奇想天外、攻めの籠城戦法

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奇想天外、攻めの籠城戦法

 真田家と深い関係にあった武田家が、織田信長に滅亡された。その信長も本能寺の変で明智光秀により横死。動いたのは北条家。織田家から旧武田家臣を支配下としていた滝川一益を神川の戦いで倒す。  幸村の父・真田昌幸は北条家の動きに直様、反応し、参謀として矢沢頼綱を置き、若干十七歳の長男・信幸を沼田城に向かわせた。軍勢は八千。信幸は北条家の手に落ちた手子丸城を巧みに攻撃し、一日で奪還した。   「大義じゃたな信幸」   「父上の真似を致した迄で御座います」   「これから、我らの勢力を拡大する。そのためには何としても、武力・武略に優れた旧武田家臣を手に入れようぞ」  昌幸は、有能な兵力と結束こそが勝利の鉄則と考えていた。  その頃、真田家付近の甲斐・信濃は、空白地帯となっていた。その地を巡って、北条氏直、徳川家康、上杉景勝が争っていた。  当初、真田家は上杉影勝に臣従していた。しかし、北条勢が旧武田家臣を支配下にしていた滝川一益を倒すと、昌幸は北条家の臣従となった。その北条家は、和睦を条件に旧武田家臣を勢力を伸ばす家康に引き渡してしまった。昌幸は、旧武田家臣を追随し、徳川家に臣従する。昌幸は、武田家への尊敬の念と家臣の優秀さを誰より知り、欲しかった。徳川家と北条家は、婚姻によって関係を強化。北条家の力が強まれば、一時期、敵となった真田家の領土も失うかも知れない。そう考えた昌幸は、上杉景勝に臣従する。上杉景勝は関白豊臣秀吉に臣従していたことから、真田家も豊臣傘下に入ることになった。昌幸の懸念は現実になった。北条家は、家康にある条件を出していた。  「小牧・長久手の戦いに参戦するに当たって、お願いが御座る」   「何なりと申されよ」  「真田家に奪われた沼田領を、北条家に戻して頂きたい」  「あい、分かった」   家康は「真田家だと。どこの少子者よ。そのような者を何とも出来ぬとは、何と弱気なことよな」と内心、笑っていた。こんなことで恩義を売れるなら、「棚から牡丹餅より容易いわ」と思っていた。  ならば、大軍を向かわせ、徳川の威厳と逆らう事の恐ろしさを天下に知らしめる良き機会ぞ、と考え、北条家の申し出を承諾。家康は直様、鳥居元忠、大久保忠世、平岩吉ら七千を信濃に派遣し、国分寺に陣を構えさせた。これに対し真田勢は、上田城に昌幸ら七百、砥石城に信幸ら三百、矢沢城に矢沢頼康ら二百の計千二百名。  「数では太刀打ち出来ぬ。なれど我らには秘策がある。目に物をみせてやるわ」   昌幸は、庄屋や町衆の代表格を上田城に呼び寄せた。ただ、敵方の目を配慮し、普段のままの出で立ちで来るようにと要請した。即効性があるのは昌幸らが出向くこと。それでは、忍びの者に話を聞かれる恐れがあった。ならば、城内の方が安全かつ秘密を守れると昌幸は、考えた。   真田家と民衆との仲は、頗る良好だった。真田家に仕える武士たちは当主・昌幸同様に皆、気さくで、身分の垣根を超えた交流を持っていた。家臣たちもお互いを信頼し、我先に争うようなことはなかった。昌幸の呼びかけに民衆が次から次へと、着の身着のままの様相で城の門を潜っていった。民衆は、次々に大広間に通された。  その頃、北条家の依頼を受け、真田家の領地を奪おうと家康の指示を受けた徳川軍七千名が上田城を目指していた。    「こんな恰好で本当によかったのかの~」   「もぐさの匂いのする畳が汚れやせんかと、腰が落ち着かねぇだ」  そわそわする民衆が、一瞬静まり返った。昌幸が現れたからだ。  「いや~皆の者、急に呼びた立てて済まんのぅ」   「何事で御座いますか、お殿様」  「皆に集まって貰ったのは他でもない。北条家の依頼を受け、徳川の大軍が我らの領地を奪いに来るということを伝えようと思うてな」  「徳川って、あの家康がか」   「そりゃ~大変なことではないべか」  「そうじゃ、大変なことじゃ」  「大軍ってどれくらいじゃろ」  「そうさな、五千~八千、いやそれ以上かもな」   「ひ、ひ、ひぇ~、そんなに…」  「まともに戦っては、勝てはせぬわな」  「どうするだ、降参すんのか」  「降参したいか」  「いやだとも、折角いい関係を築いてもらっているのに、また、びくびくすることになるで、そんなの嫌だ嫌だ」  「きっと、無理を承知の取立てを言うてくるに決まっているだ」  「そうさなぁ、それだけは、受け入れられねぇ」  「何とか出来ねぇのか、お殿様」   「皆の気持ち、有り難く、受け取った。ならば、我らに力を貸してくれ、どうじゃ」  「そんなの当たり前じゃね~か」  「どうせ、徳川の大軍が攻めてくれば、町は壊される。火を放たれて、焼き野原にされかねぇ」  「そうださ、そんなのを黙って見過ごせねぇ」   「でもよ~、そんな大軍を相手にどうすんだべ」  「そうだな、皆、思ってくれ。