よく知るほど、当てにならない。

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よく知るほど、当てにならない。

 貴布祢は、日活紡績工場の進出以来、三業地として栄えていた。  三業地とは、料理屋・待合茶屋・置屋(芸者屋)の三業の総称。そこから、花街のことを「三業地」ともいい、地域により茶屋と置屋で「二業地」と呼ぶ。  日活紡績を筆頭に織物業者が集中し、機業(織物業)の会合が、大人の娯楽の中心地としての貴布根を頻繁に会食や宴会などに使っていた。    そんな貴布祢で、おぞましい事件が新聞の一面を凍り付かせた。  静岡の地元紙・静岡民共新聞1941年8月19日付(18日発行)夕刊の1面だ。    「濱(浜)松市外 北濱花街の惨劇 貴布禰(祢)藝(芸)妓置屋で藝妓二人を滅多斬り 犯人不明深夜の凶行(一名即死一名瀕死)」 という見出しを立てて報じた。  記事の内容は、1941年18日午前2時50分ごろ、浜名郡北浜村の花街…北浜村貴布祢205番地、芸妓置屋「和香松」こと佐藤はま方別邸の便所窓口より怪漢侵入して、熟睡中の同家抱え芸妓勝奴こと原籍秋田県山本郡花若村、高松まさゑ(20)及び君龍こと原籍(静岡県)周智郡犬居町、河村まさ子(20)の両名を鋭利な刃物(凶器は日本刀か包丁か不明)で切りつけ、頭部並びに頸部をめった切りにして逃走した。犯人は、いまだ不明である。  同紙は翌19日付朝刊の続報で、18日午前3時ごろ「苦しい苦しい」という君龍の呻き声に、はまさんが目を覚ました時は、勝奴は鮮血に濡れて絶命し、君龍は瀕死の重傷で苦悶しており、はまさんは狂気せんばかりに驚き、助けを呼んだが、その時は既に犯人はいずれかに逃走した後、と報道。  関係者への取材から「勝奴も君龍も人から恨みを受けるような性質ではありませんし、痴情関係といっても、そうした浮ついたうわさも聞いていません。私どもとしては何の見当もつきません」という和香松方の話と、「勝奴も君龍もこの土地では相当の売れっ子です」という消息通の談話を載せている。  事件の一報を受け、地元の有力者や関係者の出入りが多い場所だけに浜松署長自らが急ぎ現場に赴いた。  貴布祢巡査駐在所に仮の捜査本部を設置。  被害者は2人とも芸妓で、芸妓屋で起きた事件であることから、芸妓対客筋をめぐっての痴情の揉め事である犯行と判断された。  花街には、酒と金と女が入り交じり、どろどろとした様相を呈していた。誰かが誰かの客を取ったとか、贔屓の芸妓にちょっかいを出したとか出さないとか、一方的な叶わない好意の結末とか、誰もがそう考え、客筋に対する捜査は最も厳重に行われることになった。  後の調べで、死亡した芸妓は「勝也こと高松マサエ」、重傷を負ったのは「君竜こと河村正子」と判明した。    捜査員は、捜査方針を決めるため警察署に戻ってきた。  「はぁ、暑い、暑い」     捜査員は忙しく扇子をばたつかせ、やかんから麦茶を湯飲み茶わんに注ぎ込み、一気に飲み干した。二敗目に手を掛けた時、電話がけたたましく鳴った。  「はいはい、この暑さに電話の音は応えるわ」と受話器を取ると、信じられない報告が飛び込んできた。  芸妓殺傷事件現場から警察署に引き揚げた捜査員が汗ばんだシャツを脱がないうちに第2事件発生の報告がもたらされた。  第1事件殺傷事件の犯人を特定する間もなく、またもや隣村・小野口村に3人刺殺事件が突発した。  20日午前2時半ごろ、浜名郡小野口村小松、料理店『菊水』の山口鶴枝さん(44)方の子ども浩君(11)が小松駐在所へ駆けつけて来、ガラス戸を叩いた。  「お母ちゃんが怖い男の人に奥の方へ押されて行った。早く行ってください。