第2話・まばゆい

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「しかたないよ。エレベーターが十五秒間、来なかった」  僕は言い訳をしながら部屋の奥に置かれた細長いクローゼットを開けた。着ていたスーツを脱ぐ。スラックスもためらいなく脱ぐ。叔父たちは気にするそぶりも見せない。僕に更衣室を使う権利などない。着替えをもたもたしていると叔父に急かされる。グズは嫌いなのだ。僕はクローゼットの中にかかっていた別のスーツを取り出した。叔父の高級品とは比ぶべくもないが、僕の自前とはまるで違う良品で、着心地も抜群だ。 「じゃあその時間を見越して、十五秒前に席を立ってこいよ」 「僕は良介さんほど達観できてないんだ」 「くだらない自尊心だな」  叔父は小さく吐き捨てながら、自身のスーツの襟をきゅっとひっぱって整え、前ボタンをひとつかける。そんなしぐさもいちいち格好よくてまぶしい。僕はネクタイを締めながらチラチラと叔父のことを盗み見た。叔父は僕の手元を見て眉をひそめている。 「……なんだ、そのタイの締め方は」 「まだ慣れないんだよ」 「貸せ」  いきなり目の前に、好きな人の顔が迫ってきたので僕はどぎまぎした。叔父は僕のネクタイを取ってすばやく締めていく。叔父が手を動かすたびに、かすかな香水の匂いがした。気づかれないようにそっと鼻から深く息を吸い込む。  ああ、いい匂いだ。トップノートはシトラス、ミント。そのあとでローズ、最後はセクシーなアンバーが香る。じつは叔父がこの香水を愛用していることに気づいたのち、僕は休日に百貨店や専門店を探し回って香水の銘柄を突き止めた。意外なことに、特別に高価な品物ではなかった。迷わず購入して自分でもこっそりつけてみたが、叔父と同じ香りにはならなかった。  きゅうっと音を立てて、ネクタイの結び目が僕の喉もとに収まる。叔父の指が結び目から剣先までたどって降りていくので、僕は落ち着かない気持ちになった。何の意味もない、ただネクタイをまっすぐ整えるだけの動作にいちいち反応する自分がちょっと情けない。小声で悔しまぎれを口にする。 「良介さんはネクタイ、しないのに。なんで僕だけ」 「俺がノータイで、おまえがきっちりタイを締めてるのがいいんだろ。それで連中は俺を勝手に見誤ってくれる。彼らにとって『人は見た目が十割』だ」 「僕は良介さんの引き立て役ってことか」  僕がふてくされた物言いをすると、叔父は低い笑い声をもらした。言葉はきついが、目もとは優しい。第一ボタンをはずしたシャツの襟もとで、男らしい喉仏がぐっと動く。 「どうした、ずいぶん卑屈だな。そこまでは言ってないよ」 「今日はどこ? 六本木? 歌舞伎町?」 「さくらさーん、今日はどこだっけ」  叔父がさくらさんを振り返りながらのんびり尋ねる。さくらさんは、蜜柑ちゃんが整えてくれたネイルをためつすがめつ眺め、ゆっくりと満足そうな笑みを浮かべたあと、心からどうでもいいという感じで答えてくれる。 「歌舞伎町。今回の『招き猫』は見つかるのが早かった。まだ飼い主が必死に探してる」 「命拾いしたな」 「雉子岡くん、いつもどおり八時までは待つ。それより長引くんだったら、そっちで今夜の面倒は見てよ」 「わかってるよ」  さくらさんのそばで、蜜柑ちゃんがすばやくネイル用品を片付けて立ち上がった。無言で足音も立てずに移動して、壁のキーボックスから車の鍵を取り出して僕たちのほうを見る。高級車のロゴがこれみよがしに光った。市の公用車とは別に所有されている、ごく限られた関係者にしか知られていない車輛だ。 「じゃあ、行こうかね」  叔父は「ちょっと一杯飲みに行こうかね」とでもいうような気楽な雰囲気で呟いて、部屋を出ていく蜜柑ちゃんに続いた。僕も遅れないように彼らの後を追う。  部屋を出るとき――これもいつもの僕のくせだ――、ちょっと振り返ってさくらさんを見た。さくらさんは席を立って、飾り棚の置き物をひとつ、手に取って眺めているところだった。そしてすぐに僕の視線に気づいて、濃いマスカラで縁どられた切れ長の目でウインクを返してくれた。            ――第3話「(とばり)」に続く
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