ここに満面の水を溜めた水瓶がある。これをひっくり返したら、どうなる」  「そらぁ、水は勢いよく流れ出て、止められねぇだ」   「そうだな、それでは皆が好きな酒樽はどうだ」  「栓を外して、好きなだけ、酒を取り出せる…」  「そうか、町を水瓶に見立てて、大軍を少しづつ入れさせれば」   「ほぉ、よう、わかったのぉ。その通りじゃ」   「大軍とて、元を正せば一人一人が寄り集まったものだからの」  「それで、わしらは、何をすればいいんだ」   「では言うぞ、よ~く聞いてくれ、時は迫っておるでな。城下に戻ったら皆に伝え、しっかり、働いても貰わねばならぬからな。われらの領地は皆の働きにかかっておる故にな」  「分かっただ、で、どうするだ、何でも言ってくだされ」  「まず、大工の心得のある者、力自慢の者をできるだけ集めてくれ」  「それから、どうすんべ」   「皆の者には悪いが、城下町を火の海にするやも知れん」  昌幸の言葉に町の衆はざわめいた。   「聞いてくれ、徳川が火を放つやも知れん。大事な物は事前に運び出しておいてくれ。被害を受けた家屋は、全部といかぬ迄もできるだけ、この昌幸が責任を持って建て直す故」  「そんなこと…、戦いになれば、どっちみち壊されるのは関の山。どうじゃ皆の衆、お殿様を信じようじゃないか」  「うんだ、これはわしらの暮らしを守る戦いじゃ」   「忝ない」  「でも、何としても勝たなければ、話は始まねぇぞ」  「時が来れば知らせる故、直様、女・子供、年寄りを安心できる場所へ逃がしてくれ」  「分かっただ、皆を納得させるだ。それで、男たちは何をすればいいですかいの~」   「大工の心得のある者を中心に、力持ちの協力を得て、こちらが指示する場所に柵を設けてもらいたい、急いでな」   「こりゃ、木材がいるの」  「どうせ燃やされるやも知れん。柵となる木であれば見てくれなど、どうでも良い、丈夫でさへあればな」  「すぐに取り掛かかるだ」  「できるだけ早くにな、敵は直ぐにでも来るやも知れん」  「分かっただ」    昌幸は、指示と図面を(おさ)たちに見せながら説明した。  「まず柵を作る。配置はこの通りに。柵の高さは、跨げない程の高さがあれば充分だ。柵の升目幅も人一人が通れるか否かの粗さでよい」   「これなら、楽に作れるだ」   「要は、侵入を妨げられればよい。ただ頑丈にな。ひと蹴り、ふた蹴りで倒れぬようにな」   「分かっただ」  「柵と同時に、神川上流に堰を設けて水を溜めるのじゃ。その堰は、合図とともにすぐに決壊できるよう細工を施してな」  「それも分かった、あと、何かあるかね」  「あとか…我らが勝つことを祈って貰おうか、あはははは」  昌幸は、豪快に笑ってみせた。町の長たちも、絶対的に不利な戦いにも関わらず、昌幸の自信が取り憑いたかのように、やる気に満ちていた。昌幸は、敵の正体に怯えるのではなく、その敵にどう立ち向かえるかを考え伝えた。そこに一体感と光明を見出していた。  「では早速、戻って、わしらは仕事に取り掛かるだ」  「くれぐれも内密にな、難しければ…、知らぬ者に何をしているのかと聞かれれば、そう、祈祷師のばあさんから大風が来る、とお告げがあった、とでも言っておけば良かろう、では頼んだぞ」  「風の噂ならぬ、ばあさんのお告げか、それは面白れぇ…ならば、皆を逃がすのも、鬼が来るとでも言っておくだ」  「それはいい、頼んだぞ、皆の者」  「お~」   掛け声勇ましく、町の衆は上田城を後にした。早速、町の長たちは、昌幸の求め通り人員を集め、逃げ場所を決め、昼夜を惜しんで作業に取り掛かった。昌幸の図面通り、城下町のあちらこちらに柵を交互に築いた。頑丈な柵作りには時間を要した。  「親方、穴を掘って杭を打つのは、時がかかりますだ」  「そうだな…殿様は、敵を足止め出来ればいいと…そうだ、竹だ竹。竹槍をさせばよか。こんたらば容易に蹴れまいて」   「それはいい、竹槍を柵に頑丈に括り付けるだ」   「それなら、簡単だ、すぐに取り掛かろう」  「お~」  町の入口から、城までの途中に柵が九十九折に設けられた。一方、神川上流の堰も、縄を切れば決壊するように仕掛けられた。女、子供、老人は、山合いの寂れた寺に避難させた。こうして、徳川の大軍を迎える準備は、昌幸の思惑通り着実に、具体的な物となっていった。城下町に配した柵は、異様な町並みを醸し出していた。神川上流の堰もその時を待っていた。住人の避難も終えた。徳川軍を迎え撃つ準備は、整った。  「では、参ろうか」   昌幸は、手筈通り上田城から二百の部隊を出した。  「あ、あれをご覧くだされ」  国分寺に陣を取る七千の徳川勢の前に真田軍が現れた。  「多勢でご苦労なこった、腰抜け共めが~」  真田軍は、徳川軍を小馬鹿にして挑発した。   「奴らは何を考えておる、我らを見下しに参ったか。