お母ちゃんは火事だ火事だと言いながら、押されて行きました」 との訴え出があった。藤川巡査は子供には怖く見えても、実は大人の痴話喧嘩のひとつだろうと気軽な気持ちで駆けつけてみると、目に飛び込んできた現場の惨状に驚きを隠せないでいた。  目前には、既に女将の鶴枝さんが勝手の土間で胸部を鋭利な刃物で刺されて即死を遂げていた。辺りを探すと女中大庭いたよさん(16)は座敷で同じく胸部を刺されて即死。その付近に18日から用心棒に雇い入れた浜名郡積志村西ケ崎生まれ、木村良太郎さん(66)が同様、胸部を刺されて惨死を遂げていた。惨劇を目の当たりにした藤川巡査は、想像とは掛け離れた大事件に動揺を隠せないまま、浜松本署に急報した。  生き残った浩の話はこうだ。  「僕が目を覚ました時は、お母さんがいなく、布団にいっぱい血がついていました。まさか殺されているとは知りませんでした」  「お母さんは常に私に、悪い奴が夜侵入するかも知れぬから、すぐ交番へ届けろと言われていました」  地元紙・静岡民共新聞記事はこうも続けている。  「こんな凶行をするような狂暴な者の侵入を予知していたものらしく、木村という日露(戦)役の勇士を用心棒に雇い入れたほどであったのだ」と。  管内と隣接署に非常手配が実施され、県警察部刑事課からも警部らが急派された。愛知県から名古屋医大(現名古屋大医学部)小宮博士が県刑事課鑑識係員3人と来援し、現場鑑識資料の収集に尽力した。  中1日おいての事件発生で地元民の恐怖はひとかたならず、小野口、北浜、積志の各村では警防団、隣組を動員して、物々しい警戒に努めた。  実は3年前の夏にも事件は起きていた。  それは、同じ浜松署管内で花柳界が狙われた“武蔵屋事件”だ。  1938年8月23日付(22日発行)静岡民共新聞夕刊の見出しで報じている。  「暴行を加へ(え)た上に 出刃包丁で滅多切り 濱松在積志の藝妓屋へ凶漢」  記事の内容は、22日午前1時ごろ、浜名郡積志村西ケ関、芸妓屋むさし屋方物置をよじのぼって同家2階左間ガラス窓をこじ開けて1名のエロ強盗が侵入。そこから階段をおりて階下8畳の間に養子(8)と就寝中の女将(34)を強姦凌辱を加えたうえ、同女が悲鳴をあげたのに驚いた強盗は、出刃包丁を逆手に持って右ほお、頸部に瀕死の重傷を負わせて部屋中を血の海と化し、再び賊は大胆にも2階に上がって10畳の間に就寝中の抱え芸妓にまたも凌辱を加えんとしたが、早くも階下の悲鳴に目が覚めていたので、大声をあげて騒ぎ出したところ、くだんの賊は背部から鉄拳を加えて昏倒させて、悠々小野口村内野方面に向かって逃走した。というものだった。  女将は、犯人の顔は一度も見たことがなく、またこうした被害を受けるようなこともしていません、と語ったと報じている。  捜査の見通しが誤っていたのか、事件は迷宮入りになっていた。  第1、第2の事件の発生で、手口、凶行、無言、夏期の犯行という点で関連性があるものと判断し、武蔵屋事件も捜査の対象とすることとなった。  第1、第2事件の共通点は次のようなものだった。 1.侵入口がいずれも便所の高窓を外している。 2.屋内を物色した形跡がない。 3.創傷からみて凶器が同一であり、凶行が同様手段と認められる。 4.いずれも点灯下でありながら、覆面の形跡が認められない。 5.犯人は大男でなく老年ではない。 6.被害者はいずれも花柳界の者である。 7.被害者の悲鳴を聞いた者はあるが、   犯人の言語と思われるものを聞いた者がない。  第2事件を受けて、浜松署は署長を総指揮とする8班42人の捜査隊を編成。8月24日には浜名郡小野口村小松の公会堂に捜査本部を設置して、本格的な捜査を開始。  