第1話・フェイク

1/2
前へ
/84ページ
次へ

第1話・フェイク

 僕にはふたつ秘密がある。  ひとつは、猫のことばがわかること。  もうひとつは、昔からずっと叔父に片思いしていること。 ◆  向かいの席に座っていた叔父がそっと腰を上げたので、僕はいつものくせで自分のパソコン画面の時計を見た。  午後五時二十八分。  叔父は毎日毎日、それこそ判で押したように、この時間になると席を立つ。そして湯呑みを洗ってトイレを済ませ、定時の午後五時半きっかりに「お先に失礼しまぁす」と独り言のように呟きながら執務室を出ていくのだ。叔父に挨拶を返す職員は誰もいない。みんな、叔父をいないものとして扱っている。  定時を過ぎると、市役所が入居するビルのエレベーターは退勤する職員たちで大混雑する。つまり定時を待って帰り支度を始めたのでは、満員のエレベーターを何度か見送らねばならない。叔父はわざと「一秒でも早く帰りたいので、いじましくも些細なフライングをしているダメ職員」と見えるようにふるまっているのだった。  叔父と僕が勤務するM市役所の「青少年育成推進部・青少年みらい課」は十人ほどの所帯だ。警察署や地元の事業所と連携し、青少年防犯活動を行うのが主な役割。課員は日々、市民の安全と安心を守るために忙しく奮闘している。……叔父と、僕をのぞいては。  叔父は、「青少年みらい課」のなかでもピカイチのダメ職員だった。いや、正確にいえば、やりすぎなまでに完璧に、ダメ職員を演じていた。  懲戒対象にならない程度のこすっからい遅刻や無断欠勤を繰り返し、しょっちゅう居眠りしている。仕事の面でもあっぱれな役立たずだ。課長に呼ばれて書類整理やコピー取りなどの雑務を命じられれば、これぞという大切な書類を盛大に汚し、床にばらまく。もちろんコピー部数はしっかり間違える。  身なりにも叔父のこだわりが存分に発揮されていた。すなわち、まるでサイズの合っていない安物のスーツと滑稽なまでに丈の短いスラックスがお決まりのスタイル。足元はもちろんスポーツタイプの白靴下に手入れの悪い靴。妙な長さに切りそろえた前髪の下に、脂で曇った分厚いレンズの眼鏡をかけていた。それが不潔だというので、あからさまに嫌な顔をして避ける職員もいた。  しかし、これらはすべて叔父が入念に仕組んだフェイクなのだ。そしてそれを知っているのは僕だけで、ときどき本気で心配になる――やりすぎて、叔父の正体がバレないか。
/84ページ

最初のコメントを投稿しよう!

138人が本棚に入れています
本棚に追加