悲劇と奇跡の434便

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悲劇と奇跡の434便

 ド・バーン。  激しい爆音と共に黒煙が、ビルから噴き出していた。  「何だ?」  「あれを見ろ」  「トレードセンターが…」  「爆発か?」  「おい、あれを見ろ。WTCに突っ込むぞ」  「バカな」  「わぁ!!!衝突するぞ」  ド・ド・ド・ガーン。  旅客機は、吸い込まれるようにビルへとめりこんでいった。     「きゃ~」  「Oh, My Gad! 」  ド・ド・ド・・・バァン!  アメリカの成長のシンボルとも言えるツインタワーの世界貿易センタービルは、毒霧を吐いて、藻掻き始めた。  2001年9月11日にイスラーム過激派テロ組織アルカーイダのジハーディスト(聖戦主義者)らがハイジャックした旅客機で世界貿易センタービル(World Trade Center)に突入。後に4つのテロ攻撃の総称9.11。  一連のテロ攻撃による死亡者‎: ‎2,996人(被害者2,977人 + 実行犯19人)、負傷者‎: ‎6,291人以上の大惨事となった。  世界貿易センター爆破事件の実行犯の組織。その一人が、434便爆破事件の実行者・アルカーイダのラムジ・ユセフだった。  ラムジのいた国際的テロリスト集団「アルカーイダ」が、1995年1月21日に決行を予定していた、ボジンカ計画と呼ばれる航空機爆破計画の予行演習として、1994年12月11日に運航中の旅客機を利用した航空テロを実行に移した。  フィリピン航空434便爆破事件(Philippine Airlines Flight 434)  1994年12月11日、イタリア人・アルマド・ファルラニに成りすましたテロリスト、ラムジ・ユセフは、金属探知機の手荷物検査を難なく通過した。  当時はまだ靴の検査はなされていなかったのだ。  午前6時、フィリピン航空434便は、セブ島を経由して成田空港に向かうため、マニラ空港(ニイノ・アキノ国際空港)を離陸した。  早朝のフライトであり、搭乗客は少なかった。    ポン。  離陸は無事に終わり、シートベルト着用のサインが消えると、ユセフは指定された席からトイレへと向かった。  組み立てられるように爆弾を解体し、持ち込んでいたユセフ。  個室に入るとまず取り出したのは、手荷物として持ち込んだバックからコンタクトレンズ洗浄液の容器だった。容器の中には、爆薬の原料となる液体状の有機化合物・ニトログリセリン。次に靴を脱ぎ、踵をスライドさせ、その中に忍ばせて於いた導火線と発火装置を取り出し、容器に腕時計を改造したタイマーを装填した。  わずか数分で、機内で時限爆弾を組み立てた。その後、ラムジは、空席だった前方窓側の26Kの席に座った。  ラムジは、事前に434便の機体の図面を手に入れ、26Kの席の真下には、燃料タンクがあることを調べ上げていた。燃料タンクの真上に爆弾を仕掛け、機体を空中分解させようと企んでいたのだ。  26Kに座ったラムジのもとに客室乗務員がやってきた。  「お飲み物はいかがですか?」  「では、ジュースをください」  「わかりました」  客室乗務員には、日常の出来事だった。  客室乗務員が立ち去るのを確認し、ラムジは、5時間後に爆発する爆弾を26Kの座席下の救命胴衣の中に設置し、本来の自分の席に戻った。  「お待たせしました。あれ?」  客室乗務員がジュースを運んできた席に、その男はいなかった。辺りを見渡していると後方から声がした。  「あっ、こっちだ、こっち」  気ままな客にはよくある事だ、と客室乗務員は、多少不審に思うも気にも留めなかったが、ふと、視線の傍らにその乗客が頻繁に席を変えているのが思い起こされ、印象に残ることになった。  運命の爆破予定時刻は、午前11時43分。約5時間後のことだった。    今回の爆弾テロは、如何に爆弾を旅客機に持ち込めるかの実験だった。  これに成功すればアメリカに向かう複数の旅客機に爆弾を仕掛け、同時に爆破するアルカイダのボジンカ(爆破)計画という大規模なテロを実行する予定だった。  アルマド・ファルラニ(ラムジ・ユセフ)がジュースで喉を潤すと同時に、恐怖で喉が渇く《5 hours》のカウントダウンが静かに始まっていた。  午前6時50分、434便は予定通りマニラ空港から約550km離れたセブ島に到着。  ユセフは、不敵な笑みを残し、何事もなかったように、機体を降りた。  午前8時過ぎ、セブ島でバカンスを楽しんだ思い出を楽しい記憶としていただろう日本人を中心に大勢の客が席に着いた。  時限爆弾が仕掛けられた26Kの座席には日本人の男性会社員が着席した。  