ならば、応えてやれ、皆の者、まずは奴らを血祭りにあげ~」   徳川軍は少数の部隊を見て、注意力を軽視した。二百の部隊は、昌幸が罠に誘き寄せる、囮だった。鳥居元忠の号令と共に一斉に、大軍は真田隊に襲いかかった。囮隊は絶妙の距離を保ち「腑抜け共めが、鬼さんこちら、あはははは」と、挑発しながら、城下町へと誘い込んだ。戦果を欲する大軍が動くのを見届けると「ふむ、引っかかりよったわ、引け~」と、速やかに城へと真田軍は撤退した。  「恐れをなして、城に逃げ込みよったわ、口ほどにもない奴らが」  徳川勢の大軍は、城下町に流れ込んだ。   「なんだ、この貧弱な柵は。馬鹿にしよって、構わぬ、行け~」  鳥居元忠の号令に、昌幸と町人が配した柵に徳川の大軍が、先を争うように突き進んだ。しかし、九十九折の柵によって、たちまち先頭が団子状態に。後続は先頭のことなど知らず、押し寄せて来る。  「押すな~」  「何をしている、早く行け~」  苛立ちが罵声となって、響き渡っていた。大軍は見事に行き詰まった。それでも、少数は柵を通り抜けていた。その柵の行く手の折々の物陰に、真田軍の民兵が潜んでいた。通り抜けてきた分散された徳川兵を民兵たちは次々と襲い、倒していった。  七千対千二百の戦いのはずが、多勢の真田隊らと、少数の徳川兵の図式と変貌していた。先頭が真田隊と戦う。その戦いで足が止まり、後続が行く手を阻まれ、行き詰まる。まさに昌幸が描いた策が、ここに成果を見せていた。しかし、数に勝る徳川軍は力技の如く、民兵を蹴散らし始めた。この戦況を昌幸は、小高い所から見ていた。  「見てみよ、先を急ぐ大軍が、柵に妨げられ、右往左往しておるわ。もう、良かろう、次の手を打つぞ。兵に退却を命じよ」  昌幸の指示によって、花火が打ち上がった。その合図を受けて、真田家の兵が号令を発した。  「引け~、引くのじゃ」  先頭で戦っていた民兵ら真田隊は、一目散に城や事前に確保していた隠れ場所へと身を隠した。  進み辛い柵には、もうひとつ仕掛けが施されていた。それは、柵に巻き付かれた藁だ。柵の高さを補う為、目隠しの目的もあったが、それだけではなかった。真田家は、甲賀や伊賀とも通じていた。その知識は、陰陽道にも劣らないものだった。風が、強く吹いていた。この風も、作戦遂行に必要不可欠な現象だった。  「今だ、火を放て~」  号令と共に火槍や付火で城下町は、更なる混乱の渦の中へ巻き込まれていく。住民たちは事前に避難させていた。放たれた火種は、油を染みこませた藁に引火。壁だった柵は火種を得て、火鍋の様相を呈した。   「引け~」  「進め~」  「どけ~どけ~」  急に襲われた蟻たちのように、逃げ場を求めて徳川勢の兵たちは秩序を失い右往左往。怒涛とも罵声とも聞き取れる悲鳴が炎に溶け込んでいった。藁は火の粉と化して容赦なく兵たちを襲った。灼熱は判断力を削ぎ、煙は視界と呼吸を奪っていった。  徳川勢は紅蓮の炎に包まれ、逃げ惑った。逃げ場を追い求めた兵たちの視界に、川らしきものが…「川だぁ、川があるぞ~」その声に兵たちは、一縷の望みを託した。火の粉を払い、目を凝らして、今の苦しみから逃れるため、一目散にその川を目指した。川と呼ぶには、余りにも浅瀬だった。その川に兵たちは、熱と煙から逃れるため、一目散に飛び込んだ。その時だった。  パバババーン  乾いた銃声が夕方の落雷の如く、鳴り響いた。動きを削がれた徳川勢に、容赦ない銃弾が。それでも、我先に炎から逃げようと、神川に多くの兵たちが水を求めて、川に飛び込んでいた。炎から逃げ惑い、町中を彷徨う者、銃弾を逃れ、熱を冷まし川から辛うじて上がってきた者に、更なる不幸が降り注ぐ。   真田家臣に、民家に隠れていた農民兵も加わり、無力化した徳川勢を次々と仕留めていった。それをも逃れた徳川勢の兵たちは、川へと群がった。それを見て、真田隊の家臣が「宜しかろう」と号令を掛けると、一筋の火の玉が天へと伸びた。花火など徳川勢は気にも止めなかった。本来なら、柵に火を放たれる時も、花火が上がっていた。冷静であれば、何かが起こる気配くらいは感じ用心していただろうに。今はそんな注意力さへ、どこ吹く風。  ゴゴゴゴゴ…  地響きと共に、迫ってくる轟音が鳴り響いてきた。上流で水を溜めていた堰を一機に壊したのだ。川に入り、一時的に難を逃れた兵たちの動きが止まった。  「何だ、何の音だ、何が迫っている」  川に逃げ込んだ兵たちは一瞬、時間が止まったように思えた。音のする上流を不安視する兵たちの足元の水嵩が一機に増して行った。見る見る川は、濁流と化し、増水していった。  大軍で押し寄せていたため、兵たちは容易に戻るに戻れない。兵たちの混乱を嘲り笑うように濁流は、兵や馬を飲み込み川下に消し去っていった。辛うじて岸辺に辿り着いた兵たちも、痛手を負っていた。それは、川の堰止め工事の際、堰止めを担当する家臣のほんの思いつきだった。