疑わしき者は、嘘をつく

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疑わしき者は、嘘をつく

 1951年2月22日、午前4時頃だった。  「た、大変だぁ」  築地署に血相を変えて駆け込んできたのは、田所雄介23歳だった。雄介は、築地署員が毎日のように出前を取る中華料理店の珍宝亭の店員であり、顔馴染みの好青年だった。彼は二か月間から住み込みで働いていた。  「どうした、田所君、こんな朝早く」  「御主人と女将さんが…」  「どうした」  「死、死んでいる」  「えっ、どういうことだ、話してくれ」  宿直当番だった春日部健司刑事は、息を切らす雄介に「これで、落ち着け」と茶碗に水を汲み与えた。雄介はその水を一気に飲み干すと、両手で折り曲げた膝を掴み、項垂れながら話し始めた。  「二階で寝ていた。朝起きて一階に行くと、足が何かに触ってそれを手に取る鉈で刃に何かが付いていて、電気をつけるとそれが血で。周りをみるとご・御主人と女将さんが倒れていて、声を掛けても体をゆすっても、動かなくて…その他に亜紀ちゃんと健ちゃんも倒れていて…助けて上げてください」  「直ぐに手配するからそこでそのまま待っていてくれ」  春日部刑事は、関係各所に連絡を取り、手配を終えると詳細を聞くために雄介のもとに戻ってきた。  「戸惑いはあるだろうが、話を聞かせてくれ」  「はい」  別の署員は、現場に到着していた。そこで目にしたのは、思わず絶句する光景だった。珍宝亭の店主、その妻、息子、娘の一家全員が絶命していた。遺体の側に血の付着した鉈が発見された。現場の乱れから何者かに襲われた結果だと判断された。  鉈は、珍宝亭のもので、関係者以外の指紋は、検出できなかった。捜査は難航の影を刑事たちに落とした。被害金額は、現金や通帳、貴金属類など合わせて八百万円ほどだった。  強盗殺人事件、署は俄かに騒々しくなった。春日部刑事は、不思議に思っていた。鉈で4人が殺害され、金品が盗まれている。これだけの惨劇の中、田所雄介は、何故、無事だったのか、気づかなかったのか、春日部刑事は、状況の不自然さから真っ先に第一発見者である田所雄介を疑い、事情聴取した。  「雄介君はなぜ、気づかなかったのか、また、無事だったのかなぁ」  「私は寝ている時、サイレンが鳴っても起きない体質なんです。なので気づきませんでした」  「そうか…。じゃ、何か可笑しな事、変わったことはなかったかなぁ」  「そう言えば、事件の二日前から、怪しい女が住み込みで働き始めたんですよ」  「どんな女性かな」  「その女、20代半ばでパーマをかけた派手な女性だった」  「名前は知っているのか」  「確か、太田…太田成子だったと思う」  「その女性の何が気になっているんだ」  「彼女は女中見習いの張り紙を見て住み込みで働き始めたたらしいんです。その女が事件の前夜、親戚の男を珍宝亭に呼んで泊めていたのを見ました、働き始めて直ぐに男を引き込むなんて、大胆と言うか…」  「その男は見たのか」  「ああ、グレーのジャンパーに、ブルーのズボンを穿いていたけど、風防を被った後ろ姿だけで顔までは見ていない」  春日部刑事は、雄介の証言の裏付けを行った。珍宝亭に当時働いていた別の料理人から、そんな名前の派手な女中がいたな、と言う。また、常連客からも同じ証言を得た。  それから数日後、驚きの目撃証言が舞い込む。それは信用組合の職員からのものだった。太田成子らしき女性が被害者の通帳を持ってお金を降ろそうとやってきたが、印鑑が照合できず銀行から立ち去った、と言うものだった。  春日部刑事は、思った。雄介の証言をもとに推察すると、太田成子は、珍宝亭に金があることを何らかの方法で知り、その男と共謀して奪おうとした。その際、家族の誰かに見つかり、騒がれ、それに気づいた一家を手に掛けた、と。疑問は残る。現金があるならまだしも通帳となると犯行がバレる危険が伴う。その後の調査でも犯行日前後に金の動きの気配がない。それなのになぜ、ターゲットにしたのか。鬼平犯科帳でよく観る用意周到な押し込み盗賊の潜入とは違い過ぎる。