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彼ーー大矢博は、これまでのことをつらつらと思い出しながら、左手の傷を撫でた。触ると違和感がある。
「なあ正弘、起きてるかい?」
この傷は弟が死んだ後、自らが付けた。傷口の中央にあるしこりには、弟の短冊の欠片が埋め込まれている。
「う……ん、なあに?」
舌足らずな少年の声と共に、傷口から弟が姿を現す。
ここは母親と暮らすアパートの一室。実家に身を寄せたのは一時だけで、働きもしない母親は、すぐに厄介者と追い出されてしまった。
今は博が大黒柱であるこのアパートは日当たりが悪く、母親の身体には最悪な環境かもしれないが、弟には最高の環境だ。
かすかに日が当たる西側の部屋は母親の寝室だが、弟は姿を現さない。だが、北側の博の部屋なら呼べばいつでも出てきてくれる。
「兄ちゃんね、お前に紹介したい女の人がいるんだ」
眠たそうに眼をこする弟に、博は優しく語り掛ける。途端に、弟はぱっと笑みを浮かべた。
「ほんとう?僕のお姉さんになってくれる!?」
「ああ。きっと彼女なら、正弘も気に入ってくれるよ」
「やったー!……でも、ほんとに大丈夫?」
飛び上がらんばかりに喜ぶ弟だが、すぐに不安げな目を向ける。きっと以前の彼女のことを思い出しているのだろう。
母親と共に県外に引っ越した博は、何かと物入りな生活費を稼ぐために看護師と居酒屋のバイトを掛け持ちしていた時期があった。
その時に知り合った女性に、博は弟を紹介した。
繊細な彼女なら、きっと弟の寂しさや苦悩を理解してくれると思ったのに、結果は散々だった。
あろうことか彼女は弟のことを受け入れるどころか「バケモノ」と言い放ったのだ。
いつも一緒に居たいと言っていたくせに。どんなことがあっても自分を信じると言ってくれたのに。彼女は悲鳴を上げて、その場を去った。
ただあの時は、博も正弘も何もしていない。後から彼女が勝手に壊れただけだ。西側の部屋で眠る母親も、同じように弟を見てさめざめと泣き、更に自分の殻に閉じこもるようになった。
どうして誰も弟を受け入れてくれないのだろう。こんなにも可愛くて、愛おしいというのに。
そんな苦い気持ちが博にの胸に湧き上がる。しかし、彼はその感情をぐっと堪えて膝を折り、弟と目を合わせる。
「今度は、大丈夫。だって彼女……美亜ちゃんはホラー好きの女性なんだ。怖がったりしない。それに俺たちがしたことを「仕方がないこと」って言ってくれる優しい人なんだ。きっと正弘のことも、大事にしてくれるさ」
噛んで含むように伝えれば、正弘は再び笑顔を取り戻す。
「そっか。じゃあ、クリスマスは三人でお祝いしようね!僕、チョコレートのケーキが良いな」
「わかった。じゃあ、大きいケーキを買ってこないとな」
「やったぁー!」
はしゃぎながら自分の周りを飛び跳ねると弟を見て、博は絵本も買ってやろうと決める。物に触れることができない弟でも、目で見て楽しめるだろうし、美亜に読み聞かせを頼むのも良い。
ああ……でも、急にそんなことをお願いするのは図々しいか。
クリスマスまであと二週間とちょっと。事前に弟と顔合わせだけでもしておいた方が良いだろう。
そう決めた博は、スマホを手に取る。時刻は夕方。美亜の職場は知っている。今から向かえば、ちょうど彼女の退社時刻だ。
「なあ、正弘。今から美亜ちゃんに会いに行こっか」
「うん!行きたい!会いたい!!」
即答する正弘に、博は兄らしい笑みを浮かべる。
そして手早く出掛ける準備をすると、美亜の働く職場へと向かった。
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