しかし、昼夜兼行の活動にもかかわらず、捜査は難航。その理由として第1、第2事件とも花柳界の出来事であるため、捜査員の聞き込みから得る捜査資料は芸者対客、料理屋をめぐるいわゆる痴情怨恨方面に傾き、犯行の動機・目的が明らかでないだけに、捜査員を迷わせていた。  そんな折、捜査線上にある不審者が浮上した。  武蔵屋事件の捜査を進めていくと、事件の前前夜、浜名郡北浜村小松の「日の出座」で映画見物中の男の自転車が同所の自転車置き場で盗難にあった事実が判明し、さらにその夜、1人の少年が無札で入場しようとし、木戸番が無理に突き出した事実が浮かび、その際、同少年は匕首(あいくち=つばのない短刀)のような物を所持していたことが分かった。  その少年は聴覚障害者で口がきけない者で、星の帽章を付けた学帽をかぶっており、調査の結果、浜名郡北浜村道本に住む誠策(18歳)という男だった。9月22日の夕刻、捜査本部で筆談、手まねでいろいろ尋ねてみたが要領を得ず、事件との結び付きも得られなかったので、1時間ぐらいで帰宅させた。  捜査本部は第3事件の発生を考慮して駐在所にも捜査員を分宿させ、事態発生に対処できるよう体制を整えていた。その中、ついに第3の事件が発生した。  思わぬ人物が“被害者”として登場する。  1941年9月27日、午前2時20分頃、浜名郡北浜村道本、農業某方へ何者かが侵入。同家裏離れ6畳間に就寝中の四男(27)の胸部、腹部、背部など11カ所を突き刺して即死させ、同人妻(26)の右腋下その他に刺傷を負わせ、さらに続きの8畳間に寝ていた主人(59)の左前額部ほか数カ所に刺切創、同人妻(59)の背部その他に重傷を負わせ、物音に驚いて立ち上がった三女(21)の右乳下部を突き刺し、逃走。  犯行当時、同間に寝ていた孫2人は難を逃れ、2階にいた六男誠策も被害に遭わなかった。被害の状況は隣家の者から貴布祢巡査駐在所へ急報され、即刻出動。柘植(静岡県)警察部長も静岡から直行した。  新聞は全員を実名で報道していた。その中に、思わぬ名前があった。  武蔵屋事件捜査の過程で取り調べを受けた聴覚障害の男、誠策だった。  取調べを受けた5日後にその人物の自宅で事件が起きた。当然、不思議に思い、この段階で再び捜査線上に乗せてもおかしくなかった。  しかし、聴覚障害者に犯行は無理、という根拠のない先入観を持った捜査官や、あいつは犯人に間違いない!とする捜査官がいた。そうした思い込みが解決を遅らせた要因であったことは否めない。    捜査本部は、犯人像を以下のように想定していた。  (1)年齢18~40歳までの男子  (2)小柄で頭髪の長い者  (3)変質者、特に二重人格者  (4)凶器所持の疑いのある者、 としていた。捜査線上に17人の容疑者が浮かんだが、犯人には結びつかなかった。  当時の内務省も事態を憂慮。第1事件以来9カ月間に計7271人の捜査員が動員された。その後、第1事件1周年の8月中旬には張り込みを実施して警戒。新しい方針で態勢を立て直して捜査を再開しようとしていた矢先、第4の事件が発生した。  第1・第2に続いて発生した第3・第4の事件は当時、報道されなかった。  容疑者が検挙、起訴されて記事が解禁になった1942年11月17日付静岡新聞朝刊に検察当局は、事件の一般に及ぼす影響の重大性に鑑み、第三凶行と同時に新聞記事掲載を差し止め、と言い渡していた。  当時は、10を超える法規によって言論が取り締まられていたからだ。  第4の事件とは、4人がメッタ切りも、これまではなかった遺留品が見つかった。  