「余った丸太や木片を川下に捨てよ」その思いつきが、功を制した。濁流となった水の勢いは、丸太や木片を凶器に変えた。川の流れで勢いと、不規則な動きを手に入れたゴミの山は、徳川勢にとっては防ぎようのない強力な兵器と映っていた。精根尽きた様相で、何とか岸辺に辿り着いた兵たちを入れ食いの釣り場のように真田勢は、一機に仕留めていった。  「してやられたり…ここは引け~引くのじゃ」  鳥居元忠は、絶望感と腸が煮え返る思いで、退却の指示を発した。徳川勢の戦死者は、千三百を超えた。失意の徳川勢は、そのまま浜松に撤退した。真田勢の損害は、多く見積もっても四十程だった。 「徳川、破れたり」  真田隊は、大いに盛り上がっていた。昌幸、恐るべし。徳川勢の敗北は、即座に天下に知れ渡った。「あの徳川が、名の知れぬ田舎侍に負けた。天下の笑い者だ」と噂が噂を呼び、家康の権威に大きな影を落とした。   無名だった真田家は、その功績が認められ、独立した大名とし、一目置かれる存在となった。  家康は、窮地に追い込まれていた。  一度、失墜した権威は、容易に回復などしない。そうそう、世間が注目する戦いなどない。家康は、完全に汚名返上の機会を失ったことに困惑していた。   家康は噂の呪縛から逃れるため、身を潜める策を得る。「噂を止める訳にはいかぬ。ここは体制を立て直し、今一度、自らの権威を響かせよう。そのためには、誇りなど捨て、寄らば大樹の蔭。秀吉に屈服する形で家臣となろうとも権威回復の時を待つのが最善の策」と家康は、考えた。豊臣秀吉は、自分の傘の下で権威失墜を凌ごうとする家康の心を見透かしていた。  「家康めが…そう思い通りに活かすものではないわ」。  秀吉は、家康の不穏な動きを封じ込めるため、敢えて遺恨のある真田家を徳川家康の与力大名に命じた。家康と昌幸の和解に秀吉が尽力したのは、有力な大名を傘下に治めるのが目的であり、秀吉政権の安泰を意味していた。   真田昌幸は上杉景勝を通じて、既に豊臣秀吉の臣下に入っていた。徳川氏の与力大名となり、和解の証というべき婚姻が成立した。家康は、上田の戦いで「敵ながら天晴れ」と、真田家の嫡男・信幸の才能を高く評価していた。家と家の繋がりは、強き絆となる戦国時代。才能のある武将は、喉から手が出る程欲しかった。  家康は、和解をいいことに昌幸の嫡男・信幸に目を付けた。家康の養女となった本多忠勝の娘である小松姫を信幸に輿入れさせ、真田家との関係強化を目論んだ。これによって真田宗家は、複雑な立場に置かれた。豊臣の家臣である真田昌幸と二男・幸村(信繁)の上田城と、徳川の与力大名である嫡男・信幸の沼田城の二家体制となった。  後に幸村は、秀吉の「既定の方針」を受け、石田三成と共に「のぼうの城」に参戦する。利根川を利用し、総延長28kmに及ぶ石田堤を建設。堤を決壊させ成田城を水の孤島とする真田家の戦術を大掛かりにしたものに出会う。幸村は、不可能を可能にする意志に共感を抱くのだった。  時は過ぎ、豊臣秀吉が死去。文治派・石田三成と武断派・徳川家康の勢力争いは、天下分け目の戦いへと、駒を進めることになる。  真田家に一通の書が届く。そこには豊臣家を守るため、徳川家康を倒す。是非とも、豊臣に就かれたし、という石田三成からの依頼だった。真田昌幸は、嫡男・信幸と次男・幸村を呼び、会談を行った。  「この度、三成から、豊臣に臣従し、内府(徳川家康)を討つのに力を貸せとの申し出があった。また、同時に内府からも同じく、三成を討つために…とあった。そこで、どちらに就くか、話そうと思う」  「して、父上は如何なされる」  家康の養女となった小松姫の輿入れを受けた長男・信幸が尋ねた。   「私は、豊臣家に就く」  「何と、内府の勢いは凄まじく、大坂は火の海になりまする」  「それでも、私は豊臣家に就く」   「父上は、世の騒乱に紛れて天下を取ろうと考えておられるのでは」  「何、何を申す」   昌幸は、怒りに満ちた鋭い語気で返した。しかし、信幸に自分の気持ちを見透かされた心地よさに、薄笑いを浮かべ、思うも叶わぬ夢よなと、思い直し、  「いいや、私は豊臣に就くのではない、上杉に就くのじゃ。豊臣にも、徳川にも恩義はないからの~」 と、苦し紛れの言い訳を盾に踵を返した。   「私は、内府に、このまま臣従致しまする」  信幸は、上田城の戦いでの功績を認められ、婚姻による関係強化がある。昌幸は、信幸の立場を充分に理解していた。昌幸が三成の豊臣に就く理由が今ひとつあった。昌幸の正室である山手殿が三成に人質として囚われていたのだ。信幸もまた、そうした父の思いを痛いほど感じていた。   「お前はどうする」   信幸は、無言で聴いていた幸村に問いかけた。   「私は、父と共に歩みます。私には城が御座いません。父上の城を引き継ぎとう御座います」  それを聞いて、昌幸は、笑みを浮かべていた。幸村は、覚悟を決めていた。