434便は、空港の混雑を理由にマクタン・セブ国際空港を38分遅れの午前8時38分に成田に向けて離陸した。  セブ島から成田空港までは、約5時間20分のフライト予定だった。  爆弾が仕掛けられ、爆発するまで約5時間。成田空港には到底到着出来ない。  日常に潜む非日常の足跡が、音もたてずに正確に時を刻んでいた。    機種は、ボーイング747-283B。運航乗務員は、機長エド・レイエス(元フィリピン空軍兵)・副操縦士ハノ イ・ヘラメ(元フィリピン空軍兵)・航空機関士の3名。客室乗務員は、17名。乗客、273名。  「機長、フライト航路を確認しました。天候に問題はありません」  「了解。今日のフライトは天候に恵まれ順調なようだな」  ラムジの置きみあげが解放されるまで、あと約1時間。  ボァ~ン。  突然、窓際の席から爆発音と火柱が上がった。  午前11時43分、沖縄県の南大東島附近上空31,000フィート(およそ高度9,000メートル)を巡航中に突如、爆弾が炸裂。  26Kの座席に座っていた日本人男性・24歳、農機具メーカー社員が即死。  爆発した座席の周囲に座っていた乗客10名も重軽傷を負った。  乗客のパニック状態に臆せず客室乗務員は、気丈にも亡くなった男性に毛布をかぶせた。  機内は、泣き叫ぶ者、恐怖で騒ぎたてる者で騒然の様相を呈していた。  爆発により26Kの座席の床には、0.2㎡の穴が開いていた。    離陸からおよそ2時間が経過した時の惨状だった。  機体は、大きく左右に揺れ、機内は、墜落の恐怖に晒されていた。  コックピットでは警報音が激しく唸りを上げていた。  「何があった?」  「分かりません?」  機長と副機長、航空機関士は、突然の出来事にも冷静を保ちつつ原因を探った、が分からなかった。  26Kのあった座席の天井は破損し、床は爆発の衝撃で大きく抜け落ちていた。  「すぐに機長に連絡するんだ」  「はい」   「機長、機内で爆発が発生しました」  「何、そうか、分かった」  機長は、副操縦士に報告と指示を出す。  「機内で爆発があった。機体の外壁に穴が開いていないかすぐ調べるんだ」  「はい」  機体の外壁に損傷・穴など開いた場合、外気との差が生じ、機内の気圧が急激に下がる現象、急減圧が起こる。急減圧が起こると機内のものが機外に放り出されたり、 酸素が少なくなり、肺機能が低下し、呼吸困難に陥る低酸素症を引き起こす。  航空機関士はすぐさま機内の気圧を調べた、が幸い異常はなかった。さらに致命的な外壁の損傷もなかった。  「爆発の場所は?」  「26Kです」  「26K!」  爆発の真下に燃料タンクがあった。現時点で引火はしていなだけで、爆破の破損により燃料が漏れだし、引火する危険性に晒されていた。  爆発の危険性回避と重症者の救護・手当のため一刻も早く最寄りの空港に着陸しなければならなった。    434便は、那覇空港の74km東を飛行していた。  機長は、那覇空港に緊急着陸を決断した。その時、機長は異変に気付いた。  「可笑しい?」  「どうしたんですか?」  「機体がコントロールできない!」  那覇空港に着陸するためには左に旋回する必要があった。  しかし、操縦席からの指示に機体は従うことはなく、直進した。  「何が起こっているんだ?爆発で操縦ケーブルが損傷したのか?」  このままでは那覇空港から遠ざかる一方だ、機長は決断した。  「自動操縦を解除。手動操縦に切り替える」  「そんな、自動操縦を解除すると現在保たれている最低限のコントロールも失われるかも知れません」  最悪の場合、失速し、墜落するかもしれなった。  「このままでは那覇空港に向かうのは不可能だ。手動に切り替えてフライトコントロールシステムが作動するかどうか試してみたい」  「了解しました」  「よし。ワン、ツウ、スリー、解除」  固唾をのむ乗務員。     「どうやら機体のコントロールは保たれているようです」  「よし」  最悪の状態は回避した。あとは、手動で機体がコントロール出来るかだった。  「駄目だ。操縦桿が動かない!」  「えっ!」  このままでは機体の方向や高度を制御できず、墜落を待つのみだった。  「一体、どうれば」  「まだ、諦めるな!何か方法はあるはずだ」  その時、機長の脳裏には大胆な方法が閃いていた。  「乗客のみなさん。当機は只今より那覇空港に緊急着陸します。御心配はいりません。私はみなさんを必ず無事に地上へとお連れします」  副操縦士は、機長の思惑を計り知れないでいた。  「一体、どうやって?」  「これが最後の手段だ。自動スロットルを解除する」    「えっ」  これに驚いたのは、航空機関士だった。