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第2話・まばゆい
僕に業務用エレベーターを使うように指示したのは、さくらさんだ。
「閉庁後の業務用エレベーターなんか誰も使わないから。それに万が一、誰かと鉢合わせしても、あんたみたいな無能が乗ってたところで誰も気に留めない」
入職した日、叔父に連れられて訪れた秘書室のひとつで、さくらさんは傲然とそう言い放った。さくらさんはひとりでデスクに座っていた。第一印象の彼女は、いかにも有能そうな艶っぽい笑みを唇に浮かべた麗人。それなのに口が悪くて、初対面の僕をいきなり「無能」呼ばわりした。懐かしいな。今では彼女のそんな物言いにもすっかり慣れっこだ。
僕はいつものように、ノックもせずに秘書室のドアを開けた。さくらさんは僕の気配などとうに察知しているからノックなど不要だ。「あの音は耳障りだから、あんたは絶対やらないで」と怖い目でくぎを刺されている。
「遅い。十五秒の遅刻」
ドアを開けるなり低い声が飛んでくる。さくらさんの声ではない。顔をあげると、着替えを終えたばかりの叔父がこちらを横目で見ていた。
叔父はスーツの上着を羽織るところだった。昼間の、サイズの合っていない安物のスーツではない。あきらかに高価なオーダーメードの一着で、叔父の際立った身体つきを引き立てる。髪もきれいに後ろに撫でつけられ、シャープなシルバーフレームの眼鏡にかけ替えていた。これが本来の叔父の姿なのだ。昼間のうすらぼんやりとした姿からは想像もできない。
憎らしいほど僕好みの男前で、いつもこの瞬間だけはぞくぞくしてしまう。
さくらさんは、デスクで爪の手入れをしていた。いや、正確に言えば、さくらさんの爪の手入れをしているのは、蜜柑ちゃんという事務職の女性だ。さくらさんは秘書デスクの上に美しい手を差し出して、蜜柑ちゃんにマニキュアを塗らせているのだ。
僕は彼女たちがほんとうは何者なのか知らない。内線表や職員名簿には全く違う名前が記されている。美しいボウタイのシルクブラウスを着た美貌のさくらさんと、ひっつめ髪に紺色のベストとタイトスカート、黒いハイソックスに事務用サンダルを履いた蜜柑ちゃんの雰囲気は対照的だが、不思議なことに悪い印象はなかった。彼女たちはお互い好きあっていると思う。僕は昔から、こうした人のこころ模様に聡い。
秘書室は、六畳ほどの小さな部屋だ。奥の壁はいちめん飾り棚になっていて、さくらさんがコレクションしている無数の小物で埋め尽くされている。日本のこけし、ロシアのマトリョーシカ、アフリカっぽい木彫り、ベネチアあたりで売っていそうなガラスの置き物などなど。ちょっと異様な光景だが、さくらさんはいつも楽しそうにそれらを眺めている。
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