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「美亜さーん」
快活に名を呼ばれ、美亜の身体がビクンと跳ねた。
恐る恐る後ろを振り返ったら、満面の笑みでこちらに向かって手を振る博がいた。途端に身体の力が抜ける。
「……博さん、あの……どうしたんですか?」
「ん、会いたいなって思って待ってたんだ。良かった。行き違いにならなくて」
「そう……そうですか」
駆け寄って来た博は、まるで自分がドラマの主人公のようになったかのように嬉しそうにしている。
けれども美亜の心はざらついている。
だってこのご時世、20代のスマホ所有率は98パーセント。待ち伏せなんてストーカーがやることだ。
連絡先だって交換しているし、まして下の名前で呼び合う仲なのだから、会いたいなら事前に連絡を入れれば良い。それに以前に会った時はそうしてくれた。
博のことは嫌いではない。むしろ好感を持っている。でも、元カレ圭司と同じようなことをされると、どうしても同類なのかと疑いの目を持ってしまう。
「連絡してくれたら……良かったのに」
「うん。でも会えたからそれでいいじゃん」
精一杯不満を伝えてみたけれど、博はそれに気付いてくれない。
それどころか「会って欲しい人がいるんだ」と、ニコニコと笑みを浮かべて向かう先に身体の向きを変える。
「え?会うって……あの、どなたに?」
「ん、弟。きっと美亜さんとも仲良くできると思うよ。さ、行こうよ」
「ちょ、ま、待って。私」
「大丈夫、すぐ近くだから」
表面上は穏やかで、暴力的ではない。でも恐ろしくマイペースで、困惑する美亜に気付いていない。
とにかく自分の思い通りにしようとする博は、居酒屋で己の過去を語った時とは別人のようだ。それが怖くて仕方がない。
「ごめんなさい。私、この後用事があって」
本能的な警鐘を信じた美亜が後ずさりすれば、博は半目になった。
「そう。美亜さんも他の子達と一緒なんだ」
「え?なにそれ」
「俺と距離を取るんだ。酷いね」
「そんなっ、そんなこと!」
「無いなら、付き合ってよ。それともこの前、話してくれたのって嘘だったの?」
「……っ」
今の博の発言は滅茶苦茶だ。会話は噛み合ってないし、自分は弟に会いたいなどと一言も言ってないし、そもそも博から弟がいるなんて聞いてない。
見たこともなければ、興味も持てない博の弟と会う義理なんて無い。断わる権利はこちらにある。
でも嘘付き扱いされるのは、美亜にとってこの上なく嫌なことだった。
「わ……わかった。本当にちょっとだけなら大丈夫。でも、すぐに帰るね」
「もちろんだよ。じゃ、行こっか」
予防線を張った同意に、博は満足げに笑う。
すれ違うのはカップルばかりで、揃いも揃って自分たちの世界に浸っている。危機が迫った美亜に気付く人は誰もいない。
促されて歩き出した美亜は、真冬なのに嫌な汗が止まらない。
これはどう考えてもドラマティックな展開だ。ただし胸キュン必須の恋愛系ではなく、手に汗握るサスペンス系。
テレビ大好き美亜でも、そっち系のヒロインは心から辞退したいと願う。だが、現実はどこまでも優しくはなかった。
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