そのような方法はあることは知っていた。  しかし、シミュレーションの項目にはなく、理論としてのみ知っていたからだ。     エド・レイエス機長が取った行動は、左右のエンジン出力に差をつけることで方向を変えるものだった。  「機長。機体の向きが変わりました」  「よし」    右側のエンジン出力を上げると機体は左に傾き旋回する。左側のエンジン出力を上げると機体は右に傾き旋回する。  しかし、この方法は経験値がものを言うものだった。微妙なスロットルの操作が必要となり、操作を間違えると横転したり、急降下する可能性があった。  こうしてエンジン出力だけで、那覇空港付近まで接近した434便。  「こちら管制塔。フィリピン航空434便。どんな支援が必要か?損傷状況を教えてください」  「434便、了解。我々は一人の死亡者と21人以上の重傷者がいる。救命医療班の援助が必要だ。爆発物は前方客室で爆発した。爆発が貨物室や車輪の格納庫に影響しているかも知れない」  「了解。緊急事態に備える」  爆発から既に一時間が経過していた。  朗報を機器が知らせてくれた。  「機長、コントロールシステムに反応があります」  「よし」  那覇空港が目前に迫る中、突如、補助翼の一部が作動したのだ。  航空機は高い高度を高速で飛行している時、翼の外側の補助翼は動かず、一部の補助翼は減速すると作動するように設計されていた。  速い速度で外側の補助翼を動かすと、機体のバランスを崩す恐れがあるからだ。  434便の場合も高速で飛行している時は作動しなかったが、那覇空港に接近し、減速したことで外側の補助翼が作動したものだった。  だが、作動した補助翼は一部のみ。危険な着陸には変わりなかった。  「滑走路、確認」  「ギア・ダウンします」  着陸の際利用するギアと呼ばれる車輪は、爆破された26Kの真下に格納されていた。もし、爆破の影響で車輪が何らかの損傷を受けているかも知れなかった。  損傷していれば、着陸は困難になり、胴体着陸を余儀なくされ、摩擦による発火・爆発が懸念された。  「こちら434便。爆発の機体への被害が不明だ。我々はギアを降ろした。しかし、車輪に損傷があるかもしれない、不安だ」  運命を神に託すしかなかった。最善を尽くす、それだけだった。  「よし、着陸する」  機内は、シートベルトもままならない状態。機体の揺れは、新たな負傷者に直結、する。慎重の上の慎重を余儀なくされた。  緊迫の中、滑走路に機体を誘導するレイエス機長。  「高度150m…高度60m…高度30m…15m…10m」  「パワー・オフ」  434便の車輪は着陸の衝撃に耐えられるのか?  爆発からおよそ1時間後、フィリピン航空434便は無事、那覇空港に着陸。  爆発の衝撃で受けた機体への損傷がわからないままの着陸。  まさに、悲劇の中での奇跡だった。  一人の尊い命は奪われたが、瀕死の重傷者はすぐに病院へ搬送された。  その後の調べで衝撃的な事実が判明した。  もし、26Kの座席に誰も座っていなければ、機体の損傷はもっと激しかったと言うと。亡くなられた男性が、292名の命を救ったことになる。  沖縄県警は、何者かがコンタクトレンズの溶液にニトログリセリンを入れて機内に持ち込み組み立てて爆発させたことを突き止めた。  背景はすぐには判明しなかったが、フィリピン警察は爆弾に使われたバッテリーを手がかりに犯行グループを追い詰め、マニラにあったアルカーイダ系グループのアジトを1995年1月6日の夜から翌朝にかけて急襲し、ボジンカ計画とよばれる同時多発テロ計画を知ることになった。  ボジンカ計画とは、成田、ソウル、台北、香港、バンコク、シンガポール、マニラからアメリカ合衆国へ向かう11機の旅客機を爆破するというもの。  434便に仕掛けられた爆弾は身体検査を潜り抜けられるかという予行演習だった。よって、本来、使用する予定の爆弾の10分の1の威力だった。  FBIは、その犯行手口から、アルカーイダの爆弾制作のスペシャリスト、ラムジ・ユセフを国際指名手配。  434便事件の首謀者・ラムジ・ユセフは1ヵ月後にパキスタンのイスラマバードのゲストハウスに潜伏しているところをアメリカとパキスタンの諜報機関(ISI=Inter-Services Intelligence)によって逮捕された。  ラムジは、1967年5月20日にクウェートに生まれた。  両親はパキスタンのバローチスターン州出身で、家族が1980年代にパキスタンに戻るもラムジはイギリスに渡り教育を受けた。大学では電気工学を専攻した。その後、アフガニスタンのアル=カイーダの訓練キャンプに参加するとラムジは爆発物の専門家となった。  