1942年8月30日午前1時半ごろ、浜名郡積志村下大瀬3381番地、農業井熊亀鶴方の奥納戸部屋に就寝中の亀鶴(56)、妻よし(53)、三女はつ(19)、三男実(15)の4人がいずれも胸部、腹部、背部などをメッタ切りにされて殺害された。  離れの部屋に寝ていた四女(17)は難を逃れ、被害を知り、本家の者から有玉巡査派出所へ急報された。  検証の結果、被害者の布団の上に門歯3本が脱落しており、被害者が犯人にかみついて抵抗した状況がみられ、同所に木製白さや1本、人絹小幅の黒っぽい「めくらじま」(縦横紺色の木綿糸で織った無地の平織物)の布片と黒塗りの帽子のあごひも1本が遺留されていた。そして、これまではなかった遺留品が事件解決の糸口となって捜査を大きく前進する。    第4事件の現場に残された布片は犯人が覆面に使い、格闘の際、外れ落ちたとみられ、専門家の鑑定でマンガン防染生地と判明。浜松市の「外山織物合名会社」が扱った「遠州織物」で、試験の過程で開発不成功になっていたことが分かった。その際、第3事件の被害者方の三男(30)が、当時家を出て浜松市に住み、同社に勤務していたことが分かり事情を聴いたが、事件との関係性ははっきりしなかった。  花街には「酒と金と女」が渦巻いていたはず。第1、第2事件から武蔵屋事件にさかのぼって、芸妓と客のどろどろした関係に刑事たちの目が集中したのも、ある程度は無理がなかったのかもしれない。地域の特色が表れた事件だとも言える。  この段階の捜査に別の立場から動いた人物がいた。  第4事件の被害者方からは応召兵が出ていたため、浜松憲兵分隊も別途捜査を進めていた。坂下という憲兵伍長が第3事件の被害者方を訪問し、そこで第4事件の遺留品と同じ布片を発見。三男が持ってきたものとの証言を得る。  これと前後して、やはり別居している長男から家に「布を調べに来るかもしれないが、知らないと言え」という電話があったことが判明した。  9月24、26日の両日、第3事件被害者宅を家宅捜索。同一の布片を発見したため、三男を追及すると、自分で新しい織物を作ってひと儲けしようと1937年頃、浜松市の工場で試し織したものだったが、外山織物に納入したものの不合格。全部実家にやってしまったということだった。  実家を出ていた次男(33)を調べると、「自分は犯人ではない。誠策を調べてくれ」と言ってきた。  次男の話では、誠策は第4事件の前夜、「友人の家に遊びに行く」と言って自転車で家を出たまま、翌日の午後2時ごろ、左の目をはらして帰ってきた。さらに、第3事件で殺害された四男の妻は、事件があったとき、「ミシン、ミシン」と犯人が2階へ上がったような音がしたと証言。後で調べてみると、音のする場所は2階へ上がる階段だけだったため、家族の間では「誠策が犯人ではないか」と話し合ったという。  10月12日、誠策が在学中の浜松聾唖学校を捜査員が訪れ、動静を聞くと、誠策は第3事件の後、同校の友人に「人殺しをやったのは俺だ」と漏らしていたことが発覚。本人を追及し、所持品を提出させようとすると一時抵抗を示したが、そのうえで提出したズック靴の足裏の文様は、第2事件現場の敷布の足跡とぴったり一致した。浜松署に連行されて調べを受けた結果、10月13日、全ての犯行を自供した。  誠策は1923年9月生まれで検挙時は19歳になったばかり。武蔵屋事件の時は14歳だった。太平洋戦争開戦まで1カ月足らずの時期だった。  言葉が話せない犯人の供述だけに、犯行の動機には若干の迷いが見られる。  兄弟7人のうち彼のみが不具であるため、幼少から家庭で冷遇された。成績はよかったが、彼の向学心は極めて強く、さる14年、浜松聾唖学校に入学。一、二番を争う好成績であったが、常に彼の関心は学費にあった。  「よし、学費ぐらい自分でなんとかしよう」  恐ろしい事件の動機は全くここにあり。