親子が敵味方に別れ、戦う苦悩を。  「私は、父と共に豊臣に就きまする。さすれば徳川は、今一度、上田城を攻めて参りましょう。豊臣、徳川共に巨大な勢力。大岩がぶつかれば何れかは、滅びの道を歩むかも知れませぬ。兄者の沼田城が落ちれば、上田城が。上田城が落ちれば沼田城が。兄じゃか私が生き残る。苦難の道となろうとも、私は、真田家が絶えることなく続く道を選びたく存じます」  幸村の真田家への思いは、昌幸、信幸の悲願でもあった。  「これで、決まりましたな。では、私目はこれで」  「そうか、行くか」   信幸は、清々しい気持ちで、父との別れを心に刻んでいた。幸村は、信幸の背中を目に焼き付けていた。  「幸村よ、いずれそなたと戦うやも知れぬな」  「その時は、心置きなく戦いましょうぞ」  「お~」  信幸は、頼もしく育った幸村を嬉しく思っていた。今生の別れは、信幸が闇夜に溶け消えていくことで 現実のものとなった。後に真田家の親子分裂は、犬伏の別れとして伝えられる。  昌幸・幸村と信幸が今生の別れを惜しんでいた頃、三成に人質にされた山手殿は、真田家の家老だった河原綱家の機転により逃れ上田城に帰還していた。    情報の鮮度は、時代という機運をも左右する。もし、昌幸が山手殿の無事帰還を知っていたならば…。時勢を嗅ぎ分け、渡り歩く才能に長けた昌幸であれば、勢いある徳川に就いていたにちがいない。幸村もまた、忍城の三成の戦い方を目の当たりにし、三成への疑問・不信感を顕にしていたのに違いない。あたかも観客を魅了する演出を施す神の成せる業のようだった。   昌幸・幸村は、三成に就くことを決め、上田城に引き返した。信幸は、徳川勢として小山に進み、徳川秀忠に、真田家の決議を報告。真田宗家が豊臣方に就いたことにけじめと徳川への配慮を含め信幸の名を捨て信之と改め、宗家との決別を表した。   一方、昌幸と幸村は、もう会えなくなるやも知れぬ孫(信幸の子)の顔を、瞼に焼き付けようと上田城への帰還中、夜半に孫のいる沼田城に使者を出した。   「小松姫さま、経緯はもうお聞きになっているかと」  「承知しています」  「昌幸様、今生の別れに、是非とも稲姫様にお会いしたいと、申し入れて御座います」   小松姫の心は葛藤の中にあった。真田家として仲睦まじく過ごしていた昌幸と幸村が今は夫の敵となって、昌幸の孫にあたる稲姫に会おうとしている。小松姫は、考えたくもなかった。もし、会って自分たちが人質になり、夫・信幸に害を及ばすやも知れない。されど、今生の別れとあれば、会うことに躊躇いはなかった。如何に戦火とは言え、あの二人がそのような卑怯な真似事に出るわけがない。城に招き入れれば、どこからか、内通の疑いがもたれるやも知れない。そんな危険な事は留守を預かる者として出来なかった。  「幾ら、父上の願いであっても、あい受け入れがたしこと」  と、毅然と言い放った。   「されど…、お分かり申した。その旨、お伝え申す。このような無礼、お許しくだされ。それでは、小松姫様・稲姫様におかれましては、お体を大事になされますように、いざ、ご無礼致しました」   無念さを背負う使者の背中が、一瞬、孫を可愛がる昌幸の姿と被さった。  「お待ちなされ」   使者が素早く反応し、振り返るのを確認すると「城外であらば…今宵はもう闇が深い。明日、正覚寺に稲姫を連れて参りましょう」  「ご承知くださりまするか…有り難き幸せ。昌幸様もきっとお喜びなさりまするでしょう、では明日」  使者は、朗報を持ち帰る任務に喜びを隠せないでいた。昌幸と幸村は、沼田城下の正覚寺で、小松姫と稲姫にあった。ほんのひと時の至福の時。胸の奥まで染み入るような澄み切った清々しい青空だった。   昌幸と幸村は、束の間の孫との時を過ごし上田城へと帰還した。そこで待っていた驚愕の事実に昌幸と幸村は驚嘆した。   「母上では御座らぬか、なぜに、いや、人質に…」   幸村に反し、昌幸は声も出せずにいた。幸村もまた、狐に摘まれた様な不思議な思いだった。山手殿から詳細を聞いて、胸を撫でおろすと共に今後、どうするか一瞬考えた。が、それは徒労にしかならなかった。  「幸村、ここで徳川に寝返るのは容易だろう。しかし、裏切り者の汚名は付いてまいろう。それは、真田家の恥となろう。そなたが言う通り、信幸かそなたが生き延び、この真田家を守ってくれ。不詳ながら、我ら豊臣方として戦おうぞ、それで良いな」  「よしなに」  こうして、昌幸と幸村は、豊臣方としての決意を新たにし、三成と連絡を取り、戦いに備えた。   家康は小山に着陣した。真田信幸のことは、秀忠の使者から知らせを受けていた。「即日、我らに味方すると決断なさるるは、天晴れ、天晴れ」。家康はいたく喜び、離反した昌幸の所領を信幸に受け継がさせることで応えた。  犬伏で別れを余儀なくされた真田家が新たな道を歩む頃、徳川軍は、上杉討伐を取りやめ、三成らを討つため、西に軍を進めていた。  