうべ、私もコウイチと同じことを考えて、おばあちゃんに聞いてみたの。そしたら、私たちが生まれる前に、九州の家の墓じまいはすませました、って言われた」
「そうなんだ」
なーんだ。あっさりと解決してしまい、ちょっと拍子抜けだ。それから急速に不安になった。
「――おばあちゃん、どこか具合が悪いのかな」
「何で?」
「お墓を買うなんて、死ぬのを予期しているみたいじゃん」
「怖いこと言わないでよ」ヒナは怒った顔になった。「おばあちゃんは毎年、人間ドックを受けているし、その検査結果には陸斗おじさんも目を通しているんでしょう。少しでも病気の疑いがあれば、陸斗おじさんが黙っているわけがない」
「そうだけど……」
僕の父さんは、大学病院で働く放射線技師だ。ヒナの言う通り、おばあちゃんの身体に何かあれば、父さんがとっくに気付いているはずだ。
まぁ確かにね、とヒナは真剣な顔で頷いた。
「墓を建設するのに躍起になるなんて古墳時代の話だものね。古い発想だ」
「そこまで遡れとは言ってないけど」
「それにおばあちゃんって流行に敏感だし」
「え、そう?」
いまいちピンとこなくて首を傾げると、ヒナはわざとらしく大きなため息をついた。
「やれやれ。コウイチみたいなのを、『おばあちゃんの心、孫知らず』っていうのね」
「何それ」
「私たちが小さい頃に着ていた服のほとんどは、おばあちゃんの手作りだよ。おばあちゃん、どんな柄や形が流行っているのかを研究しながら作ってくれていたんだから」
「そうなんだ……」
言われてみれば小学校の低学年の頃まではおばあちゃんが縫ってくれた服や、手提げカバンを身につけていた。そうか、おばあちゃん、僕たちが恥ずかしくないように、色々と考えてくれていたんだ。
「それにさ」とヒナは再び口を開いた。「おばあちゃんってシングルマザーの先駆けでしょう」
僕やヒナのおじいちゃんは、父さんと七海おばさんが小学四年生だったときに、「散髪に行ってくる」と言って出かけたきり、家に戻ってこなかった。
時折、気が向いたように、お金が送られてくることはあったそうだけど、毎月毎月、決まった額の養育費が入ってくるなんてことはなく、おばあちゃんは女手ひとつで父さんたちを育てた。
おじいちゃんの失踪から一年が経った頃、おばあちゃんのもとには離婚届けが届いた。一緒に入っていた手紙には、「申し訳ない」とだけ書いてあったそうだ。
だから僕たち孫世代は、誰ひとり、おじいちゃんの顔を知らない。
僕は自分の影を見下ろしているうちに、背筋がぞわぞわしてくるのを感じた。
「嫌な予感がする」
「え……?」
「まえに穂積が教えてくれたんだけど、ミステリー小説の定番パターンのひとつに、登場人物の誰かが、そのひとらしくない行動を取ったあとは必ず事件が起きるんだって」
穂積雄馬は、保育園時代からの僕の親友だ。穂積の父親はミステリー小説の作家で、穂積の家には何百、何千冊ものミステリー小説がそろっている。それらを読破している穂積は、言わば謎解きのプロってわけだ。
「――あのさぁ、コウイチ」
ヒナはため息をつくと、僕の肩にぽんと手を置いた。
「これ、小説の世界の話じゃなくて、現実での出来事だから。ノン・フィクション」
「わかってるよ」
「そう? なら、いいんだけど。あっ、ユミちゃんだ」
ヒナは前方に友達がいるのを見つけると、
「じゃ、私先に行くから」
と僕の返事も待たずに、「ユミちゃーんっ! おっはよー」と走り出した。
でも――。ヒナは笑い飛ばしたけど、僕のカンはあたってしまったんだ。
そう、事件は起きた。おばあちゃんの「墓守」発言からきっちり二週間後に。
とはいえ内容としてはすごく地味なものだ。斧を構えた殺人鬼が金曜日に訪れたわけでもなければ、誰かが神隠しにあったわけでもない。ただ、音信不通だったおじいちゃんの居場所がわかったのと、わかったときにはおじいちゃんは病院に担ぎ込まれたあとだった、というだけ。