自宅で兄を惨殺し、父以下5名を傷つけたのは、一家を亡きものにすれば、自分をかわいがってくれる大阪の次兄が帰ってくるものと思い込んだ結果とした。  また、誠策の父は家庭内で自分を除け者にし、極めて冷酷に扱い、誠策が中等部へ入学せねばだめだ。学校さえやらせてくれるなら、家のことはどんなことでも素直にやる、と懇願したが、かえって父に廃学を強いられ、その冷酷を恨むのあまり、残忍性を露骨に表し、学資金を稼げば学校へ行けると、あさはかな考えから強盗殺人を企て、恐るべき犯罪を犯したものであり、外部からの侵入を装って恨みを晴らそうとしたが、父には怪我を負わせただけで、兄を殺してしまった、と語ったと言う。  ここまで書かれた父親は「あは(わ)れ死を以(もっ)て 社會(会)に陳謝」と、誠策が検挙された後の11月7日、家を出て天竜川で投身自殺している。  事件解決に「功績抜群殊勲甲」の4人が17日に検事総長から異例の表彰をされるというニュースがあった。4人の中に写真入りの「犯人を直接検挙した殊勲者、浜松署刑事室・紅林麻雄部長刑事」がいる。これが戦後、物議をかもす事件の立役者だ。  戦後、静岡県では冤罪事件が続発する。幸浦事件、島田事件、小島事件、二俣事件。その事件捜査全てに関与したのが紅林刑事だという。  佐藤友之「冤罪の戦後史」は「拷問王」と呼び、証拠の捏造を繰り返したと非難。その“ルーツ”に浜松連続殺人事件を挙げている。  裁判での鑑定には、精神医学者、内村祐之・東大教授と吉益脩夫・東大講師が当たった。内村は1952年出版の「精神鑑定」で鑑定内容を説明。誠策との実際の問答も紹介している。 問 第1事件の時は、どうするつもりで行ったか? 答 殺すつもりで行きました。 問 親切にしてくれた兄さんを殺して、後で悲しいと思わないか? 答 悲しいです。 問 お父さんを傷つけたときは? 答 父はかわいがってくれなかったから、悲しくありません。 問 生まれてから一番うれしかったことは? 答 (依然気難しい表情で考え込む)小学校から百姓するまで何もなかった。   17歳で聾唖学へ入って、友達が手真似で話しているのを見て嬉しかった。 問 殺したことを話すとき、嫌な気持ちはしないか? 答 前にはそれほどに思わなかったが、いま考えると死んだ人は非常に可哀相に   思われ、拝みたい気持ちです。 問 これだけのことをしたら普通は死刑になる。おまえもそうなるかもしれない?答 (全く顔色を変えぬ)私は法律というものを知りません。   人を殺せば死刑になるということも読んだことがありません。   友達が話しているのを聞いたことはあります。まだ殺されては困る。 問 もし死刑だと言われてもいいか? 答 (考え込む。依然として表情の変化なし)非常に怖いと思います。 問 自分のしたことが死刑に相当すると思わないか? 答 (前と同じく、身動きもせず問い返す) 問 有期懲役が適当か、死刑が適当か? 答 死刑が当然です。   しかし、私は聾唖ですから、あるいは許してくれるかもしれません。 問 恩のある親を傷つけることは一番悪いことだろう? 答 それはそうですが、親は子どもをかわいがってくれるのが当たり前なのに、   唖(おし)はだめだ、だめだと言いますから、親には恩を感じません。   それで殺しました(活発に答える)。 問 16歳の時まで人を殺そうと思わなかったのに、   人を殺して物を取ろうとしたのはどういうわけか? 答 活動(写真=映画)に行ったり、新聞などを読んで思いつきました。 問 西ケ崎(武蔵屋)へ行くどのくらい前から考えだしたか? 答 (暫く答えぬ)剣劇映画を見て思いついたが、それが何年何月か忘れました。 