犯行までが杜撰すぎる。単なる強盗なら潜入など顔がバレるような馬鹿げたことはしないはずだ。何もかもが、雄介の証言には矛盾しか感じられないでいた。  築地署の他の捜査員は、雄介の証言を信じ、太田成子の行方を追った。春日部刑事の疑う雄介は、実家が裕福であり、彼の友人に金を貸すなどしてお金に困っている様子はなく、珍宝亭一家の子供たちからは愛称で呼ばれていた。彼がこの店に働き始めたのも、将来自分の店を開くための修行の為だった。そんな男が、このような凶悪な事件を起こすはずがないと、春日部刑事は、浮いた存在になっていた。  他の刑事からは「泣きながら訴えていたぞ。あんなにいい人たちがなぜ、こんな目に会わなければならないのか。珍宝亭一家が自分を本当の家族のように接してくれ、とても感謝しているのに。そんな奴が本件を犯すかぁ。なのに、お前に疑われている」って、落胆してたぞと言われるほどだった。  春日部刑事の疑念は拭えないでいた。  そこにまた可笑しなことが舞い込んでくる。突然、移動を命じられ赴任してきた者が紹介された。異例中の異例だった。しかし、赴任してきた男にしては、稀なことではなかった。  宇治原警部が、一人の男を連れて捜査本部に現れた。  「みんな聞いてくれ。本日付でこの署で預かることになった比嘉光輝警部だ。珍宝亭の事件にもオブザーバーとして参加してもらう。が、指揮系統は今までと変わらないのでそのつもりで、以上」  ざわざわざわ  「ひがみつてるって、ひがみってる、何それ」  「おい知ってるか、あの警部、面倒くさがれてあちこち、たらいまわしにされているそうだぜ、総務課から聞いたよ」  「おれも聞いた。旅がらす警部とか、さすらい警部とか呼ばれているそうだな」  「ひがみってる、清ってる、さすらってる、ってね」  「でも、行く先々で事件を解決しているから、持て余しているとか」  「そのお鉢がうちの署に回ってきたって言う事か」  「まぁ、気にしないでいこう。俺たちは俺たちだ」  「ああ」  「比嘉光輝警部の世話係に、春日部、お前、頼むぞ」  「あ、はい」と言いつつ、俺が~って感じで応じた。  比嘉警部と春日部刑事は、他の署員とは別に、窓際族の捜査員として当たる事になった。比嘉警部は今までの調査資料に目を通し、春日部刑事と雑談を始めた。  「春日部さんは雄介さんに疑念を抱いているんですね」  「はい。雄介が言う太田成子を訪ねてきた親戚の男を誰も見ていないんです。それより、署に駆け込むが病院や警察への連絡をしていない。幾ら動揺していたとしても…合点がいかなくて」  「救助より、通報を優先した。それにしては、電話でなく、かけ込む可笑しな行動ですか」  「はい。それに太田成子の成子はしげこといい雄介のなりこではなかった。名前を知っていたのに読み方が違うのも気になって」  「それを雄介さんに聞きましたか」  「はい」  「それで」  「漢字だけ見て、なりこと思い込んだそうです。そいうこともあるかと思ったんですが、急に泣きながら自分の無実を訴え始めたんです。こうも言っていました。私はお世話になった主人の犯人を捕まえるためにこんなに努力しているのに犯人扱いされるなんてもうこの世から消えた方がましだ、って。今までそんな素振りを一切見せなかったのに」  「罪を犯した者は疑心暗鬼になるものです。小さな綻びが事実を暴かれる恐怖心に変わり、自己防衛本能が働く。確かに春日部刑事の思うようになぜ、そんなところに動揺するのかという疑問は、的を得ているみたいですね」  「初めてわたしの意見を受け入れて貰えて嬉しいです」  「そうなんですか、僕は事実だけが知りたいだけなので」  「あっ、はい」  「犯人扱いされるなんてもうこの世から消えた方がまし、ですかぁ」  「それがどうしたんですか」  「ほら、隠し物をしたとします。自分が隠した所を探されると目を反らさせたり、業と見ないようにしたりするものです。そこに真実・事実がある、それを暴かれたくない一心でね」  「えっ、だとすると雄介は、自分が犯人だ。