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彼女が弟が死んだ原因の身内と知ったのは、偶然だった。
校内で臨地実習を受け入れてくれる病院一覧が貼り出された掲示板を見てこういった。
「あっ、ここ! 私の弟が入院してた病院だ」
彼女が指差したのは奇しくも、彼の弟も入院していた病院だった。
といっても、地方の総合病院など数少ない。この付近で入院したといえば、ほとんどの人がこの病院の世話になる。
だから彼も、さほど気に留めなかった。それより明るい口調で、かつ過去形で語った彼女を見て、彼女の弟は無事退院できたのかと温かい気持ちにすらなった。
しかしそんな彼の心を踏みにじるかのように彼女はこう続けた。
「そういえばあの時、弟さぁ……同じ小児科の男の子と喧嘩しちゃって、相手の子、死んじゃったんだよね」
ーー【小児科】と【死】。
彼女の口から出た二つの言葉を耳にした途端、彼の心臓はドクンと跳ねた。
「そ、そうなんだ。大変だったね」
ありきたりなことを言いながら、彼は全身から嫌な汗が噴き出るのを押さえることができなかった。
彼女の苗字は、弟の短冊を奪った子供のそれとは違う。だからきっと、あの事件とは全く関係ないことだ。そう、違う。違うはず。……頼むから、違ってくれ。
そう願う彼に、彼女は愛らしい笑みを浮かべた。
「うん、超ー大変だった。今思い出しても、ほんと迷惑!だって子供の喧嘩だよ?死んじゃったのは確かに可哀相だったけど、そんなの事故じゃん。それなのに、うちの弟は殺人者扱いされるし」
過去のことを思い出しているのか、彼女は次第に不満げな表情に変わった。
「そりゃあうちの弟が喧嘩吹っ掛けてきたかもしれないけど、乗る方も乗る方じゃん?病気もちなら、大人しくしとけっつ-の。おかけでうちは、名前を変えないといけなくなったし、いい迷惑よ」
「え?……名前、変わったの?」
つい問うてしまった彼に、彼女はあっさり首肯した。
「そうだよ。でも親は離婚してないけどね。ってか、一回離婚して、お父さんを婿養子にするって形にしてすぐに再婚したっていうのが正解。あ、これ内緒ね」
あなたが特別な人だから話してあげたのよ。
そんなニュアンスを込めて、彼女は彼の唇に人差し指を押し当てた。
時折見せるそんな魅惑的な彼女の仕草が、彼はたまらなく好きだった。どんな悩み事も彼女に話せば、たちまち笑い話になるポジティブで明るい性格の彼女を尊敬していた。
大切な人を失った彼が、再び得た大切な人だった。生涯、ずっとずっと大切にしようと思っていた。
しかしその人は、人の死を悼むことなく【迷惑】だと言った。事の真相を突き止めるわけでもなく、【子供同士の喧嘩】と都合良く割り切っていた。
彼女には、弟が死んだことだけは伝えていた。
詳細を語らなかったのは、今でも口に出すのが辛かったから。でもいつか語れる日が来たら、彼女ならきっと寄り添ってくれると信じていた。
──なのに……それなのに。
彼女は、ここに……目の前に喧嘩の末に命を落としてしまった子供の兄がいるという可能性にすら気付いていない。いや、考えようともしていなかった。
「ねえ、それよりもさ、この後の授業さぼろうよ」
青ざめる彼に気付いていない彼女は、上目遣いで二人っきりになれる場所に行こうと誘惑する。
「……君は、看護師に向いてるね」
彼は掠れ声で言った。そこに人の死を軽んじる彼女への侮蔑が込められていたけれど、当の本人はまったく気付いていない。
「えー私、看護師向いてないよぉー。親が行け行けってうるさかったから仕方なく進学したけど、マジ無理。死んじゃう人の世話なんかできないよ。こっちが病んじゃう。あー、もうわざと試験落ちよっかな?」
あははっと彼女は無邪気に笑う。彼がどんな顔をしているのか、わかろうともしないで。
そんな彼女を見て、彼は己の見る目が無かったことを否が応でも知らされる。
無邪気ではなく、能天気。
ポジティブではなく、インセンシティブ。
眩しいほどに前向きに生きる彼女は、思いやりの欠片も無いただの馬鹿な女だった。
ーー弟も弟だが、姉も姉だな。
彼は絶望を通り越して、笑いたくなった。と同時に、自分の中で何かが壊れ、そして何かが生まれた。いや、違う。失ってしまった弟が戻ってきてくれた気配を確かに感じた。
「いいよ。さぼろっか」
彼は、彼女に向けて微笑む。すぐに彼女は「やった!」と彼の腕に自分の腕を絡ませる。
「国道沿いのホテルでいい?あそこね、ネットクーポン使えるんだ」
空いている方の手でスマホをいじりながら、彼女は無意識なのか計算なのかわからないが、豊満な胸を彼の腕に押し付ける。
ついさっきまで、彼女にそうされれば、彼はドキドキして夢見心地になった。しかし今は、おぞましいだけ。振り払いたくて仕方がない。
けれども、彼は笑みを湛え、彼女と共に外に出る。
法で裁けない彼女を、自分と弟の手で断罪するために。
そうして、彼女は罰を受けた。その後、彼女の弟にも同じようにした。二人を殺さなかったのは、情ではない。より長く苦しみを味わってもらうためでもない。
彼は弟を蘇らせてくれたことに、わずかながらに感謝の念があったからだ。
蘇った弟は、肉体は無い。触れることもできない。年を取ることも無い。一生、少年のまま。
けれども、弟はもう病に苦しむことは無い。無邪気な笑みを浮かべて、自分の傍にずっとずっと居てくれる。もう二度と、離れ離れになることはないだろう。それが無性に嬉しかった。
とはいえ、対価は必要になる。
弟は【死】が近い場所でないと、形を保っていることはできない。誰かが苦しむのを養分として生きながらえることができるのだ。
幸い、彼は少々の揉め事はあったにせよ、無事に看護師になることができた。
タイミング良く、両親は離婚してくれた。被害者から加害者に立場が逆転してしまった彼は、母親を支えるという体で、この街を去るのに絶好の機会だった。
県外に住まいを移し、母親の旧姓である大矢と名が変わっても、弟は変わらず傍に居てくれる。
だから彼は、看護師として働きながら常に死を願い、死の匂いを求めて職場を渡り歩いた。
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