問 16歳の時、強姦するということを知っていたか? 答 映画の影響だと思います 問 人が死んだのを見て何と思う? 答 捕まると恥ずかしいから困った。むごたらしさは感じない。   騒がれて捕まることが心配でふるえた。 問 お金を取る事とうまく殺す事とどちらがうれしいか? 答 殺して金を取れれば一番うれしい。  鑑定結果によると、誠策は記憶力に異常はない。普通の日常知識を一応持っている。聾唖学校で首席だったことは知的素質の不良でないことを示す。  しかし、彼の知識の大部分は具体的なものに限られるという。  手話法によって教授する聾唖学校の中等部に入ったため、口話法によるほど完全な教育を受けることはできなかった。相当多数の漢字を読み書きできるようにはなったが、一般的知識はこれに伴わず、極めて不均衡、不自然な知識を持っているに過ぎない。また、思考力についてみても、概念の構成、とりわけ抽象的能力が著しく劣り、従って道徳的観念の構成も非常に幼稚である。  このことは、前記の私との問答中によく示されている。あのような考え方は、正常に発育し、正常な教育を受けた成年男子からは決して聞くことができない。  しかし、少しく聾唖の精神教育の特異性を考えるならば、これは彼の生来の知的素質が低いためではなく、全く彼の聾唖者としての生活と教育の結果であることが分かるであろう。  鑑定では誠策の性格を「著しい偏綺(ひどく風変わりなこと)があった」とした。犯行後も平然として殆ど悔悟の色もなく、ただ金円強奪の目的を達しなかったことを遺憾として、さらに次の新しい計画を進めているほどである。  また、彼は普段から家族に対する親愛の情がなく、一途に利己的に行動していたという。一般に感情の表れが少なく、当然感情が動揺すべき場合にも冷静、水のような態度を示したことは、毎回の鑑定に当たり、私たちも極めて異様に感じたことであった。 遺伝的素質を合わせて考えるべきであるとしたうえで、要するに、彼の精神状態は、生来的性格の方面と聾唖教育の方面とに欠陥がある。これら両者は相まって徳性の欠陥を増長させ、その結果、この稀有な犯罪を構成したと理解されると判断。  私たちは、彼の場合の聾唖に完全な責任能力を認めることは不適当と信ずる。心神耗弱を至当とすることを確信を持って答えたい、と鑑定は断じた。  裁判になってこの日が第3回公判。  廊下にまであふれた満員の一般傍聴席の中には、凶刃をあびた芸妓君龍こと川村正子さんをはじめ、魔手に倒れた遺族らの姿も見受けられた。  被告は劈頭(冒頭)前回の公判で言い渡した、生い立ちについて申し述べたいと希望し、約30分間に渡り、手まねも鮮やかに不具者としての半生を物語った。通訳には、東京聾唖学校教授が当たった。  次いで裁判長は被告の斉声状況を調べるため、通訳を通じ姓名、父、母、兄姉らを次々に問えば、被告は相当はっきりした発声を示して一同を驚かせた。  裁判長 一番うれしかったことは何か?  被 告 盲唖(聾唖)学校へ入学した時でした。  裁判長 一番悲しかったことは?  被 告 兄を殺した時でした。  裁判長 腹が立ったり残念だったことは?  被 告 父を殺したつもりだったのが生き返ったということを聞いた時でした。  はたして、どれほど「はっきりした発声」だったのか。公判ではその後、内村教授らの精神鑑定と耳鼻科医の鑑定が読み上げられた。  2月9日、求刑が報じらた。  井上検事は、被告を常人と看做(みな)し、特に尊属親殺害はわが国忠孝の本義に悖(もと)る(正義に反する)と論告。死刑を求刑した。  判決は同年2月23日、13時30分、浜松支部にて開廷され、沢村裁判長は不具者とは認めがたしと、求刑通り死刑の判決を下した。  