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細長い指が墨をする。四角い固形の墨が水と硯の上で混じり、黒い水がねと……となったところで墨の独特の匂いが部屋に広がった。喜一はその匂いが嫌いではなかった。
この匂いがする時は、両親が長く家にいられることを喜一は知っていた。
黒い、濃い墨を父は小皿に移し替える。水差しの水を少しずつ垂らして、薄くする。
「薄墨を作る時は濃おないとあかんのよ……」
「なんで、」
「……ん?」
「なんで、葬式の時の香典には薄墨なんや?」
「うん。これはな。あんたが死んで悲しい時に、名前を書いたので、悲しい悲しいって涙が出て墨が薄くなってしまいましたっていう意味なんやで」
「あほくさ」
「……キーチ」
父が喜一の名前を呼ぶ。喜一は頬を膨らませながら、父を見た。
父は笑っていた。
「……僕はキーチの顔、めっちゃかっこええと思うよ……」
「そんなお世辞、言わんといて」
「お世辞やないで。ほんまにな……僕はキーチみたいな顔やったらええなあ……って何度も思ってるんや。お父ちゃんの顔……女みたいやろ?恥ずかしいわ」
「そんなことない。お父ちゃんは綺麗や。綺麗な男のどこが悪い。そんなこと言っとるやつ、ぶっ飛ばしたる。原田のやつも俺な、」
「……」
父がこちらを見て黙っている。そこで喜一はごめん、と言った。本当に悪いとは思っていなかった。喜一の顔は目の周りに青あざが出来、左頬が腫れている。着ていた学生服の右肩が破れていた。「どうしたん?」そう言う母に「なんでもない」と言って知らん顔を決め込む喜一になにも言わず、副業の宛名書きの説明をしだす父は、なぜ喜一が小学生の高学年になったあたりから毎日のように喧嘩をして帰ってくるのかをうっすらと解っていた。
ただ、「ごめんな」と母とよく似た美しい顔を曇らせて喜一に謝った。
喜一はすかさず「謝らんでええ」と吐き捨てるように返した。
喜一の後ろに母が立っている。すぐ後ろが台所。夕食の準備をしながら母は二人の会話を聞いていた。父が宛名書きの副業をしているのはちゃぶ台の上。そして襖で仕切られたもう一間には布団が敷いてある。風呂はない。喜一と両親は滋賀の湖西線に乗って小河という駅で降り、少し歩くと着く歓楽街【極楽町】の中に住んでいた。両親共に、泡姫である。この家はその寮だ。汚くてぼろい。だけれど喜一はなんとなく、ここよりも学校のほうが汚くて気持ち悪い場所だと感じていた。
小河小学校は極楽町に近いので、そこに住むソープ嬢や関係者の子供が非常に多い。どちらかといえばまともな家の子、というのはあまりいないような環境にあった。
なのに。
だから。かもしれない。
【花人】はその中で最下層の人種だった。
「花人、ってからかわれたんか」
喜一は頭を横に振る。
「ほな、お父ちゃんとお母ちゃんに似てへんって言われたんか」
喜一は頷いた。肯定した瞬間に涙が出た。悔しくて悔しくてたまらなかった。そんな喜一に父は「おいで」と言って泣いている喜一を膝に乗せてくれる。そして、優しい声で「堪忍な」と言った。そんなことを言われたらもう終わりだ。喜一は今まで我慢していた感情を爆発させて、泣いた。
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