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「ほんまは、名前が滲んだらあかんのやけど……薄墨だけは別なんや。涙の証。キーチ。お父ちゃんはな、この薄墨の色が大好きや。泣いてもええんやよ、つらいつらい、言うてもええ。そうやなかったらあかんよ。ぐっ、とこらえたら……墨みたいに真っ黒になるからな。心が真っ黒になる。そんで誰も彼も憎くなる。憎くなったら誰も好きになれへんようになる。僕は大好きなキーチにそんな風になってもらいたくないなあ……」
「大丈夫や、お父ちゃんたちは俺の事、よう見てくれる。隠そうと思ってもでけへん。そやし、大丈夫や」
「そうか……」
そう言って父と母は口づけを沢山喜一に落としてくれる。
喜一の父母は二人で一セットの泡姫だ。もちろん父は男だが、股が濡れる。男を受け入れる体を持っている。母と一緒に客を取る。高級ソープ嬢だ。喜一はそれを不思議とは思わない。そんな花人はたくさんいたし、その中でも両親はダントツに美しかった。
その頃の喜一の両親は三十半ばだったけれど、不思議といくつにでも見えた。年若く笑み、老獪に誘う。大きな水槽で人魚の恰好をして客を誘う事もあった。
「女も、男も、気持ちが良い」
そう言って両親を指名する客が後を絶たなかった。
月に二度。
両親は決まって休む日がある。
一度は母の生理だ。
二度は花人の発情期だった。
「花人は、身持ちが悪い。花人は、好色だ」と大人は言う。喜一の同級生も、喜一に向かって叫ぶ。
「お前の父ちゃん、スケベ!お前の母ちゃん、スケベ!」
だが、それはものすごく正しくて、ものすごく間違っている、と喜一は思っている。
正解は、と喜一は思う。
(正解は、俺らにしか解らんのや)
父と母の発情期は、月に一度だが、三日と早かった。そしてそんな時は、喜一は一人で飯を食い、一人で銭湯に行き、茶の間で布団を敷いて寝る。いつも喜一が両親と寝ている部屋の襖は固く、閉じられている。
ただ、聞こえる。
水音と、笑い声と、衣擦れの音だ。
ただ、ただ、匂うのだ。
慎ましやかで、瑞々しい、濃厚な百合の香りが。
飯も食わず、両親は三日の間、睦み合う。
その実情を喜一は見たことがない。
ただ、あの襖の中身は一体どうなっているのか、気になって仕方がない。
仕方がない、と思って寝ると、夢を見る。
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