しかし、被告は直ちに上告の手続きをとった。  最大のポイントだった被告の刑事責任能力の判断は精神鑑定に内容が載っている。鑑定結果は、心神耗弱者と信ずとの記述のみにては直ちに被告人を法律上の心神耗弱者なりと認むべき資料にならず。被告人の左耳はある程度の聴力を保有し、またその発音機能も簡単なる単語を発声し得るのみならず、本件犯行当時並びに現在において、被告人は相当の知識を習得し、記憶力よく、事物に対する具体的判断力十分なることを伺い得べく、かかる知能の発達は主として被告人の有する聴力及び発声機能の仲介に基づくものと言うべく、この点において、被告人の有する能力並びに発音機能の障害は、いまだこれをもって法律上の聾唖の程度に達せず、従って、被告人をもって聾唖者と断ずることを得ず、すなわち、弁護人の主張はいずれも採用し難し。  精神鑑定は、意味のないもとなった。  精神鑑定は、判決をこう批判している。  「これはあるいは戦時の影響もあってのことかと推測するが、しかし、理論上から、われわれはこの判決に大きな疑問を抱かざるを得ない。さらにこの判決にはまだ指摘するべき点がある。当時の刑法40条は「瘖唖(いんあ=聾唖)者の行為はこれを罰せず、またはその刑を減軽す、とし、刑の減免の対象だった(1995年削除)が、判決はその適用も明確に否定した。  それから事件は急速に忘れられていったようだ。  同年6月19日、上告棄却、死刑確定。  既にサイパン陥落、東条内閣総辞職が翌月に迫り、日一日と敗色が濃くなっていく。殺人以上に深刻な戦争の恐怖が地域を覆っていた。  同(1944)年7月24日、21歳を最期に刑場の露と消えた。  1941年。4月に始まった日米交渉は難航。関係は悪化の一途をたどり、最終的に12月、太平洋戦争が勃発する。そんな「戦争前夜」の8月から開戦を挟んだ約1年間、静岡県西部の遠州地域で4件の連続殺人事件が起きた。捜査は迷走したが、4件目の事件の捜査から3件目の被害者家族への疑いが浮上。六男が逮捕された。聴覚障害者で当時の刑法では刑の減免の対象だったが、裁判では「難聴者」として死刑判決。1カ月余後の1944年7月に慌ただしく処刑された。  この月、日本の「絶対国防圏」の一角だったサイパンが陥落。日本の敗色が日ごとに濃くなる。戦時下の犯罪は報道も制限されて知る人は少ない。  法はどこを向いているのか。被害者なのか加害者なのか。目には目を歯には歯を、と言う言葉がある。昔、実際にはあまり行われなかったが仇討と言う制度があった。  戦乱の後始末として、血族を絶やし、反旗の種を根絶やしにする方法がとられていた。今を観るか、将来の危機を防ぐか、立場によって被害の程は変わる。  人命は等しいとされる。しかし、法の下では等しくないのは事実だ。何人までなら有期刑。何人以上なら死刑。矛盾した論理が交差する。  精神異常者は減刑、刑を問わず。それは犯行を犯した者が罪の大きさを理解できないからと言う理由。無謀な欲求を達成した者でも、常軌を逸すれば推定無罪の矛盾。  法やルールは健全に暮らす者に与えられた最低限の砦。法やルールは守るためにある。守れない者には、それなりの贖罪があってもいい。個人であれ、国家間であれ、枠組みから外れた者への対処方法は甘いものではなく、辛口であるべきことを論じるべき時代ではないだろうか。  再犯、再発を防ぐには、犯した罪の大きさに気づかせることであり、反省と会心の足掛かりを与える事ではないのか。  一人を殺せば罪悪人。百人を殺せば英雄。そのような時代は、是非とも避けたいものだ。
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