見つからないためには消えてなくなれば逃げられると、思っていたと言う事ですか」  「そうとも言えるし、そうではないとも言える。でも、事実は変わりませんけどね」  「でも…」  「春日部刑事は、雄介さんを疑っている。それを雄介さんは警戒している。であれば、大袈裟な行動に出るはずですよ」  「え~、何で分かるんですか」  「大声で泣き叫び、春日部刑事以外に自分の無罪を訴えたりとか」  「そうです」  「分離・混乱ですか」  「どういう意味ですぅか」  「雄介さんは春日部刑事が邪魔だということです。ならば、周りに自分の本心を訴え、それに反する春日部刑事が間違っていることをアピールして、周りにあなたの意見を聞かせない手段をとったと考えれば理解できますか」  「確かに周りからは、雄介が珍宝亭の一家から絶大な信頼を得ていたし、シロだな、と周りを信じ込ませていた」  「絶大なって、彼らは珍宝亭と雄介さんの関係をどれだけ知っているんですか。寧ろ、春日部刑事にマウントを取るために思い込みに走っているとしか思えませんが」  「そうなんですか」  「こんな思い込みが未解決事件や冤罪を作りだすんです」  「でも彼らを擁護する気はないんですが、今までの経験から態度や表情から嘘をついているように思えないと言うんです。それを後押しするように雄介を追いかけ接してい新聞記者たちからも、彼の人柄から、あんないい人がこんな事件を起こす犯人なわけがない、と信用仕切る始末。すっかり、私が分からずや扱いですよ」  「それはお気の毒に」   「じゃ、なんだ、雄介の思いは達成したんだ、現に私は除外されて、ひがみってると揶揄される警部と一緒にいるんだから」  「むかっ!」  「え~、むかっ、て本当に言うんだ」  「言いますよ、面等向かって言われたんだから」  「あっ、すいません」  「気にしないでください。慣れていますから」  「あっ、はい」  「田所雄介の身辺調査を。お金がいる事情と言えば、相場は女。素人じゃない。そこを調べて下さい。応援が必要なら行ってください。遠慮は禁物。躊躇っている間に深みに嵌る例は多いのでね。これでも、顔が効くんですよ。あちらこちらにお世話になったせいでね」  「では、早速」  「おそらく、その過程で太田成子と田所との関係も見えてくるのでは。でも、彼の貢ぎ先は彼女じゃないから気を付けて」  「はい」    春日部刑事は、疎外感から抜け出す一縷の望みを比嘉警部に見出していた。  雄介が邪魔な春日部刑事を除外したのを感じてか否か、田所雄介は捜査官の質問には快く答え、新聞各社に気を使うように個別の情報を提供していた。記者たちは、田所に謝礼を渡しつつ、競い合って彼の見解をコラムとして掲載した。それは、推理小説のように「私の推理」として世間の目を釘付けにした。  世間の注目度に反して捜査は、行き詰まりを感じ始めていた。そこで警察は、田所に太田成子のモンタージュ写真の協力を求めると彼は寝る間も惜しんで応じた。それは直ぐに新聞各社によって報じられた。世間の注目を浴びていただけに反応は良く、ついに太田成子の行方を突き止める。  太田成子は新宿の旅館に泊まっていた。捜査員は宿泊名簿から住所を得て、そこから彼女の兄弟のもとに身を潜めていることが分かり、重要参考人として身柄を拘束した。  「比嘉警部、太田成子の身柄が拘束されました」  「そうですか、ですが彼女は犯人じゃないです」  「えっ」  「やったのは親戚の男でしょ、それを依頼したのが太田成子ってことじゃないんですか」  「太田成子が犯人なら、この事件、行き当たりばったりばかりで、可笑しくありませんか」  「確かに…。金があるのを知っての計画からの潜伏、潜伏してから知った金を奪うための実行。それを裏付ける噂や証言、事実など何もない。行き当たりばったりにも程がある」  「お金に困っているなら切羽詰まっているはず。なら、潜伏などせず、いきなり押し込んだ方が筋が通るってものでしょう」  「やはり、雄介が犯人?私たちはその線で捜査しましょう」  「思い込みは禁物ですよ」  「はい」  「雄介さんと直接、話せませんか」  「それは…」  「他の捜査員が、太田成子を探している今しかないですよ」  「分かりました」  春日部刑事はすぐに、担当警部補・警部に願い出て、田所雄介の取り調べを任意の条件でで取り付けた。