一章・三

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 奏音は彼女たちに囲まれ、タイミングをうかがっている。体育館に響くバレーボールが跳ねる音に合わせて浅い呼吸を何度か繰り返し、ようやく話を切り出した。 「新しく外部指導のコーチになる人のことで、ちょっと話があるんだけど」  奏音の声は周囲の音にかき消されそうなほどに小さい。 「今度の土曜日からうちに来る有名な指導者だっけ?」 「そいつ、奏音と私が中学の頃に通ってたクラブチームのコーチだった男なんだよ」  緊張した様子の奏音に代わって、早希が説明する。 「そうなの? たしか、有羽も同じクラブに通ってたよな?」  乙丸の隣に立っていた小柄な女子生徒・前川有羽(まえかわ ゆう)がうなずく。  乙丸は有羽から聞いたのか、早希たちが同じクラブに通っていたことを知っているようだ。彼女たちはどこまで知っているのだろうか。早希が奏音の顔をうかがうと、彼女は部員たち一人一人の目を覗き込むように見ていた。 「奏音が怪我した責任を取って辞めたんだったよな、そのコーチ」 「違うよ」  早希は思わず乙丸の言葉を遮った。 「責任なんかじゃなくて、あいつは奏音を傷つけたことを追求されたくなくて逃げたんだよ。それなのに、また奏音の前に現れるなんてどうかしてるよ」  あの男がやったことは許されることではない。そのことを知っているのは、早希と奏音と彼女の両親だけだ。  事情を知らない乙丸は早希の厳しい口調に目を丸くしている。ほかの部員たちも事情が呑み込めず、戸惑った表情だ。その中で、有羽だけが不機嫌そうにあごの長さに切りそろえた髪を指先でいじっている。
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