62人が本棚に入れています
本棚に追加
本日のお昼ごはん
「──……んー、星野さんはずっと先方から高評価貰ってたから、こっちも一生懸命説得したんだけど、どうしても契約終了にするの一方通行で聞く耳を持ってくれなくってさ、残念だけど来年1月で終了ってことでお疲れ。……でさ、ここだけの話、星野さん何やったの?」
派遣開始からずっと担当でいてくれる営業は、三十代半ばの温厚な性格の男性だ。
ただ今日に限っては菩薩のような笑みを浮かべずに、キョロキョロと辺りを確認した後、ずいっと前のめりになって美亜に問うてきた。
「さぁ。私も寝耳に水のことで……わかりません」
とぼけているのではなく、本当にわからない。
だって月曜日と火曜日は課長は出張で、顔すら合わせることがなかった。もちろんスマホにも連絡なし。
そして今日、水曜日になってやっと会えたと思ったら急に派遣会社の営業にミーティングルームに呼び出され、いきなり契約終了を告げられたのだ。
意味がわからない。逆にこっちが教えて欲しいくらいだ。……いや、なんとなくわかっている。
「本当に思い当たることない?」
「えっと……ないです」
美亜は、不思議そうに首を傾げる派遣会社の営業から視線を逸らす。
営業は、その仕草をやましいことがあるのだと判断したのだろう。「若いんだから、間違いはある。けれど不倫は誰も幸せになれないよ」と真顔で忠告する。
大変失礼なアドバイスに、美亜は食い気味に「してません」と強く否定する。ややたじろいだ営業だが、不倫説を捨てきれないようだ。
「まぁ、プライバシーがあるからあんまり深く突っ込むつもりはなけれど、とりあえず契約期間はあと一か月残ってるから、問題を起こさないようにしてね」
「はい」
「それと、有休消化は周りの迷惑にならない程度でお願いね」
「はい」
「失業保険とかの書類は契約終了後に自宅に送るから。ただその前に質問とかあったら気軽に連絡してね。こっちも紹介できる仕事があったら、連絡するから」
「はい。ありがとうございます」
殊勝に頷く美亜に、営業はもう不倫ネタを語ることは無く面談は終了となった。
ミーティングルームを出た美亜は、自分の席に戻らず最上階の休憩スペースに移動する。今の時刻は11時を少し回ったところ。がっつり勤務時間中であるため、閑散としていた。
福利厚生で置かれている給茶機からお茶を淹れると、美亜は窓際の席に腰かけて空を見上げる。雲一つない晴天だ。
泣きたいほど澄んだ青空を見上げて、美亜はこれからの身の振り方を考える。
ひとまず会社都合で契約が終了するのだから失業保険はすぐに出るだろう。営業は違う仕事を紹介すると言ってくれた。
だから落ち込むことはない。最悪、年末はゆっくり帰省して、年明けから仕事を探しても遅くはない。
貯金だって少しはあるし、最悪兄に泣きつけばちょっとは助けてくれるだろう
冷静に考えれば、落ち込むことなんて何一つない。派遣社員が会社都合で切られるなんて良くあること。
そう頭ではわかっているが、やはり課長のことを考えてしまう。
今後顔を見たくないと思うほど、怒らせてしまったのか。東野は笑って大丈夫と言っていたが、それは他人事だから言えること。
今後一切、彼の発言を信じることは無いだろう。
「あーあ……せめて一言謝りたかったなぁ」
往生際悪く、心残りをつい呟いてしまう。
ただここでぼんやりしていても埒が明かないのはわかっている。だから気持ちを切り替えて、席に戻ろうと腰を浮かせた瞬間ーー
「あ!星野さん見つけた!んっもう!ここにいたんだー」
と、叫びつつ綾乃が息を切らして飛び込んできた。
ただ事ではない様子でこちらに近付いてくる綾乃に、美亜はぎょっとしながら立ち上がる。
