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人通りの無い歩道に、サンダルのパタパタ音が響く。遅れて追いかけてくるスニーカーの音。
「おい待てよ!」
臨時収入を逃すまいと圭司は追いかけてくる。
美亜は元テニス部で脚力には自信があるというのに、彼は諦めることなく追ってくる。すごい執念だ。
よっぽどのことが無い限り追いつかれることは無いが、それでも彼を撒くのは至難の業。だから美亜は少し悩んで裏路地に入る。
時刻は23時。住宅街は金曜の夜とはいえ、明かりはほとんど消えている。
ああ、何が悲しくて給料日に元彼と逃走劇を繰り広げないといけないのか。こんなのキラキラ女子がすることじゃない。
テレビドラマのようにイケメンに追われ口説かれるならまだしも、捕まったら最後、財布の札が消える状況に美亜は足を止めずに涙を浮かべた。
しつこいけれどまだ圭司は追ってくる。本当にしつこい。
「おい止まれって!マジ、家賃払わないと俺、アパート追い出されるんだよ!頼むから金くれよ!」
背後から叫ぶ声に美亜は知ったことかと心の中で悪態を吐く。
もううんざりだ。そう言われて何度も家賃を肩代わりした過去の自分が憎らしい。あと友達と言っておきながら、圭司を寝取ったあの女も憎らしい。
たしか加奈って言ったっけ。初対面で「あー名前に”美”が付く人って大概美人じゃないんですよねぇー。あ、美亜さん”美”がつくんですかぁー?マジうける」と言ってくれた失礼女。全然、ウケないよ。
などと美亜が思考が脱線した瞬間、空気が変わった。
いや、美亜を取り巻く空気だけじゃない。視界も音も全てが遮断された真っ黒な無の世界になった。
ブラックホールに吸い込まれてしまったかのような無の感覚に、美亜がひゅっと喉を鳴らしたのは一瞬だった。
すぐにパチッと電気を付けるように、車の行きかう音と、ポツポツと寂しげな民家の明かりが視界に映る。
おそらく時間にして数秒。でも不思議な感覚は今なお生々しく体に残っている。
恐る恐る胸に手を当てれば、入部したての頃、テニス部の伝統で心臓破りの神社の階段をダッシュしたときより心臓がバクバクしている。
「……酸欠……かな?」
きっとそうだ。そうに違いない。
少しだけ感じる違和感を振り払うように美亜は自分に言い聞かす。だってここは都会だ。田舎じゃないから、科学で証明できないことは起こらないはず。
ただ後ろを振り返れば、圭司の姿はどこにもなかった。あんなに近くにいたのに。
鳥肌が立った二の腕をこすりながら、とにかく帰ろうと美亜はエコバックを強く握りしめて、元来た道……ではなくそのまま進行方向に進む。
ただあと少しで大通りといったところで、美亜は足を止めた。
民家の陰に身を隠す男がいたのだ。無論、圭司ではない。
その人は、平安時代の貴族衣装姿で白髪にピンとした耳。背中にはモフモフ尻尾が4本、ふぁーさふぁーさと揺れている。
それだけでも驚きだが、何とその人は見覚えがあったーーあろうことか派遣先の上司である指宿課長だった。
なんでまたこんなけったいな服装を……と、思ったが季節は秋。ハロウィンまで一ヶ月を切った今はコスプレをしても許される季節である。
加えて指宿課長はハイスペックイケメンである。美男子は、コスプレをしても許されるのが都会の常識だ。たぶん。
何よりついさっきコンビニに向かう途中に、来るハロウィンに向けてリハーサルをしている3組のコスプレ軍団を見たし。
だから美亜は、指宿課長にペコっとお辞儀をすると、再び何事もなかったかのように歩き出した。
ただすれ違う際に、うっかり呟いてしまった。
「課長、ハッピーハロウィン」
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