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奏音も何でもないような事情を言ってこの話は終わりだ。そう思っていた早希だが、表情が消えた奏音を見て悟った。
やはり何かあったのだ。普段と変わらないようにふるまっていても、彼女の身になにかが起こっているのは分かる。
「ごめん、昨日はちょっと疲れて寝ちゃって」
奏音は「わはは」と、わざとらしく笑った。から笑いはすぐに消え、力なくうなだれる。膝の上で作った握りこぶしは震えていた。
自分の心臓の音が早希の耳には、不自然なほど大きく聞こえる。奏音の答えを聞き逃さないように研ぎ澄ませた耳。いつの間にか握りしめていた手に汗がにじむ。
「あの男」
沈黙を破った奏音の声は低くかすれ、二人きりの教室でなければ聞こえなかっただろう。恋人の言う「あの男」に当てはまる人物は早希の中で一人しかいない。
椚原太志。中学時代に早希と奏音が通っていたバレーボールクラブのコーチだった男だ。
「会ったの? どこで? たまたま? 接触してきたってこと?」
早希は奏音の両肩を掴んだ。
「会ってない、けど、部活に」
「部活? なんで?」
奏音はうつむいたままだ。早希は肩から手を放し、彼女のこぶしを開いて握った。冷たい彼女の手と浅い呼吸に不安がこみ上げる。
「外部コーチを学校側があの男に頼んだみたいで。それで、土曜日だけなんだけど、部活に来るんだ。昨日、顧問の鷹野先生から聞いた話だと、そのコーチがあの男らしくて」
単語を一つ一つ区切るように奏音は話す。
四月の終わりだと言うのに、教室内の温度が急に下がったようだ。このままだと奏音の手が凍り付いてしまいそうで、早希は恋人の手を握る力を強めた。
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