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私が山部美和と仲良くなったのは、入学式の日に彼女が後ろから声をかけてくれたのがきっかけだった。たまたま席順が前後していて、たまたま美和が一番後ろの席で話し相手が私しかいなかった。それだけの偶然。
地味で手芸オタクで人見知りな私に対して、美和は明るくてかわいくておしゃれで、クラスの女子男子関わらずにおしゃべりできる人気者だった。
色素の薄いふわふわのハニーブラウンの髪に垂れ目がちな瞳には先生にバレないようこっそりアイラインを描き足して。ちょっとだけ丸顔なのがコンプレックスのかわいい女の子。
だけど教室では私たちはずっと二人でいた。私は手芸部の友だちが、美和はESS部の友だちが同じクラスにいたのにも関わらずだ。
私は美和には到底理解できないだろうハンドメイドの話を我慢せずにしたし、美和だって私にはちんぷんかんぷんな流行りのファッションの話をマシンガンのようにしてきた。分からないのはお互い様、だけど不思議と気があって全然退屈しなかった。
その日見た夢の話や、知ったかぶりなニュースの話をあられもない方向で膨らませて、学校の帰り道にこっそり買い食いもしたし、おもしろい顔の犬を二人で見に行って笑って、飼い主に怒られそうになって走って逃げてまた笑い合った。
でも、卒業後の進路が別々になることを私はちっとも悲しく思わなかった。人は新しい舞台に上がる度に、以前の舞台のことは忘れてしまう。慣れている。美和も何も言わないから、そういうものなのだと思っていた。
卒園式を数日後に控えた昼休み、窓際の席で風に翻るカーテンに隠れるように美和が囁いた。
「ねぇ、プレゼント交換しようよ」
「美和の誕生日もう終わったじゃん」
「ちっがーう。卒業式記念。二人でお互いをイメージしたプレゼント用意するの。茉莉の思い出に残りたいなぁ、私」
「わぁめんどうな彼女みたい」「やるのやらないのどっち」「んー、やる」
そうこなくっちゃ。その言葉を言うまで、言った後も美和の視線はなぜかずっと外のグラウンドに注がれていた。クラスの男子がサッカーをしている、こちらに気付いた一人が大きく手を振って、美和は小さく振り返した。なんだ、そういう相手いるじゃない。
私はハンドメイドの指輪を送った。美和のハニーブラウンの髪色によく似合う乳白色の小花のビーズに囲まれた琥珀色のクリスタル。
ジュエリーケースに入れられたら良かったのだろうけど、残念ながら高校生にはお小遣いという名の予算があった。スポンジを敷いた小さなアクリルケースに入れて、彼女の好きな苺柄のプレゼント袋に入れた。
想像の中の美和はいつものように垂れ目がちな瞳をキラキラさせて、やばーいさっすが茉莉、やるじゃん! と騒いでいた。
でも、彼女は静かだった。
じっと目を細めてとても満足そうな笑みを浮かべる。頬が赤い。まるで壊れ物を扱うように指輪に触れた。
「……そっか」
その言葉の意味は分からなかった。ただ初めて見る彼女の表情に、私は不覚にも心臓を大きく跳ねさせた。
思い出になればいいと、柄にもなく願った。
「そこからまさか二連続で驚かされるとは思いもしませんでしたよ、はい」
「ほほう?」
「グラウンドで手を振ってた男子が美和に告白するのをうっかり見ちゃいまして。しかも美和泣いて喜んでるのね。クラスじゃあの子の友だちが良かったねぇ、前からそろそろかもって言ってたもんねぇとか言って。え、私聞いてませんでしたけどみたいな」
「あちゃー」
「あの指輪、他の人の手に渡った」
――お願い、私がこれを持ってちゃダメなの……!