「なになに?……ど、ど、どうしたん」
「いいから行くよ!」
ですか?と最後まで言わせてもらう時間すら与えられずに、美亜は綾乃に腕を引っ張られて営業企画課に連れ戻された。
「お待たせしました!星野さん連れてきました!」
「ありがとう長坂さん。ーーじゃあ星野さん、大至急社長室に行って!」
「はぁいーー??」
家出した子供みたいに営業企画課のフロアに連れ戻された途端、今度は目が合ったショートカットの女子社員に廊下に押し出された。
しかし美亜は、社長室なんか知らない。
「あ、あのっー、社長室ってどこですか!?」
「え、嘘!?知らないの??」
「すいませんっ、派遣社員なもんで」
「そっか。じゃあ、おいで」
面倒見の良い女子社員は、社長室まで案内してくれるつもりのようで、美亜の前を歩き出す。
「……あの、私、なんで社長室なんかに行かないといけないんでしょうか?」
「ごめん、わかんない。内線取ったの私じゃないから」
「そっすか」
美亜がおずおずと問い掛ければ、女子社員はそっけなく答える。
ただ振り返ったその目は「お前、一体何をしたんだ?」と、派遣社員の営業同様に訴えかけてくる。
そんなもん、こっちが知りたいよ。などと言えない美亜は、むぎゅっと口を閉じてエレベーターに乗る。ちなみに社長室は御最上階の一階下。
今日は無駄に行ったり来たりする日だなと、美亜は頭の隅でぼんやりと思った。
重役専用フロアの階に降りた美亜と女子社員は、足を止めずに社長室に向かう。
「じゃ、私はこれで。……星野さん、なんか良くわかんないけど頑張って!」
「は……はぁ」
最後に社長室の前で意味不明なエールを送った女子社員は、足早に去っていく。対して美亜は心臓がバクバクだ。
手のひらに浮かんだ汗をスカートの裾で拭いて、深呼吸を二回。それから重厚な扉をノックする。
入室を許可され深々とお辞儀をして入室すると、革張りのソファに腰かけるお偉いさんらしき男性二名とーー課長がいた。
「いやぁー悪かったね、仕事中に。ま、座って座って」
「星野さんって言ったっけ?そう緊張しないで。まぁ指宿殿の隣に座ってくれたまえ」
「……あ、は、はい」
社内報やたまにテレビでお見かけする男性二人はパールカンパニーの会長、矢部五郎とその息子であり社長の矢部幸三。そんな二人に気楽にと言われてもできるわけがない。
なのに、ガチガチに緊張する美亜を見て課長は笑う。
「久しぶりだな」
「はい」
普段通りの課長を見て、美亜はどんな顔をしていいのかわからない。ぎこちなく頷くとそのまま俯いてしまう。
そんな美亜に会長の矢部五郎は強引に着席させると、次いで、とんでもないことを言った。
「いやぁー、星野くん助かったよ、指宿殿のアシスタントを引き受けてくれて。これからも頑張ってくれたまえ」
「……は?」
「年内は、まぁ派遣契約が残っているから仕方ないけど、年明けからは正社員として指宿殿の秘書として頑張ってくれたまえ。ああ、そんな顔をしなくて大丈夫だよ。色々面倒なことはこっちでやっておくから」
「は.……い?」
「まぁ何にせよ、良かった良かった。これでわが社も安泰だ。これからよろしくたのむよ」
「……あのう」
演説よろしくまくしたてた会長と社長の言っている意味がわからず、美亜は恐る恐る挙手をした。
「私、今の今、営業から契約終了を告げられまして」
「ああ、そうだろうな。そうしなきゃ正社員になれないからな」
「......え、私クビになったんじゃ」
「なるか、馬鹿」
「いや馬鹿って......そんな......だって、課長は」
ーー私のこと嫌いになったんじゃないんですか??
