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箱の中のカブトムシ
歩いた距離は確かに少しだった。けれどそれはタクシーを拾うため。
ド田舎で生まれ育った美亜には、未だにタクシーを使うという概念が無い。だからこれはちょっと反則だと思った。
けれど博から「近くだけど寒いから乗ろう」と言われたら断わることができなかった。
「真っ直ぐ行ってコンビニがある角を右で、すぐに小さな花屋があるので今度はそこを左に……そうすると信号があるんで超えたら止めてください」
テキパキと道順を伝える博に、運転手は素直に車を進める。
どんどん通勤路から離れていくことに少々不安を覚えるが、ここは都会。駅前には存在感があるツインタワーがあるから、最悪一人で逃げる羽目になっても迷うことはないだろう。
これが地元だったら即座に遭難だ。あー良かった。いや良くは無い。
などと一人ツッコミをしていれば、タクシーは静かに停まった。
「近くですみません。おつりは要らないです」
「あっ、ありがとうございます。寒いですからお気を付けて。ご利用ありがとうございました」
小さな気遣いにタクシーの運転手はにこっと笑って去っていく。
ああ置いていかないでと、つい手を伸ばしたくなる美亜を無視して、博は「こっち」と言って歩き出す。
ざっくりとしかわからないが、ここは駅の北東側。後ろを振り返れば、キラキラした都会のビルがひしめき合っているが、目の前の光景は閑静な住宅街と言っても過言ではない。
「ちょっと離れると幼稚園とかあるんだ……不思議」
「そうだね。実は俺も最初はびっくりしたんだ。なんか都心って働くための場所って感じで、人が生活しちゃ駄目って勝手に思ってたし」
「あ、それ。わかります。洗濯物とか似合わなそうだし」
「あははっ、同感」
独り言のつもりが、まともな会話に発展して美亜はちょっとだけ肩の力が抜ける。
「ねえ博さん。弟さんって幾つですか?」
「……どうだろう。っていうか、それ知ってどうするの?美亜さん」
「え」
急に冷たい口調になった博に、美亜は立ちすくむ。
「だって博さんに弟がいるなんて知らなかったから、どんな人かなって思っただけで……その……えっと、ごめんなさい」
怖い顔をされて、つい謝ってしまった。でも内心なんで自分が謝らないといけないのかと思ってしまう。
その気持ちはしっかり顔に出ていたのだろう。博は一瞬だけムッとした表情になる。しかし、すぐに取り繕った笑みを浮かべた。
「ううん、なんか俺こそごめん。急にそんなこと聞かれたから、驚いちゃって。っていうか、弟に興味を持ってくれた人ってこれまでいなかったんだ」
「は、はぁ」
「そうだよね、ごめんごめん。美亜さんはこれまでとは別の人なんだから……うん。本当にごめん」
さらりとデリカシーの無い発言をした博に、美亜の心がちくっと痛む。
元カノの影を出されるのも、比べられるのも好きじゃない。
何でこんな所に付いてきちゃってんだろうと、美亜は今更ながら酷く後悔する。でも引き返すにはもう遅かった。
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