悲痛な叫び声だった。
その声を耳にしたのは卒業式の後だった。
最後のホームルームが終わった後、私と美和はそれぞれの部活動に顔を出し後で落ち合うことを約束していた。彼氏に悪いんじゃないのいいのいいの別になんて言いながら。
美和を探しに一階で別棟を繋ぐ渡り廊下を歩いている時に、聞こえてきた。
私は導かれるように上履きのまま裏庭へと降りた。
美和だった。
黒檀のように美しい長い黒髪の誰かに、苺柄のプレゼント袋を押し付けていた。
――私じゃ、ダメなの。
なにが? なんで? でも、そっか。いいや別に。どうせ明日から他人なんだもの。今までと同じ。子ども頃から、ずっと。
「結局一緒に帰らなかった。もしかしたら、現場を見ていたの美和にバレたのかも。それから八年間、メールも送らず……なぜか招待状が届いた」
「ねぇ、その黒髪の人って?」
瞳を伏せシーツの皺を視線でなぞる。ほとんど喋ったことがないのに、はっきりと思い出せる人。
「……雪園さん。美和と同じESS部の人でした。すごく美人な人で、確か老舗の和菓子屋さんのご令嬢だったかな……サバサバしていてそれが全然鼻につかなくてすごく親切で、でも誰かとずっと一緒にいるわけじゃなくて……集団の中で一人でも平気な人」
「あぁ……美和さんと仲良かったんですね」
「多分、そうだったんだと思います……」
美和と雪園さんが一緒にいる姿を時々見ることがあった。きれいな雪園さんとかわいい美和が並んでいるとなんだか近づいてはいけない気がして、遠目に見るようにしていた。すぐに美和が気付いて駆け寄ってくれて、それが私は嬉しかった。
雪園さんと私は同じクラスになったことがなく、まともに会話をしたのは一度きりだった。先生に伝言を頼まれ声をかけた程度。彼女は初めて話しかける目も合わさない私にからりとした笑顔を向けてくれた。
あぁ、そうだ。花の香り。椅子から立ち上がった彼女からふわりと香った甘い香りに、なんだかすごく良い印象を抱いたのだ。
ふいにギシリとベッドが軋む。アカリさんがベッドの淵に腰かけた。ついと白くしなやかな手が伸ばされる。シーツの上に散らばった私の髪を指先で撫で、一房摘まみ上げた。彼女の指先、グラデーショがかったブラウン単色のネイル。かわいらしいのだけれど、彼女の派手な服装と比べるとシンプル過ぎる。
「おさわり厳禁でしょ?」
「えぇ、だから二人だけの秘密です」
「録音されてる」
「あはっ、これは会話を楽しんでるだけですからね。よしこれで大丈夫、なんてね」
アカリさんは髪を辿るように私の瞳を見る。艶っぽい唇がきゅっと口角を上げた。あぁ、髪に触感があれば良かったのに。私は布団の中の手を一度もぞりと動かし、そのまま固まった。
「細くて潤いのあるきれいな髪。すごくよく手入れされてるのですね」
「顔がだめでも髪はどうにかなりますから」
「そう? あたし、あなたのそばかす好きよ?」
「私もアカリさんの髪好きです」
「やだー両想い。全盛期のレオ様みたいでしょ?」「『来る』っていう映画に出てませんでした?」「あたしに姉はいません」
「髪だけじゃなくて……その姿もすごく素敵です。自信満々で、格好良い……」
「ふふふ、ありがとうございます。プライベートはいつもこれなの。仕事じゃあなたが初めてよ」
「ずっるい……」
本当、ずるい人。
恋をしているみたいにドキドキする。でもそれ以上に、私はアカリさんがすぐ傍にいてくれるこの空気がすごく居心地ち良く感じた。ハンドメイド仲間たちと一緒に作業に勤しむときや、今までの彼女たちと過ごした時間とはまた違う、息のしやすさ。
美和と過ごした三年間も、呼吸がしやすかった。
段々悲しくなってきて、私は掛け布団を頭からがぶりと被る。目の端でアカリさんがきょとんとしたのがちらりと見えた。
「私が女性が好きだと気付いたのは大学生のときでした。どの子もみんな良い人ばかりでしたけど幸せな時間は、あまり長く続きませんでした。初めてのときにね、余韻に浸る中で思い出したんです」
「何を?」
「美和のこと」
隣で眠る女の子は、はちみつみたいな長い髪がかわいくて、無邪気で、少しだけ美和に似ていた。
「やっと初恋だったと気づきました」
自然と喉元から何かがせり上がってくる。鼻の奥がつんと痛くて、顔が歪む。
「私、メール欲しかったな」
またベッドが軋む。今度はもっとずっと重く。身体も重たくなって、掛け布団越しにそのぬくもりの正体に気付いた瞬間私の中でぱっと何かが弾けた。
「指輪なんてどうでもいいから、ただメールが欲しかった。卒業しても会いたかった。新しい舞台に上がっても友だちでいてほしかった……きっと、そうしたら初恋だったなんて気づかずにすんだのに。招待状で美和の名前を見た瞬間、笑ったの、高校生の、美和が……披露宴なんて、行きたくない……!」
足元が波にすくわれる。どんどん高さを増していき、身動きがとれなくなった私はあっという間に溺れてしまう。
でもそれはもう高校生の私じゃない。
頭の上から声がした。
「ねぇ、三倉さんは一体何が嫌なの?」
美和が結婚すること? 新郎に嫉妬してる? ううん、違うの。美和の恋人になりたいんじゃないの。恋はすでに終わってる。指輪のことなんて別にいい。だってもう私と美和は、
「他人なんだもの……」
八年は、あまりにも長すぎた。
私は手芸店で勤務する社会人になった。一度だけ高校の手芸部仲間だった子たちから再会しようとメールが来たことがある。すごく嬉しかった。でも居酒屋にいたみんなはもう、あの頃のみんなじゃなかった。当たり前だ、私は自分から連絡を取らなかった。みんながもう手芸じゃなくて新しい趣味を見つけても、そいつは私とは無関係。私がいまだにハンドメイドに狂っていても、みんなにはただ好きなことをやれている物珍しい生き物だった。
美和は?
