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第7話・ただいま
僕たちを乗せた高級車はM市役所の入るタワービルの地下駐車場に入っていく。多くの人が知ることのない特別な駐車場だ。
ビル内部に通じる小さなエントランスに人影があった。僕は思わず腕時計を見る。午後七時五十九分。
エントランスの前に蜜柑ちゃんが寸分の狂いもなく車を停めた。同時に後部座席のドアが開いたので、僕は車から降りながら、午後八時ギリギリになってしまったことを早口で詫びた。
「さくらさん、すみません。ギリギリになってしまいました」
「べつにいい。遅刻したわけじゃないのに、あんたはいつも謝りすぎなのよ」
さくらさんは怒ってはいなかった。シルクブラウスの上に羽織ったスプリングコートを軽やかにひるがえしながら、僕と入れ替わりに後部座席に乗り込む。車のなかからユウが不安そうにこちらをみていた。さくらさんの肩越しに、僕は「大丈夫だよ」と、彼に頷いてみせる。さくらさんがユウに向かって優しい声で話しかけた。
「こんばんは。あなたがユウくん? これからわたしが、あなたを飼い主さんのところへ連れてってあげます」
「はい。……ねえ、あのひととは、ここでおわかれ?」
ユウがおずおずと首をのばして、車の外に立った僕のほうを見た。さくらさんもユウの視線につられてこちらを見る。
「そうね。猫ちゃんを飼い主さんのところへ連れていくのは、わたしの仕事だから」
さくらさんの言葉に、ユウはちょっとさみしそうな顔をした。
招き猫にまつわる仕事は分担制だ。現場での保護および捜索は叔父と僕。保護した招き猫を飼い主に引き合わせるのはさくらさん。各地にちらばる「連絡係」とコンタクトをとるのもさくらさんだ。猫神様ともパイプがあるらしい。だから僕の仕事は、ほんとうならここで終わり。しかし今夜はちょっと、心残りだった。
招き猫はみんなかわいい。そのなかでもユウはひときわ素直でかわいかった。僕はいつになく、招き猫が飼い主に再会するのを見届けたい気持ちになった。もし飼い主が拒否するようなら、市役所職員の立場を明かしてユウの手助けができるかもしれない。……あんまり自信はないけれど。
「あの、さくらさん。僕もついていっていいですか」
「……いいけど。めずらしいね」
さくらさんは僕とユウの顔を見比べながら、好きにすれば、とつぶやいた。
僕は急いで助手席に乗り込んだ。ドアが閉まりきる前に車は地下駐車場を出て、公道に乗ったとたん法定速度の上限までスピードを上げている。
(第7話後半に続く)
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