他の署員は、雄介には興味はなく、太田成子に事件解決の突破口を見出していたから、思いのほかあっさり、承諾を得た。  「初めて見る刑事さんですね」  「最近、移動してきた比嘉と言います。早速ですが話を聞かせて下さい」  「何でも答えます、お世話になったご主人や女将さんのための」  「あっ、早々、雄介君が教えてくれた太田成子は、もうすぐ捕まりますよ」  「えっ」  「意外でしたか」  「いえ」  「あっ、お礼を言わないと。雄介君のコラムが人気でモンタージュ写真の反応がいい。捜査本部は居場所を特定したみたいですよ」  「そ、そうですか」  「名前を頼りに探していては見つからなかったでしょうから」  「えっ」  「太田成子は雄介君が付けた名前でしょ。でも、顔写真は効果覿面でした」  「そ、それは良かった…、これで事件解決ですね」  「なぜ、そう思うんですか」  「だって、その太田成子とその連れの男がご主人や女将さんたちを…許せない、あんないい人たちを」  雄介は、大粒の涙を流して声を詰まらせた。無視する比嘉警部。  「彼女の目的は」  「それは、お金でしょ」  「なぜ、彼女はお金がある事を知っていたのでしょう」  「それは、分からない」  「雄介君は知っていた?」  「いいえ」  「それを彼女は知っていた。お金が目的なら下調べをしてたのかなぁ」  「あっ、住み込み始めて、家探しした時に見つけたんじゃないですか」  「成る程。通帳は見つけたが、印鑑は見つけられなかった」  「そんなことはないはずです。印鑑と通帳は同じ場所にあったはずです」  「なぜ、そう言えるの?」  「御主人が、忘れっぽいから一緒に置いとくんだ、と言っていたから」  「そうですか」  「彼女は、それを見つけられなかった、やっぱりドジですね」  「そんなはずは…」  「まぁ、いいでしょう。彼女は結果として未遂に終わった訳です、お金に関しては。そんな彼女がもうすぐ拘束される。これで事件の全容は分かるでしょうね」  そこへ、春日部刑事と仲のいい若林刑事がやってきて耳打ちして出て行った。すぐさま春日部刑事は比嘉警部に耳打ちした。  「どうやら、太田成子は偽名だったとか、本名は東野照子だ、あっ、内部情報漏洩だ、聞かなかったことにしてくれる?」  「ああ…そ、そうだ、ほら、そうだ、その~源氏名ってやつでは」  「源氏名ですか。普通、明美とか、美鈴とか、きららとかで、フルネームはないですよ」  「…」  「ああ…そ、そうだ、彼女、雄介君の言う通り、ホステスをやっていたらしいよ。源氏名は太田成子じゃないけどね」  「そ、そうですか、派手な女性でしたから…」  「お知り合い?」  「会って、間もない」  「そう。彼女には雄介君の言う通り借金があったそうです。事件の前に姿を消して珍宝亭に。凄い偶然ですね」  「ああ…」  「でも、可笑しいんですよ」  「何がです?」  「従業員の話から女中見習いの話を知らないし、求人の張り紙もなかったて」  「そうですか」  「なのに彼女は働いていた、なぜでしょう」  「さぁ…」  「僕の《例え話》を聞いてくれますか」  「ええ」  「太田成子こと東野照子は何らかの方法で珍宝亭にお金がある事を知り、奪おうとした。何らかの方法で潜入に成功。住み込み後に部屋を物色し、通帳や貴金属のありかを突き止める。そして、君の見たという男が加わる。事件当日、彼女は、強盗を実行するが見つかり、争いになり殺害。彼女は銀行に出向くが現金化に失敗。その後、逃走。男と別れてね、どう?」  「やっぱり、太田…いや、彼女が犯人ですか」  「だとすれば、なぜ、雄介君は助かったんでしょうね」  「寝ていたから…」  「一家皆殺しにして、寝ている君を生かしておくのかい。寝てるふりをしているかも知れない。だとすれば、目撃者だよ、可笑しいでしょう」  「私には、分からないです」  「そうですか。では、僕の《推察》を披露します。雄介君と彼女は、知り合いだ。