7人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
1
1
羽鳥七生は、この人が苦手だ。
「今回はついに一位独走状態やね。俺も鼻が高いわ、お疲れさん」
耳が溶けてしまうほどの甘い声音、体面なら鼓膜に届くまで距離があるのに、電話となると直に響く。喫茶店にいるのだろうか、雰囲気のよいジャズミュージックと微かな談笑の声がする。
せめてこのむずがゆい気持ちを気取られないよう、眉間に皺を寄せて羽鳥は固い声を絞り出す。
「ありがとうございます、大国さん」
「ええよ」
ご機嫌な返事。まるで羽鳥の様子が手に取るように分かるみたいで、きっと目を細めて笑っているのだろう。大国は羽鳥が苦い表情を浮かべれば浮かべるほど大喜びする。
あかとほし出版オンライン小説サイトのティーンズラブ部門ランキングは、羽鳥も今朝確認したばかりだった。
常に上位にランクインし出版業績も安定した売り上げを誇る作家『堂島はるか』の、先日公開された『こんなの秘書の仕事じゃありません!』は他の作家と圧倒的ブックマーク数で差をつけて堂々の一位に輝いた。
ティーンズラブジャンルはここ数年のオンライン発出版ブームに便乗し、オンライン上はもちろん紙媒体でも好調な売り上げを見せ女性向けライトノベル業界の花形に名乗りでようとしている。
ジャンル全体に火がついて盛り上がる要因の一つは、オンライン上で数多の作品を気軽に読めるということ。プロのみならず個人が楽しく投稿サイト、果てはSNSなど作品数は星の数ほどある。
そのため、人気と地位を持続するには並大抵の努力では成しえない。
一度頂点に上り詰めたからと言って安定した収入を手に入れられるほど甘くはなく、すぐに『新しい作家』がその座を奪いにくるのだ。
羽鳥とて作家業はまだまだ副業であり、今も会社のデスクからこっそり抜け出し非常階段の踊り場で会話していた。
ティーンズラブ小説で専業作家になるには夢のまた夢。
今の羽鳥には『堂島はるか』の名を最後まで落とさずにいることで精一杯だった。
「あんまり嬉しそうやない声やね?」
あなたのそのはちみつのような声が苦手なんです、なんて言う勇気はない。低く落ち着いたバリトンにまろい雰囲気を持たせる関西弁で、砂糖菓子みたいな声音は特別な人に向けてほしい。
きっと大国はそれすらも分かっているのだろう。
「嬉しいですよ。だって今回の兎澤さんのプロット、久しぶりに高慢な女の子が主人公だったんで僕も力入れて書きましたから。キャラが濃い方が盛り上がりやすいんでしょうかね? 新作に寄せられたコメントもすごく楽しく拝見しました」
「せやね。最近は健気で切ないのが続いたから肩の力抜いて読めたんも良かったんやろなぁ。羽鳥くんコメディ調苦手やったのに今回はよお書けとったわ」
「え、え本当ですか? …えへ、えへへへへ」
なんやのその笑い方、と大国が喉の奥で笑う。
きっとあの細い眉をほんの僅かに八の字に曲げて、くすぐったそうな笑みを浮かべているのだろう。
大国は日本人離れした長身と引き締まった体格、そして誰もが振り向く猛禽類のような険しくも美しい顔だちと申し分のない容姿をしている。
しかし完璧すぎるせいか、面構えが凶悪だからか、それとも服装が派手だからか、初対面の際にこちらに向かってやってくる大国に、羽鳥は物覚えのない借金の取り立てにあうのだと心底怯えた。
会話してみれば案外悪い人ではない、標準語に一切染まらないマイペースな関西弁が思いの外まろい印象を与えてくれた。
喋り方だけではない。編集者の大国はもう嫌だ解放されたいと執筆に思い悩む羽鳥を優しい言葉で励まし、兎澤と喧嘩しそうものなら両成敗にはせ参じ言い合いでぼこぼこにされた羽鳥を𠮟咤激励するなどそれはよく面倒を見てくれていた。
きっと大国が担当ではなければ、責任の重さに負けてせっかく与えられたチャンスを放り投げていたことだろう。気づけばいつも傍にくれた、羽鳥にとってはかけがえない存在だった。
そんな人がいつからか、羽鳥に向ける眼差しも声音も、まるで愛しい恋人に与えるようにやわらかくする。
他の作家にも同じように接しているのか全く分からない分、どうしていいか分からな。
自分だけが特別なのか、それとも誰にでも行っているのか。口説かれているようでむずがゆい、しかし勘違いだったならもう彼の前に立てなくなってしまう。