うっかりそんな言葉を紡ぎそうになった美亜は慌てて口を閉じる。
興味津々にこちらを見ている会長と社長は、ここで「あっはっはっ」と大声で笑った。
2トップの突然の大爆笑に美亜はポカンとしてしまう。
「あっははっ、いやー失敬。それにしても、すごいね、君。実のところ指宿殿が急に星野くんを社員にしろって電話で言ったときはびっくりしたけれど、二人を見ているとーー」
「ジジイ、黙れ」
会長は美亜の目から見たら、好々爺でしかないが、課長にとっては違うのだろう。まるでウザいの代名詞である生徒指導の先生と会話をしているように、渋面を作っている。
とはいえ課長の態度は、いつものことなのだろう。会長は気を悪くするどころか、更にニコニコして己の額をペチンと叩いた。
「おっと、失礼失礼。年を取ると少々、お喋りになるもんでな。指宿殿、老いぼれの失言だと思って忘れてくれたまえ」
「はんっ、都合がいいな。一昨日、生涯現役って言ってなかったか?たしか錦のーー」
「指宿殿、息子の前でっ」
「安心しろ、ジジイ。その三件隣の店で息子も楽しんでたぞ」
「ちょ、それは指宿殿、内緒にって!!」
「恨むなら、お喋りなお前の父親を恨め」
ソファにふんぞり返りながら会長と社長に冷や汗をかかせる課長を見て、美亜はこの三人の力関係を瞬時に理解した。
しかし、そんなものは些末なこと。今、心を占めている感情はそれじゃない。
「課長......私......」
「これからはボランティアじゃないからな。しっかり働いてもらうぞ」
言い終えたと同時に、大きな課長の手が美亜の頭に乗る。飼い犬のように頭を撫でられ、美亜は不覚にも視界が涙でぼやけてしまう。
課長は怒ってなんかいなかった。まだ傍に居て良いと言ってくれた。大手企業の正社員になれた。自分が描くキラキラ女子に一歩近づいた。
しかも正社員になれたのは、嘘つきと言われたありのままの自分が頑張った結果で……
「う……ううっ」
「お前なぁ、こんなことで泣くな」
「い……良いじゃないですか。だって、嬉しいんですもん」
「泣く程か嬉しいのか?」
「当たり前じゃないですか!」
天下の天狐様は意味が分からないと首を捻る。でも、口元はしっかり弧を描いていて、それが更に涙をさそう。
もう大号泣の2秒前。でも美亜は、ガチ泣きしたい衝動を無理矢理に押し込み、ぐいっと涙を手の甲で乱暴に目頭を拭うと勢い良く立ち上がった。
「あ、あの!!」
「は、はいぃーーー」
「な、なんだね!?」
聞くに耐えない夜の街での暴露大会をし始めた会長と社長は、ぎょっとした顔で美亜を見上げた。
「私、一生懸命頑張ります!!」
直角に腰を折った美亜に課長は満足そうに笑う。会長と社長も同じく破顔しーー昼休みを告げるチャイムが社長室に鳴り響いた。
「よし、じゃあ話は以上ということで、今日は指宿殿と二人で美味しいものを食べてきなさい」
そう言って会長は上着の懐から財布を取り出し、万札を抜いてテーブルに置く。つづいて社長も。
「ありがとうございます。ごちそうになります」
遠慮無く昼食代をいただいた美亜は、にっこり笑って課長に「行きましょう」と声をかける。
「ああ。……で、どこに行く?臨時収入が入ったんだ。派手に行こうか」
立ち上がりながら老舗料亭の名を挙げる課長に、美亜は首を横に降る。
向かう先は、もう決まっている。課長と自分の原点となった路地裏のお店だ。
ただし注文するメニューは味噌煮込みうどんになんかさせない。きつねうどん大盛り二人前、これ一択だ。
◆◇◆◇おわり◇◆◇◆
最初のコメントを投稿しよう!