七の輪

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七の輪

 僅かに感じた気配に、はっと足を止める。横にある、この壁の気配と、薬草の匂いは、……間違いなく、レナの、施療院。やっと、ここまで来た。疲れを感じ、ライは狼から人間の姿へと戻った。  冷たい煉瓦塀に、背中を預ける。今にも雪が降り出しそうな重い雲の下にある塀が一部大きく崩れていることに気付き、ライは身を震わせた。おそらく、幻獣の仕業。幻獣は今、何体徘徊しているのだろうか? 震える脳裏に、従兄のオストの苦悶の表情が浮かび、ライは大きく首を横に振った。今、幻獣がここに現れてしまったら、軽くなってしまった、鞘に入った腰の剣にそっと触れる。折れてしまった剣で、幻獣と対峙できるだろうか。ライがそう、思考した、正にその時。 「……あ!」  大地全体を覆う影に、戦慄を覚える。見上げると、空を覆う巨大な竜の影がライの頭上を飛び越し、その太い足に付いた鉤爪を塀の向こうに無造作に落とした。続いて聞こえてくる、建物が崩れ落ちる音と複数の悲鳴に、はっと呆然から覚める。施療院には、まだ人がいる。助けなければ。敬愛するレナの、柔らかな碧い瞳を思い出す前に、ライは北の国で見た、山と獣を守る巨大な熊の怪物の姿に変身し、膝より低い位置に見える塀を飛び越した。そしてその太い腕で、再び施療院をその足と鉤爪で破壊しようとした巨大な竜の、鱗に覆われた足を掴んで施療院の外へ投げる。地面に叩きつけられても全く衰える気配の無い、ライを見据える竜の三つの頭に、ライは一瞬呆然とした。この、竜は、まさか、……アール? そのライの一瞬の隙を、竜は見逃さなかった。飛びかかる竜の爪が、ライの幻の身体を深く引き裂く。鋭い痛みに、ライの変身はたちまちにして、解けた。  施療院の中庭に仰向けに倒れたライの視界に、三つの頭を持つ竜の鋭い鉤爪が下りてくるのが映る。施療院は、レナの大切なものは、守る。その想いだけで、ライは再び熊の怪物に変身すると、降り落ちる鉤爪を全身で受け止めた。全身を駆け抜ける痛みに、思わず呻く。幻獣に致命傷を与える銀の短剣すら、抜く余裕が、無い。これ以上は無理だ、と思った、次の瞬間。銀色の光が一条、ライの横をかすめた。 「……!」  声無き声を上げ、対峙していた竜が空へと飛び上がる。そのまま、雲の中へ消えた竜に、ライはほっと息を吐いた。 「ライ!」  人間の姿に戻ったライの耳に、懐かしい声が響く。重い瞼を上げると、施療院の主レナと、伯父でもある近衛騎士隊長フィルがライを見下ろして顔を歪めているのが見えた。 「大丈夫か?」  弓を持った伯父の言葉に、気怠げに頷く。 「怪我は、無いわね」  ライの全身を確かめるレナの温かい手に、ライは少しだけ、微笑んだ。 「ヴィントが残した日誌に、幻獣の撃退方法も書かれていた」  弓を振る近衛騎士隊長フィルの言葉が、耳に響く。 「銀の武器を使えば、良い、と」  皇城の地下にいた幻獣の封印を強化し、五番目の輪を受け取った後、ヴィントは育ての親であるペトラから聞いていた幻獣の弱点を自分の日誌に書き、まさかの時の為にとフィルに見せていた。ヴィントの警告を思い出したフィルは、残された日誌を読み直して銀の鏃の付いた矢を作り、皇都から逃げ出す人々や、皇都や施療院に留まらざるを得ない人々を幻獣から守っている。施療院の主であるレナも、施療院から動かすことのできない第一皇子ノルドを始めとする重病人の看護の為に、この危険な地域に残っている。 「だが」  その伯父が、深く息を吐く。 「幻獣を追い払うだけでは、根本的な解決にはならない。それも、ヴィントの日誌に書いてあった」  そして伯父は、上半身を起こしたライの肩を強く掴んだ。 「ライ、頼む。……陛下を、レクトを、救ってやってくれ!」  おまえにしか、ヴィントの息子であるライにしか、狂った皇王レクトを止めることはできない。口髭を震わせる伯父の言葉に、強く頷く。その為に、ライはここに戻ってきたのだ。 「陛下は、皇城にいる」  施療院の向こうに僅かに見える、皇都の皇城の崩れかけた塔を、フィルとともに見詰める。雪が降り始めた皇都の遠景は、おそらく幻獣の仕業なのであろう、あちこちが醜く欠けていた。 「皇都に続く橋は全て幻獣が壊してしまった、けど、ここから皇城の地下に向かうことができる地下道があるの」  呆然と雪を見詰めるライの耳に、レナのしっかりとした声が、響いた。  そのレナの先導で、フィルに身体を支えてもらいながら、施療院の崩れた一角に向かう。皇城の地下に続く地下道は幻獣の攻撃で崩れてはいたが、それでも、僅かに開いていた隙間に、ライはほっと息を吐いた。これなら、小さな鼠に変身すれば、通り抜けられる。 「必ず、戻ってきて、ライ」  鼠に変身したライに、レナが微笑む。  そのレナに強く頷くと、ライは暗闇の中にぱっと、飛び込んだ。
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