もう三年も経っているのに、あなたから向けらられる優しさが苦手なんです。
「兎澤もう次のプロットの全体像出来上がってる言うてたわ。ごっつい片想いしてる子が相手振り向かせるために奮闘するんやて。羽鳥くん、こういういじらしい話好きやろ?」
「わぁ良いですねぇ。僕、ヒロインが感情を持て余しながら頑張る話大好きなんですよ。自分でもどうにもならない衝動を必死に形にして、頑張る姿がかわい……」
ふいに羽鳥の背後でガチャリと非常階段の重たいドアの開く音がする。羽鳥は身体を固くさせ慌てて口を噤んだ。見れば同じようにスマホを耳に傾けた同僚で、このスペースがもう満席であると気づいた同僚は軽く会釈をして去っていった。
「難儀やね」
「だ、だって男がする会話じゃないでしょう……」
「そう? ほな俺は君とないしょ話できる数少ない男か。光栄やな」
さらりと言ってのける距離の近い言葉に思わず頬が赤くなる。
恋愛作品や可愛いものが大好きで、増してや濡れ場すらあるティーンズラブ小説を執筆していることは親や友人にすら打ち明けたことがない。
いいや、打ち明けられないのだ。
「君が兎澤の幽霊になってもう丸三年か……」
ぽつりと呟かれた言葉に、軽く心臓が嫌な音を立てる。
そうだこの人にときめいて翻弄されている場合じゃない。羽鳥は一度、唇を固く引き結ぶ。
「……こんなに長い間書かせてもらえて僕も嬉しいです。あの、この間読ませていただいたファンレター……三年も『堂島はるか』をしていたら、ときどきだけどお手紙をくれるファンの人の名前も覚えちゃって。でも僕じゃないからどうしようもできないし、もし僕が幽霊じゃなかったら……」
表に出たい、もっと書きたい、自分の作品で、認められたい。
それ以上続けることができなかった。
言ってしまえば自分の欲望を認めることになる。ただの幽霊がおこがましい。幽霊としかやっていけないと昔散々言われたのに。
自分と向き合うには、羽鳥はもう大人になり過ぎていた。
好きでいてくれる人に知られる前に、もうただの人間に戻りたい。
「……羽鳥くんは、えらいね」
心のこもった優しい声。
大国に晒してしまえば彼は失望するだろうか。嫌いになるだろうか。
幽霊は決して、表舞台で主人公になってはいけないのだから。
「困ったことがあればいつでもいいや、なんでも、どんなときでも聞くよ」
「……ありがとうございます」
羽鳥は長い溜息を吐き、薄汚れた白壁に背を預けてその場に崩れながら座り込んだ。
ティーンズラブ作家『堂島はるか』のゴーストライターとなって約三年、羽鳥はもう、幽霊であり続ける自信が薄れていた。
喫茶店の窓際カウンターに、黒地に臙脂色のストライプ柄のスリーピーススーツを着こなす男が一人。
艶めいた黒髪に逞しい身体に持て余す長い脚、険しくも思わず見惚れてしまうほど切れ味のある色気の持ち主はチェーン展開の喫茶店に似つかわしく、堅気にも見えないため不思議とその席周辺は空いていた。
しかし彼がスマホで通話する姿を見れば誰しもが考えを改めるだろう。
絵本を読んでくれる母親のように優しくあたたかな声音にそれを助長する関西弁、なにより電話の向こうの相手へ向けられた甘く愛し気な微笑みは多くの人の心をとろけさせるだろう。
なのに、その表情が一瞬にして曇っていく。
通話が終わりすっかり冷めてしまったコーヒーのマグを傾ける。さっぱりとした苦みはしかし大国の心の靄を晴らすことはできない。
年若い幽霊作家が承認欲求に苛まれ辞めたがっている。
長く武骨な十の指を絡めて額を乗せる。さぁどうしたものか、いつものように励ましても、一度生まれてしまった欲望は理性の下でいつまでも燻り続けるだろう。むしろよく三年間も持ったものだ。
『堂島はるか』があかとほしオンラインで連載を始めたのは五年前、ティーンズラブジャンルが書籍媒体での地位を確立させ、オンライン媒体が活発化し始めた名を売り出すには最適な時期だった。
メインストーリーは真っ当な王道少女漫画の展開。しかし専門職がらみのお仕事小説っぽさがあり、明るく読みやすい文章ながら男女の心情の機微を丁寧に描くことで読者を陶酔させ没頭させるのがうまい。
逆に塗れ場では心情を抑え、五感の全てを通していやらしくも下品ではない、官能的で人を愛に酔わせる魅せ方をしている。『堂島はるか』は二十代後半の読者を中心にあっという間に評判となった。
技巧の上手さがすでに確立しているのは、ペンネーム『堂島はるか』こと兎澤緑郎があかとほし出版一般文芸部門のベテラン作家だから。