二十六歳の美和を私は知らない。私たちの間にはもう何もない。高校生の時のように、ちぐはぐな間柄でも笑っていられる自信がない。それどころか、みんなと同じように興味のない曖昧な笑みを浮かべるかもしれない。嘘だ、美和はそんな子じゃない。でももう八年も経った。私だって考え方が変わった。
「美和はもう知らない誰かになってる! 怖いよ、傷つくのが怖いよ……違う、違うのアカリさん、まだ子どもみたいな私を笑うかもって……自分勝手な被害妄想ばっか膨らませて勝手に僻んで! 確かめもしないで美和のせいにして……」
忘れられていることに、興味を持たれないことに、高校時代とほとんど変わっていない私を馬鹿にされることに私は怯えている。
あの頃の美和はそんなことしなかった。
でも招待された理由が分からないこともありそう考え続けてしまった。いつの間にか思い出の美和は消えてしまいまだ見ぬ新婦は心のないひどい人になっていた。きっと手芸部のみんなと同じで違う世界の人間みたいに扱われるって、つまらないことばかり言う面白くない人だって。
私は自分が作りだした言葉の海で、勝手に溺れていただけだ。
「醜い私が大嫌い……」
じわりと浮かび始めた涙をそっと拭うとそれ以上目頭が熱くなることはなかった。
「初恋を拗らせていた方がまだマシだったのかな、結婚する美和を見たくないとか、好きになってほしいとか。初恋だったけど、もうそんなこと思ってないんです。……こんな私を見せるのが嫌だから、披露宴行きなくない」
アカリさんからの返事はなかった。もしかするとずっと感じていた重さも気のせいなのかもしれない。私がせめて彼女だけは味方であってほしいという願望が作りだした幻。
ごめんなさい。本当はもっと楽しい話をして、会って良かったって思ってもらいたかったのに。
「普通のことですよ三倉さん、永遠なんてないんです」
それでも彼女は真剣で。
「でも、三倉さんは悲しかったんですね。勝手に理想を作って、勝手に敵を作って、会わない時間の長さの分だけ苦しめてくるなら会わない選択もできた。大人になるって、きっとそういうことだと思います。あたしもね、そうですから。……えらいですね、三倉さん」
いつもより静かな声で、とうとうと私を慰める。言葉の雫が一つ一つと私の洪水へと落ちていく。あぁ、格好良いな。
「アカリさんも? ……いいな、羨ましい。私からメールする勇気があれば、明日はもっと楽しい日になったのかな」
「自分から友だちとの絆を大切にしようとする三倉さんだったら、きっとあたしたち出会ってませんでしたね」
「ふふ、ひどぉい……。アカリさんを初指名するときも、変な奴がリピーターになったって思われたらやだなって……」
「もう自信ないんだから。嬉しかったですよ、本当に」
「そういうとこもずるいですね。ありがとうございます、アカリさん……」
彼女の声が好き。まるで子守歌みたい。
きっとアカリさんとの関係もこれが最後になるだろう。私はあまりにも嫌な姿をさらしてしまった。挽回する勇気なんてないから、またどこか別の場所で新しい相手を見つけるだけだ。美和のように。そしてまた後悔して。
でも、やだな。もっと一緒にいたいな。勇気が、欲しい。あーまたぐるぐるしてる。本当やな大人になっちゃったな。
泣きつかれた子どものように、気が付けば私は意識を手放していた。
「大丈夫、明日は良い日にしてみせます……あたしがいますから」
「嬉しかったな、醜い姿見せてもらえて」
「……寝ちゃいました? もー三倉さんはいつもそうなんだから」
「おやすみなさい、良い夢を。……三倉…茉莉さん」
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