秀忠の軍と、美濃で本体徳川軍と合流する手筈となっていた。  しかし、秀忠は、色気を出した。  「秀忠が…。いけ掛けの駄賃とも思うておるのか。ただではこの上田城を落とさせぬぞ。西軍を勝利のに導くためにも、なんとしても徳川軍の進軍を遮らねばならぬ。必ずや、ひと泡もふた泡も吹かせてやるわ」   昌幸は郷土を守るため、一つの決断を下した。  「侍、中間、百姓、町人に至るまで、敵の首ひとつに、知行(土地)百石を与えるものとする」   自分の土地をも守り抜いた者には身分に関われず、土地を与えるという郷土防衛戦を宣言した。昌幸に呼びかけに応じて多くの農民が馳せ参じた。そしてついに徳川主力軍三万八千が、上田城に姿を現した。   「うおおお~、これが徳川軍か…」   目の当たりにする多勢は、想像を遥かに超えた威圧感があった。しかし、かつて痛い目に合わせられた徳川軍は、不気味なほど静かだった。   「これでは、流石に太刀打ちできぬな、皆も怯んでおるわ」  本多忠政が真田昌幸と会見し降伏を促すと、その申し入れをいとも簡単に承諾した。この時、昌幸の軍は、農民兵を合わせて三千五百でしかなかった。昌幸は、一計を案じていた。  「上田の戦いでは徳川軍に迷惑をお掛け申した。その侘びとして、頭を丸めて降伏致しまする」  本多忠政は、あまりの手応えのなさに拍子抜けした。さらに、秀忠軍に同行していた信幸と真田親子の戦いは避けられたという安堵感からだった。徳川家の汚点であった上田の戦いの敗北。その汚点を秀忠自らの手で払う事ができた喜びも重なっていた。その気の緩みが秀忠に大きな重しとして伸し掛る事を、徳川軍の誰もが知る由はなかった。  降伏を申し出ることで徳川主力軍が警戒の網を解くのを待って、昌幸はせっせと上田城に兵糧・弾薬などを運び入れ、上田城周辺の各所に伏兵を忍ばせ、軍備を固めていった。昌幸の降伏は、戦闘準備の時間稼ぎだった。そうとは知らず秀忠は、一向に約束を実行に移さない昌幸に業を煮やしていた。痺れを切らした秀忠は、昌幸に使者を送った。昌幸は、秀忠の使者の書状を受け取る間もなく、言い放った。  「返答を延ばしていたのは、籠城の準備で御座った。充分に仕度は出来申したので、一合戦つかまつろう」 と、宣戦布告した。これに秀忠は、顔を赤くして激怒した。  「姑息なことを。大人しく降伏していれば、血を流さずに済んだものを。ええい、胸糞悪いわ」  秀忠は、家康から遅参しないように釘を刺されていた。それさへなければ、思う存分、叩き潰せるのにと、苛立っていた。徳川の汚名を払えた、と空喜びしただけに、昌幸への恨み辛みは、秀忠の怒りの限界を超えていた。  「このまま見過ごして家康公の元へ参れるものか、目に物見せてやるわ」   それを聞いて本多正信は、焦った。三日以上も時を無駄に費やし、苛立つ秀忠が安易な行動に出ることへの確信を感じていた。   「お・お待ちくだされ…家康公より、進軍を急ぐよう、強く命じられておりまする。ここは、お考え直しを」  「このまま捨て置けというか。昌幸に対しては、敗戦を恨む者も多い。兵力の差も圧倒しておるではないか、すぐに片付けてやるは」   「昌幸という男、侮れないやつめで御座います。兵力の差を分かって、敢えて、宣戦布告を仕掛けて来ておりまする。前の上田城のこともありまする。きっと、きっと、何か奇策を用意してるに違いありませぬ。ここは何卒、何卒、進軍を」  榊原康政も正信に続いて、秀忠の怒りを治めようと尽力した。しかし、進言も虚しく、秀忠の怒りは、重臣の意見さへ聞き入れる余地はなかった。  「一度ならずや二度までも、徳川を愚弄しよって見逃す訳にはいかぬは」   上田城の前には、今か今かと戦の号令を待つ徳川主力軍がいた。その時だった、上田城の門が開いた。そこに現れたのは、昌幸だった。徳川軍の目と鼻の先で、突如、昌幸は高砂を踊り始めた。まるで、のぼうの城の成田長親の田楽踊りのごとくに…。昌幸にとっては、膠着した戦況を打開する決死の場面変換だった。  「何事ぞ…」  呆気に囚われる者もいれば「小馬鹿にしよって」と、怒りを増長させる者など、様々。こけにされた徳川軍は、秀忠の攻撃命令を待たずに、上田城に雪崩込んだ。その頃、城内では、前代未聞の迎撃作戦が進められていた。篭城している民衆が米を大きな釜で茹で、大量の粥を作っていた。激情に狩られた徳川軍は、我先に真田軍によって築かれた砦をよじ登って行く。その時だった。  「わぁぁぁぁ~」  「ぎやぁぁぁ~」  壮絶な叫びと共に進軍の足が止まった。響き渡る兵たちの悲痛の叫び。  真田軍は、攻めてくる徳川軍に向け、煮えたぎった粥を一斉に浴びせかけた。   《人馬とも粥に焼け爛れ、半死半生になりて、苦しむ者、その数を知らず》   農民たちは竹を切って作った矢を、容赦なく降り注いだ。六文銭の旗の素、農民たちは死を恐れず、真田軍の一員として徳川軍に立ち向かった。  