1992年9月にイラク国籍の偽造旅券でアメリカに入国、ニューヨーク州やニュージャージー州を精力的に周り、オマル・アブドゥルラフマーンとも連絡を取った。  ラムジはメイル・カハネを暗殺したエル・サイード・ノサイルの家に出入りしていたムハンマド・サラーマーやマフムード・アブー・ハリマらと爆弾を製造し、世界貿易センター爆破事件を引き起こした。  ラムジ本人が事件後にニューヨーク・タイムズに出した犯行声明文では「日本の広島と長崎に投下した原子爆弾のお返しである」と書かれていた。犯行後、直ちにラムジはパキスタンのパスポートでイラクに逃亡していた。  その後、パキスタンに戻ると首相に就任したベーナズィール・ブットーの暗殺を企てるが警察に阻まれて失敗。さらにタイ王国・バンコクでイスラエル大使館の爆破にも失敗。ラムジらはイランに入国する。  1994年6月、マシュハドのシーア派聖地・アリー・リダー廟を爆破し26人を死亡させた。  次いで1995年1月にフィリピンを訪問するローマ教皇(ヨハネ・パウロ2世)を爆殺するなどのボジンカ計画を立案した。  この一連の計画の予行としてラムジは1994年12月にフィリピン航空434便爆破事件を起こし、日本人1名が犠牲となった。  この犯行後、ラムジはマニラのアジトに戻り、アジア各地からアメリカ行きの航空機の同時多発的な爆破を計画して爆弾製造を始めるが、アジトにしていたアパートで火災が起きたため管理人に疑われて、フィリピン警察に踏み込まれた。そのため、ラムジやハリド・シェイク・モハメド、アブドゥル・ムラードらが進めていた航空機テロの資料が露見し、連邦航空局は厳戒態勢を敷いた。1995年2月、ラムジは潜伏先のパキスタンで逮捕された。    ラムジは、1996年、ボジンカ計画の主犯として終身刑を、1998年、世界貿易センター爆破事件の主犯として禁錮240年を、また同年、フィリピン航空434便爆破事件で日本人を殺害した罪で終身刑をそれぞれ宣告された。  ボジンカ計画に沿った同時多発テロは防いだものの、このテロを計画したアルカイーダは、当時はまだ欧米に余り知られていない過激派テロ組織だった。  物事には結果論は、付き物だ。  この事件でアメリカ合衆国連邦政府、特に諜報機関や連邦捜査局がアルカイーダの捜査を本格的に乗り出して厳しく監視していたとすれば、2001年のアメリカ同時多発テロは防げたかもしれないという専門家の意見もあった。  爆破された26Kの座席は、ユセフの入念な下調べ通り、フィリピン航空の機内レイアウトでは、ボーイング747の中央燃料タンクの真上にあった。  ユセフは燃料タンクを爆破し、機体を空中爆発させることで、多くの乗客の生命を奪う計画だった。  では、なぜ、計画は、失敗に終わったのか。  それは、爆弾が仕掛けられたボーイング747型機は改修されていたため、タンクは26Kよりも2列分前にずれて取り付けられており、26Kの座席下は貨物室となっていたからだ。そのため、ジェット燃料に引火して空中爆発を引き起こす事態にはならなかった。  もし、男性が26Kに座っていなければ、外壁が破壊されるなど、被害が大きくなっていたに違いない。一人の尊い命が、多くの尊い命を救ったことになった。  爆破事件のあったボーイング747-283B(EI-BWF)はその後、貨物用に改造され、2007年まで使われた。  もし、ユセフの計画通り、434便が爆破され、多くの日本人が犠牲になっていたとすれば、日本政府は、後にアメリカで起こる9.11同時多発テロ事件のようにアルカイーダやビンラディンを追求出来ていただろうか。  間違いなく、「遺憾」で済まされ、何もできず仕舞いだっただろう。  国民も政府も、事柄の風化を良しとし、忘れることで、悲惨な出来事は闇に葬られるに違いない。  今、日本国は、国際化に適応した捜査能力、軍の実践的な体制が明らかに欠如している。現実と友和の理想論の狭間で。  隣国との駆け引きに性善説など通じない。その交渉上の失敗は、相手の反感意識を容易に高め、煽る結果となっているのが事実。  善悪を考えるにあたり、悲しいかな毅然とした対応とそれを裏付ける確固たる脅威は必要なのも確かなことだ。  人間は、他の動物よりも「争い」において劣る。  威嚇によって無駄な争いは起こさない。裏を返せば、威嚇できるものがあるからこそ、力量を図りあえることができる事実。確固たる抑止力とは、国内外に示すものであり、侵略のものではない。としても、目に見える恐怖がものを言うことは否めないのも事実ではないだろうか。
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