彼女が借金苦をいいことに店に引き込む」  「えっ、私が共犯者ですって」  「そんな失礼な、君が主犯ですよ」  「私は寝ていたから…、それにお金には困っていない、珍宝亭の一家に恨みもない、そんな私が犯人だって…、あんた、どうかしてる。他の刑事さんを呼んでくれ。でないと、何も話さない」  「まぁ、落ち着きなさい。確かに君の実家は裕福ですね。でも、君にはお金がいる事情があった。御贔屓のホステスに入れ込んでいるでしょ。調べはついています。彼女の勤めていた別の女性ですよ。その彼女の誕生日が迫っていた。他の客より目立ちたかった君は金が欲しかった。でも、親からは出ない、貯金もない。そこで、珍宝亭のご主人が子供達のためにと貯金していたのを思い出す。事件当日未明、君は、通帳と金目になるものを奪おうと物色中、ご主人に見つかる。争いになって調理場から鉈を持ち出しご主人を殺害。その物音に気付いて起きてきた一家を殺害。それを、君の言う太田成子に見られた。彼女も殺そうと思ったが、銀行からお金を引き出す必要があったので彼女を脅して、利用した。電話や救護をせず、警察署に駆け込んだ。そこで偽の証言をし、お金を引き出す時間を稼ぐために捜査官をミスリードした。自分が疑われると犯人と思われる人物を差し出す。それが太田成子とその親戚と君が言う男だ。彼女の名前は、君が思いついた名前だから、見つかるはずがないと思った。捜査員や記者が君は犯人じゃないと思っていることを知ると推理を披露する。それが世間の注目を浴びる。気持ちよかっただろうね。そこでモンタージュ写真に協力した。君は思ったんじゃないか、警察は自分を信じている。彼女といるはずもない男を探すって。でも、予想外の事が起こった。ひとつは、印鑑が異なりお金をおろせなかったこと。見つかるはずがない彼女が見つかり拘束されたこと。どうだい」  「黙秘します」  「黙秘するってことは都合が悪くなったとの自白ですね」  「…」  「君に助言するよ。いま自白すれば、ひょっとすれば出頭扱いを受けるかも、保証は出来ないけど。東野照子が拘束された。彼女は、脅迫されて動いただけ、被害者だと言うだろうね。しかも、未遂だ。彼女を犯人にする証拠は出てこない。何より、彼女は目撃者として証言するだろうね。いまなら、他の捜査員は、君を信じているから話を聞いてくれるんじゃないかな、さぁ、どうする」  「…」  「彼女の証言の後と前では君への印象がかなり変わると思うけど」  「…」  「そうですか、春日部刑事、宇治原警部に」  「ま、待ってくれ」  「自分で話す気になりましたか」  「あ、明日、話す」  「そうですか」  春日部刑事は、比嘉警部の指示で、すべてを宇治原警部に報告した。  「おお、春日部君、太田成子を確保した。これで事件は解決を見るぞ」    喜ぶ宇治原警部に春日部刑事は、強く言い切った。  「犯人は、田所雄介です。明日、自供すると言っています」  その声を聴いて周りの捜査員は動揺した。そこへ、太田成子の捜査をしていた刑事から連絡が入った。その内容は、太田成子は存在せず、本名、東野照子であること。田所とは、照子が勤めていた店で知り合った事。その田所の紹介で珍宝亭に住み込みで働くことになった事。田所に脅され銀行に行くが印鑑が異なり、お金をおろせなかった事。モンタージュ写真で自分が手配されていた事。何より、衝撃的だったのは、犯行後の立ち竦む田所を目撃していた事、だった。  その報告をうけ初めて宇治原警部は春日部刑事に田所犯人説の詳細を聞く気になった。その内容は、事件の全容を明らかにしていた。警察は、田所と全く違う証言を東野から得る事になる。   太田成子こと東野照子の供述から事件の全貌が明らかになる。東野照子は水商売をしており、新宿で田所雄介と出会った。東野は、田所にお金に困っていると相談した。すると、田所は珍宝亭で働いてみないかと彼女を誘った。借金に追われ、渡りに船と借金取りからの逃亡も兼ねて承諾する。その後、田所は珍宝亭の主人に事情を説明し、東野を雇い入れさせる。その二日後に事件は起きた。  