夜遅く、仕事から帰ってきた父さんが、「ちょっといいか?」と僕の部屋をノックした。それで眺めていた『植物図鑑』を机のうえに置いてリビングに行ったら、父さんと母さんが真面目くさった顔で座っていた。僕の席にはホットミルクが置いてあって、カップからは白い湯気が立ちのぼっていた。
いつにない光景に、僕は、「物々しい」な、と最近覚えた言葉を心のなかで呟いて、席についた。
あのな、と父さんが切り出した。
「昼間、病院から電話があって、俺の父親っていうか、コウイチのおじいちゃんが倒れて運ばれたそうなんだ」
え……、と返したっきり、何と続ければいいのかわからなくなった。おじいちゃん、というごく普通の単語が、非現実的な言葉に聞こえ、頭のなかで何度か反響した。
「コウイチは、おじいちゃんに会いたい?」
母さんが優しい口調で訊いてきた。
「えっと……」
「明日、学校終わったあとに一緒に病院に行かない?」
「明日?」驚いて聞き返した。「すごい、急だね」
「容体が、あんまり良くないみたいなんだ」
父さんはため息をついた。
「――死ぬの?」
言ってから、もっとマシな言い方をすれば良かったと後悔した。でも、父さんは気にした風もなく、
「まあ、そうだな」
と言って、さっきよりも深いため息をついた。
そうか、死ぬんだ……。
正直に言って、全然ショックではなかった。そりゃそうだ。いくら血は繋がっているとはいえ、一度も会ったことがない相手なんだから。
「――明日は、部活があるから」
僕は園芸部に入っている。おもな活動内容は、花壇の水やりと、ドライフラワー作り。あとは色水でハンカチを染めたり。ようは遊びの延長のような部で、部員はたったの四人。そのなかで男子部員は僕ひとりだけ。
僕が園芸部に入部したのは、四年生のときに青山先生にスカウトされたから。当時は園芸部そのものがなくて、花壇の水やりは、先生たちが順番に受け持っていた。でも、先生によっては、あげる水の量がまちまちだったり、時間がバラバラだったりするせいで、「初心者向け」と言われているマーガレットやゼラニウムでさえ、ひょろひょろとしていて鮮やかさを欠いていた。
ある日の放課後、何となく――、本当に何となく、しおれた花や雑草を引っこ抜いていたら、「お花、好きなの?」と声がふってきた。顔をあげると青山先生がいた。
――はぁ、まぁ……。
と僕はあいまいにこたえた。植物が好きかどうかなんて、それまで考えたこともなかった。ただ嫌いではないな、と思った。
青山先生は、園芸部を発足しようと考えていることを僕に打ち明けた。うちの学校では、五年生になったら部活に入ることが「義務」づけられている。
――コウイチくんのような、花好きの生徒を探していたの。
期待に満ちた瞳を向けられて、たじろいだ。だってこの時点では、五年生になったらサッカー部に入るつもりでいたから。でもよくよく考えてみれば、地元のサッカーチームの観戦は好きだけど、僕自身は運動部に入りたくなるほどスポーツは好きではなかった。それで、「いいですけど……」って返事をしたってわけ。
一応、今では部長なんていう肩書きまで手に入れてしまったけど、たった一回、僕が休んだところで困るような部活ではない。それは父さんも母さんもわかっていることだ。でも――。
「そうか、わかったよ」
父さんは弱々しく笑って頷いた。
「よし。それじゃあ、この話はもう終わり。さーて、もう遅いけど、一杯飲んじゃおうかな」
父さんは空気を切り替えるように明るく言うと、流しで手を洗った。いつもは帰ったら真っ先に手洗いとうがいをする父さんが、この日はまだしていなかったことに、このとき気がついた。
それから一ヶ月後、おじいちゃんはこの世を去った。
葬儀は町外れにある葬儀会館で行われた。通夜も告別式もひとまとめに行うタイプの式で、参列者は身内だけという、こぢんまりとしたものだった。晴れ渡った青空を見上げて、「あのひと、雨男だったのにな」と父さんが骨壺を抱きながら呟いたのを覚えている。
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