大人の恋愛事情の現実を本名で執筆する兎澤はいくつも文学賞を受賞しながら、周囲に固定された作風に飽きていた。
たまにはベッタベタでエロエロなエンタメ恋愛ものが書きたいんだよと大騒ぎし、しかし今の作風を崩し古参ファンを失うにはあまりにも危険であるとされ、代わりに生まれたのがティーンズラ作家『堂島はるか』であった。ようは兎澤のストレス発散用ペンネームである。
しかしというかやはりというか、マイペースに活動したかったのに『堂島はるか』でも人気が出てしまい、兎澤の執筆業は火の車。逆にストレスが溜まり、忙しすぎてどちらもおざなりになるのは贅沢ながら死活問題だった。
時折兎澤本人が執筆する他はプロット作成のみを行い、後はゴーストライターに任せる。そこで選ばれたのが、当時子会社が運営していた小説スクールの生徒であった羽鳥である。
文豪の文体を真似て作品を作るというスクール課題が異様に上手く、しかしそこから抜け出せなかった彼は腕があるのにセンスのない劣等生だった。少女漫画好きで本人も恋愛小説家を目指していたこともあり羽鳥を幽霊として抜擢した。
彼は期待以上の執筆をしてくれた。『堂島はるか』の文章や物語の流れの癖を完璧に踏襲してみせたのだった。
――まぁなにより、あの真面目で健気なとこが買われたんやけどな。
三年前、小説スクールの教室に羽鳥を迎えにいった日のことを大国はまるで昨日のように思い出せる。
理由も分からず一人教室に居残りさせられた羽鳥は、現れた大国を見るなりその黒目がちな瞳を思い切り泳がせ身体を硬直させた。
夏の盛りの頃だった、黒とピンクのストライプ柄の開襟シャツから覗く筋肉質な太い腕、気まぐれにかけたサングラスがよく似合う俺。
よくヤクザと間違えられる大国が冷や汗をだらだら流す羽鳥に失笑すれば、彼のただでさえ白い肌はさらに青くなった。
大国からすれば小さく、決してか弱そうには見えないが頼りがいのない中肉中背の二十代半ばの青年。さらさらのダークブラウンの髪が冷や汗のせいで肌に張り付き、一向に交わらない視線が可哀想でもあり、小動物のようで可愛くもあった。
人気作家の看板を背負い込ませるのはこの子には荷が重いな。そう思わせた。
しかしゴーストライターの話を持ち掛ければ、彼はパッと表情を輝かせ大国の瞳をまっすぐに見つめた。
――僕、僕まだ書いてもいいんですか?
真似ばかりが上手くてオリジナリティがないと評価され続けた青年が聞く。
――俺は好きよ、君の個性。
自然とそんな言葉を投げかけていた。
ありがとうございます、と泣き出した彼がいっそう可愛くて言ってよかったと思った。いっぱい書いてほしいから迎えにいったのだ、その日はつい調子に乗って、もう必要ないのに彼がスクールで提出した小説の添削まで行った。
それから三年間、文句も言わず……いや、兎澤から作品の相談をされ意見の相違が発生し喧嘩もあったが、そのときでも自分のアイディアを言うことはせず、いつだって兎澤のプロットを引き立てられるようベストを尽くしてきた。
人の心を持たない言葉のプロに言い負かされ涙と鼻水を垂れ流し大声をあげて泣きついてきた姿は大変面白可愛かった。後になって涙で布団を濡らされるよりもずっといい清々しさがあり庇護欲を掻き立てられた。
どれだけ『堂島はるか』の人気が高まっても羽鳥は表に出ることは許されない。彼は兎澤のプロットがあってこそだと謙虚な姿勢を崩すことをしなかった。兎澤がすでに本業で顔出しをしているため、『堂島はるか』名義では顔出しもインタビューを受けることすらしない覆面作家であったことも功を奏したのだろう。
顔を合わせる度に見せている笑顔が子犬のように可愛くて、警戒心が徐々に解けていく様に大国も嬉しくなった。
承認欲求を持つことは当たり前のことだ。よく今まで我慢してくれていたと思う。
ここを乗り越えれば羽鳥はもっと長く幽霊でい続けられるだろう。
それとももう、羽ばたく時期か。
大国の中で羽鳥はゴーストライター以外の価値を持っていた。
しかし編集者が守るべきは、作家だ。
「……気乗りせぇへんなぁ」
小さな呟きが、すとんと心の奥底に収まるのを感じた。
あの頃は『堂島はるか』とは違う作風だった。
今のあの子は、いったいどんな物語を描くのだろう。
数分後、大国は兎澤からの連絡を受けて思いっきり眉間に皺を寄せるのであった。
最初のコメントを投稿しよう!