2月22日未明、物凄い音がして、照子は目を覚まし、その場に足を向けると、そこには主人が倒れていた。その側には田所が、鬼の形相で鉈を握りしめ立っていたのを目撃する。照子は恐怖のあまり動けずにいると田所が話しかけてきた。  「お前が信金に行って金を全部おろしてこい。おろさないとお前も一家と同じ目に遭うぞ」  「あわあわわ…」  「時間は俺が稼ぐ。開店と同時におろせ、分かったな」  「は、はい」  照子は、信金近くまで行き、物陰に身を潜めていた。人影や足音が聞こえるたびに、振り向くとあの鬼の形相が覗き込んでこないかと怯えていた。事件が起きてから信金が開くまでの時間が照子には、途轍も長く感じられた。  信金のシャッターが開くのを待って窓口に駆け込む。しかし、届印と持参した印鑑が適合せず、お金をおろせなかった。照子は、この失敗で、自分も殺されると思い、その場から逃走。後に自分がモンタージュ写真で手配されているのを知り、恐怖から出頭出来ずに怯えていた。そして、警察に拘束され、安堵した。  捜査員も記者もまんまと田所雄介に騙されていた。警察のショックは大きかった。 改めて、雄介を信じていた刑事が事情を雄介本人から聞いた。  「今は、大変疲れているので明日、すべてをお話しします」  「そうか…」  捜査員も事件の急展開を整理する時間が欲しかったのもあり、承諾した。  捜査員は事件解決に向け目星がつき、安堵していた。その安息をぶち破る報告が飛び込んできた。留置された田所は、隠し持っていた毒物を服用し、自害してしまった。真相は迷宮入りかと思われたが、押し入れに隠してあった田所の衣服から被害者の血痕が見つかったことで、彼が実行犯だと確定された。  田所は被疑者死亡で送検された。東野照子は懲役1年、執行猶予3年、罰金2万円を言い渡された。  田所雄介は女性にだらしなく、見栄っ張りでかなり貢いでいた。それに親からは苦言を呈され、金を借りられる状態ではなかった。贔屓にしていたホステスの誕生日が迫っていた。そこに金に困っている東野照子が現れ、雄介に今回の事件を思いつかせる。見栄を張るために金が必要となり、起こした惨劇だった。  菅井築地署署長に電話が入った。真田警視監からだった。余りにも雲の上の者からの電話に菅井署長は、戸惑いを隠せないでいた。  「お見事でした。しかし、被疑者死亡は頂けないですね」  「申し訳ございません」  「二度とないように」  「はい」  「比嘉君は元気かね」  「比嘉、警部ですか、はい」  「それは良かった。で、彼に次が決ったと伝えてくれ」  「あっ、はい、えっ、また、移動ですか」  「彼の希望なんだよ」  「いったい彼は」  「比嘉光輝警視なのに警部として動いている変わり者とでも言っておこうか」  「警視」  「捜査が性に合っているそうなんだが、組織にはそぐわない。で、私の権限で渡り捜査官をやって貰っている。あっ、軽視は内緒ね、警部だから」  「あっ、はい」  「じゃ、頼んだよ」  真田警視監は憂いていた。思い込みや自白強要で初動捜査の遅れや冤罪が作られる組織の有様を。そこで、比嘉光輝を送り込んで監査も兼ねて正したい思いがあった。 比嘉警視は、真田警視監の思いを受け、動いていた知られざる捜査官だった。  「えっ、皆聞いてくれ。比嘉警、部は、また移動することになった。短い間でしたがお疲れさまでした」  署員は驚いた。高慢な菅井築地署署長が比嘉警部に敬礼をして労ったからだ。署員も条件反射で敬礼するが、もやもやした気持ちは拭えないでいた。ただ、春日部刑事だけは心底、敬礼に思いを込めていたのを比嘉光輝警視は、笑顔で見ていた。  「さぁ、次の現場は…成る程、じゃ、行きますか」  築地署を振り返って見るとそこには、春日部刑事が最敬礼をし、見送る姿があった。比嘉は、背中を向けると手を上げ、さよなら、お世話になったね、と手を振った。比嘉警視の署との別れは孤独だった。それは問題がある署の立て直し、その報告を目的としているため仕方がないと自分に言い聞かせていたのだった。
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