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「ここだよ。弟はここに居るんだ」
博が指差したのは、マンションの1階にある小さなカフェだった。
そこはカフェというより、場末のスナックならぬ裏町の喫茶店と呼ぶ方が正しい店構え。
「弟が待ってるから、急ごう」
「あ……うん」
今にも潰れそうな喫茶店でも、取り敢えず店員はいる。そして人の目があるなら変なことはされないだろうと美亜は判断した。
しかし博は喫茶店を通り過ぎてマンション内に入った。
「ちょ、待った!待ってくださいっ。弟さん、お店に居るんじゃないんですか!?」
「いいから付いて来いって!」
ただならぬ気配を感じた美亜が、回れ右をしようとした途端、乱暴に腕を掴まれた。
咄嗟に暴れて腕を外そうとしたけれど、見かけによらず博の力は強かった。
「痛い!博さん、やめて。離して!」
「黙って。すぐに会えるから」
「いえ私、弟さんになんか会いたくなーー……ひっ!」
ほとんど抱え込まれるようにしてズルズル引っ張られて、強引にマンションの1室に押し込まれてしまった。
真っ暗闇に怯えつつ鞄をぎゅっと抱きしめたと同時に、部屋の灯りがつく。
「もう美亜さんったら、大声出さないでよ。びっくりするじゃないですか」
玄関をしっかり施錠した博は、美亜の腕を再び掴んで部屋の中に入った。
ワンルームの部屋の中は全くと言っていいほど生活感が無かった。
かろうじてカーテンは引いてあるけれど、床にはラグも敷いてないし、テレビも冷蔵庫も、ましてソファやテーブルすらない。
しかも博は平然と土足のままでいる。同じく土足でいる美亜に靴を脱げとも言わない。
「あの……ここ」
「俺は好きじゃないんだよね、事故物件って。でも弟が好きなんだよ。居心地良いのかな?人が死んだところって。家賃は激安だから助かるけど」
「ひぃ」
二度目の悲鳴を上げた美亜は、即座に部屋から出ようとする。
でも、あと3歩で玄関っていうところで博に捕まった。
「さっきから美亜さんどうしたの?あ、もしかしてここが殺人事件現場じゃなくって、自殺したところだったから不満だった?……ごめんね。近いうちに探しておくよ。弟も多分、良いって言ってくれるだろうし」
「や、や……ちが……ちがう」
恐怖でガチガチと歯が鳴る中、精一杯、嫌だと伝えるが博はぜんぜん気付いてくれない。
頭の隅で「あ、まだ私のことホラ女と思ってるんだ」と思うが、それを懇切丁寧に訂正する冷静さなんて持っていない。
何より今の博は完全におかしい。だいたいここは何のための部屋なんだ。
弟、弟、弟、と言う割にはここには自分と博の二人だけだし。狭いワンルームには、他の人の気配は皆無である。
気になる人だったから。自分と同じ傷を抱えている人だったから。人懐っこい笑顔に胸が温かくなったから。苦し気な横顔が見ていて辛かったから。
こんな訳の分からない場所までついて来たけれど、もう限界だった。
「博さん、私帰る!弟さんなんかいないじゃん!」
騙されたとは思っていない。裏切られたとも思いたくない。ただただ一刻も早くここから立ち去りたい。
「どいて!!」
渾身の力で博を突き飛ばして、玄関のカギを解除しようとする。しかし旧式のロックは、なぜかびくとも動かなかった。
「え……な、なんで?やだっ、やだやだやだやだっ、ねえ、どうして!?」
きっと動揺しているせいだ。カチッと捻るだけの内側の鍵なんて、落ち着けばすぐに解除できる。
そう自分に言い聞かせても、手の震えは止まらない。
「美亜さん、ごめん。帰らないで」
「……っ」
ゆっくりと近付いてくる博の気配がする。怖くて振り向けない。
理性を失いかけた美亜は、最終手段で力任せにドアノブをガチャガチャと回す。当然だが、そんな簡単には扉は開かない。
それが余程耳障りだったのだろうか。博は「うるさいな」と呟く。そして、また強引に部屋の中に連れ戻される。
「美亜さんさぁ、ちょっとせっかち過ぎない?弟は繊細なんだ。こんなにうるさかったら出てこれないよ。ちょっと静かにして」
「なっ」
あまりの言われように美亜はキッと博を睨み付ける。しかしその瞳は、みるみるうちに驚愕の色に変わった。
博は上着ごと袖をめくると、傷跡が残る左腕をさらけ出した。次いで「おいで」と傷痕を撫でながら優しく囁いた。
電気のスイッチなんて誰も触っていないのに、明るさが半減した。
部屋の温度が一気に下がって、かび臭いような生臭いような、とにかくこれまで嗅いだことがない異質な匂いが鼻を刺激する。
あまりの悪臭に美亜が思わず手のひらで鼻を覆った途端、そ・れ・は博の腕からにゅるりと現れた。
「美亜さん紹介するよ。弟の正弘だよ。ーー……さぁ、正弘。そんなに浮かれてないで、ちゃんと美亜さんにご挨拶をしろ。ほら、はしゃぐな、転ぶぞ」
穏やかに微笑む博は、美亜を見ていない。忙しなくあっちこっちに視線を向けている。
稀眼を持つ美亜は、それをちゃんと瞳に捉えている。とはいえ正直、人間の腕から”こんにちは状態”というあり得ない状況に、体中が震えて意識が遠退きそうだ。
「ひ……博さん。こ、こ、これ」
「ん?ごめんね、美亜さん。ちょっと待ってて。正弘ってば、本当にやんちゃで。ごめんね、すぐに大人しくさせるからーーこら、正弘。カーテンで遊ぶな!」
博は面倒見の良い兄の顔をしている。口調こそ厳しいが見つめる瞳はとても優しく、弟のことが可愛くて可愛くて仕方が無いというのが痛いほど伝わってくる。
だけど、だけど……それは本当にそこに弟がいれば、の話でーー
「博さん、あの……そこには弟さん居ないですよ」
「え?何言ってんの美亜さん。いるじゃん、ここに」
「いな……いないっ。居ないよ!」
きょとんとする博に、美亜は声を荒げた。
すぐに表情を険しくする博に怯みつつ、美亜は震える指で別の方向を指してこう言った。
「弟さんは、カーテンの所になんかいないですよ。ここ……ここにいます」
ーー笑ってなんかいません。泣いてます。
付け加えた一言に、博の表情が消えた。
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