《百姓風情の者なれど、秀忠公の侍を追い払う》  粥の熱さから逃れんとする徳川軍は、城のそばの川に誘い込む。  「狼煙を上げぇ~」  これを合図に堰止めていた川の水が一機に放流された。徳川軍にしてみれば、指揮官が変われど、二度目の水攻め。それでも、濁流の前には成す術がなかった。  《河の水、暴漲し、我が軍大敗し、死傷する者、無算なし》  関ヶ原の戦い前に、徳川主力軍は大きな痛手を被った。昌幸は、降伏を申し出て、時間を稼ぎ、城の防御や資材、食料の備蓄、堰止めの工事に要する時間を稼いだ。敵を焦れせ、高砂踊りで挑発し、まんまと術中に嵌めた。   「秀忠様、家康公より、急ぎ合戦に合流せよと」  秀忠は、屈辱と合戦合流の遅れへの焦りで、身が引き裂かされる思いだった。徳川主力軍は、上田城落城を諦め、合戦参加のために急ぎ進路を西に取った。昌幸と民衆の一致団結で上田の郷土は守られた。  この戦いの裏にもうひとつ戦いがあった。秀忠は、同時に真田幸村がいた砥石城を攻めていた。幸村もまた、徳川勢に抵抗していた。秀忠は、真田家の犬伏の別れを疑心暗鬼の目で見て真意を確かめるため、砥石城攻略に幸村の兄である信幸を差し向けた。  「信幸よ、砥石城を攻めぇ。砥石城にはそなたの弟・幸村がおる。どうだ、応えられるか」   出来れば避けたい戦い。犬伏の別れを今生の別れと捉えたならば、真田家の存続こそが血族の願いと信之は、秀忠の命に背くことは考えないでいた。  家康が賞賛した信之の即日決断を秀忠は、理解し難かった。親・兄弟の関係を引き裂いても戦う決断とは、そんなに容易にできるものなのか。仲違いがあるならまだしも、関係は良好と知る。秀忠は、信之に対する疑念を払拭できずにいた。その疑念を晴らすべく秀忠は、信之を幸村に差し向けた。  一方、幸村は、根津甚八からの報告を受けていた。  「若様、この城に差し向けられるのは、信之様で御座います」  「そうか、兄じゃか…秀忠め、卑劣なことを」  「如何なされます」   「この戦いは刻限を稼ぐこと。ならば、攻め落とせぬは兄じゃの不名誉となろう。砥石城を後にして、ここは上田城に参るとするか」  「それが宜しいかと」   長期戦に持ち込めれば、幸村はそれでよかった。幸村には気がかりなことがあった。父・昌幸が、天下に徳川の恥を知らしめた。血族同士が戦い、どちらかが滅びることになるのを秀忠が、望んでいるのでないかということだった。ならば尚更、秀忠の思い通りに事を進めるのは、宜しくないと考えた。  徳川勢の関心は、同族の戦いに集中していた。信之も、敵味方に分かれた真田家への疑念の目を重く受け止めていた。ならばこそ、心を鬼にして戦おうと決意していた。   秀忠軍が砥石城に着くと、幸村隊は既に退却し、静まり返っていた。信之は、狐に摘まれたように我目を疑った。何らかの策略か…。用心しながら城内を調べるが、怪しげな痕跡は何ひとつ見つからなかった。  「弟よ…味なことを」  信之がいとも簡単に砥石城を占領した知らせは、監視の意味合いも含めて配した忍びから秀忠の元に報告された。忍びの報告は城の外からの監視。信之の軍の流れ込む声がしばらく続き、徐々に収まっていく。そこに激闘の様相はなかった。そもそも、城内にいとも簡単に入り込めたことすら、怪訝なこと。武田信玄でさへ攻略に苦しんだ砥石城。それを簡単に占拠した。それは、返って徳川勢の疑心暗鬼を上塗りすることになった。   秀忠は、合戦で豊臣方に寝返るのではないかと疑い、信之を無風の砥石城に守備を名目に留めさせた。  幸村は昌幸のいる上田城に入城した後、こっそり裏門から姿を消していた。向かった先は、伊勢崎城だった。そこに二千の兵を用意し、進軍の時を待っていた。  秀忠は、上田城の染谷台に陣を進め、城を包囲した。   「康成、田畑を刈れ~。我らが本気である事を見せつけてやれ~」   短期決戦を目論んだ秀忠は、戦い易いように牧野康成に命じて、地を(なら)させた。真田勢への緊迫感を高め、討って出てくるのを誘った。昌幸には秀忠の思惑が、手に取るように分かった。  「若造が。その誘いに乗ってやるわ、がはははは」   「行きまするか」   「いかいでか、あはははは」  昌幸と幸村は、約五十騎を率いて城外に偵察に出た。徳川勢の鉄砲隊の配備や人数など布陣の確認は怠らなかった。昌幸が徳川軍勢を煽りつつ油断させている間に着々と幸村の密偵たちは、徳川秀忠の居場所特定に勤めていた。  「若様、昌幸様上田城にて、大軍を引きつけておられます」   「あい、分かった、皆の者、出陣で御座る。目指すは秀忠の首なり。いざ、参るぞ」   「おお~」  徳川の大軍を昌幸が上田城に引きつけ、手薄になった秀忠本陣を幸村らが襲撃する策が、甚八の報告を受けて実行に移された。  「秀忠様、大変で御座ります」   「如何致した」   「見張り番より、知らせが。敵方が向かっているとのこと。その敵方が、道半ばにして二手に分かれたとのこと。挟み撃ちにする手配ではとの知らせが御座いました」  「何と、真田軍が…、図られたか…敵方の狙いは、この秀忠か」  「兵の殆どが上田城に…このままでは秀忠様のお命が危のう御座います、ここは退却を」  「この秀忠、隊を率いる者として敵に背中を向ける訳には参らん。叶わなければ腹を切るまでよ」  「お考え直しを…今は、家康公からの指示を守ることが第一かと。ここはひとまず退却を…このような場所でお命を落とされるようなことがあらば、徳川の往く末に大きな影を落とし兼ねまする、何卒、何卒、お考え直しを」   家臣はそう言うと、秀忠を無理やりに馬に乗せ「ご無礼仕る」と言うと、「頼んだぞ」と、馬の尻を鞭打った。家臣の気持ちを察したように馬はひと嘶き、両前足を上げ、着地と同時に勇ましく走り出し、秀忠を一機に本陣から遠ざけた。それを見守るように、壁となる三騎が追随した。   「あれをご覧くだされ」  山裾を駆け去る一団が目に入った。  「秀忠め、命拾いしよったか」   徳川主力軍は、真田昌幸・幸村の策略の前に惨敗した。上田城の戦いの九日後、関ヶ原で東西十六万の軍勢が激突した。しかし、この中に秀忠を中心とした徳川主力軍の姿はなかった。昌幸に破れ、天下分け目の戦いにも間に合わなかった。  家康は合戦に勝利したものの、西軍から没収したおよそ六百三十万石の内八割を東軍の主力となった豊臣恩顧の武将に配分しなければならなかった。特に京都から伊勢には、豊臣恩顧の外様大名が支配し、徳川の大名は皆無の状態になった。家康は、西国の直接統治を諦めざるを得なくなった。  豊臣家を一機に攻め落とせない布石を作ってしまった。関ヶ原の合戦で徳川の勢力を一気に伸ばし、政権の基盤を作ろうとした家康の野望は、昌幸と民衆によって砕かれたのだった。  関ヶ原の合戦後、西軍に就いた昌幸は、上田城から引き離され、紀州・九度山に幽閉された。徳川の監視のもと、昌幸は不自由な暮らしを敷いやられた。昌幸はこの時、家康に就いた信之に手紙をしたためていた。  「私は、もうすっかりくたびれ果ててしまいました。上田の様子を久しく聞いておりません。是非、承りたいと思います」 という内容だった。昌幸は、二度と故郷・上田の地を踏むことはなかった。上田城は、徳川の手によって取り壊された。その後、上田には徳川一門の大名が置かれた。しかし、旧上田城下の民衆の心には、真田家、昌幸への思いが、忘れ去られることはなく、深く根付いていた。  上田城では勝利したと言ってもいい昌幸・幸村だったが、石田三成の西軍に就いたばかりに処罰の対象となった。上田領は没収され、昌幸・幸村には死罪が下された。  真田信之は、父と弟の処罰を知ると、出来る限りの手立てを打った。特に、妻である小松姫の父であり、徳川の重臣である本多忠勝と共に懸命の嘆願を行った。その甲斐あって、死罪だけは何とか逃れることが出来た。  昌幸と幸村は、紀伊・九度山にて蟄居。紀伊藩から年五十石の合力や信之と暮らす母・山手殿、昌幸の正室からの仕送りで生計を立てていた。昌幸は、精根尽きたように床に伏せることが多くなっていた。生活は苦しく、借金も余儀なくされた。生計の足しにと「真田紐」を考案し、家臣に行商もさせた。徳川の監視下にあったとは言え、比較的自由な日々を送っていた。曲者が幸村の命を狙うこともあったが、幸村自身が撃退していた。そんな様子を家臣たちは心配とも、頼もしさとも捉えていた。  「若様、曲者を仕留められたそうで」  「誂うな」  いい年の幸村も、家臣にとってはいつまでも若様だった。  関ヶ原の合戦から早いもので十四年が過ぎ去っていた。  そんな折、書状を携えた使者が訪れてきた。遠方からの訪ねてくる者は始めてだった。それは、豊臣家からの使者だった。豊臣家と徳川家は、一触即発の双璧にあった。だが、徳川の勢力の拡大は著しく、豊臣恩顧の名立たる大名も徳川の勢力を恐れてか、豊臣家に就く者は少なかった。今や秀吉の威光だけでは、どうにもならに状況だった。  豊臣側は止む終えず関ヶ原の合戦で苦汁を舐めている武将や浪人に我が方に就き、徳川討伐に力添えするようにと、兵を募っていた。幸村もそのひとりに上がってのことだった。他者と違ったのは、戦績の優もあり、その使者が持参していたのは、黄金二百枚、銀三十貫の破格の誘いだった。幸村は即断し、監視の目を盗んで家族を伴い、九度山を後にした。勿論、家臣もだ。昌幸の旧臣にも、賛同を呼びかけ、百人程が集まった。幸村の九度山からの脱出は、監視役が見逃した、民衆が嘘を述べ追従をかく乱したとの諸説があるが、容易く脱出できたのは、幸村らの人柄が大きく影響していたものに違いない。  早速、幸村は、大坂城に出向いた。  幸村四十八歳の冬、木々が葉を落とした頃だった。
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