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2  大国が堅気には見えない派手さを持つ男とすれば、兎澤緑郎は一見どこにでもいる優男なのだが、どうしてか女性の跡は絶えない。  羽鳥と似通った身長と体形で、ふわふわとあちこちに跳ねるハニーブラウンの髪に眦の下がった瞳と泣き黒子、海外の血を思わせる甘いマスクの顔立ちといたって穏やかな雰囲気を持ち合わせている。  独身貴族であるが恋愛経験は非常に豊富。少し気だるげな表情で写る純文学風恋愛小説家の著者近影のファンも多く、彼の才能と魅力に嫉妬し僻む者の数もまた同じ。  さて、冬の日はとても短い。夕食の時間帯にはもう夜はその濃さを増している。羽鳥と大国、そして兎澤の三人はあかとほし出版社の小会議室で三者面談を行っていた。  退勤後のためノーブランドのくたびれたスーツに身を包みおどおどと不安げな表情の羽鳥の横に、腕を組んで口を真一文字に引き結ぶ大国、そう大きくはないテーブルを挟んで兎澤はいつものようにマイペースさを思わせる笑みを浮かべている。  これが次回作やこれからの方針を決める会議ならどれだけいいか。 非常に重苦しい空気が漂う中、羽鳥はちらりと兎澤を見やる。ぱちりと視線が重なり、彼は穏やかに目を細める。ギクリと羽鳥は固まった。 「早く帰りたそうだねぇ羽鳥くん」 「ちちっち違いますよ!」 「本当? そのわりには何回も時計やドアの方向見てるけど、目は口ほどに物を言うって昔から」 「あなたの方向にそれらがあるからでしょう……!?」  大国と違う意味で兎澤のことが苦手なのは、いつだって彼が小さな針でチクチクと刺してくるからだ。 「あーやかましい。はよ本題に入るで。羽鳥くんの契約を打ち切るってほんまか? 兎澤」  普段より一段低い声に、これが夢ではないのだと知らされる。「もちろん」と言う兎澤から、羽鳥は目をそらした。 「理由は?」 「三年も楽させてもらった。そろそろ自分の名前を大事にすべきかと思ってさ。でないと俺の席がなくなっちゃうでしょ」  あぁ、知られているんだ。  僕が幽霊でいられなくなりそうなことを、僕が『堂島はるか』の一部のなんだよと、叫びそうになっていることを。  この三年間で培われた承認欲求を遠回しに、しかしはっきりと否定される。 「この間、『堂島はるか』としてのインタビューを受ける言うてたやろ。顔出しも行っていくのにゴーストの起用が足枷になる思たんか」  初耳だった。当然だ、作家がゴーストライターに何もかも打ち明ける必要はない。 「僕じゃあもうお力にはなれませんか……?」 「いいや?」  意味ありげは兎澤は目を細める。正面から羽鳥をはっきりと見据えた。 「君は俺のやりたいことをよく理解して十分に『堂島はるか』の作品を書いてくれたよ。でも俺が表に出ることで君はもっと物足りなくなる」 「ぼ、僕は表に出るつもりは……」 「俺もだよ」 「え?」 「俺だってもっと書きたくなる。『同じ作家』として、承認欲求以上に作家を掻き立てるのは、執筆意欲さ」  売れれば売れるほど、認めてほしくなる。一度認められれば、もっと書きたくなる。その上で認められることなどどうでもよくなって、ただただ脳の中を晒して書き続けたくなる。  ゴーストの存在が兎澤の意欲を促した。  幽霊が生み出した人気に便乗するように聞こえるかもしれないが、日々冴えわたっていく彼のプロットを読み執筆し続けた羽鳥にはその感情の高ぶりが容易に想像できた。  兎澤は羽鳥の第一稿を読み終える度に、俺の作品だと少し嬉しそうに言ってくれる。それで安心していた。満足していた。  その笑みの裏でずっと、彼は自分の手で書きたがっていたのだ。 「誇りに思いなよ羽鳥くん。君が俺をその気にさせたんだからさ」 「……ありがとう、ございます…」  この人も、僕と同じだったんだ。  そう思うと今にも崩れそうだった足元は、徐々に安定していくのを感じる。 「契約は二か月後の三月末まで。前に伝えた通り、中編を一本書いてほしい。それが君の最後の仕事」 「僕の……最後の仕事」  羽鳥好みの設定だと期待していたあのプロットが、幽霊として最後の作品になる。  受け入れないと。自分から醜い部分を晒す前に向こうから手放してくれたのだから。もう大人なのだ、才能がない青年に素晴らしい夢を見せてくれた。もっと書きたかった、あなたみたいになりたかったなんて、本当のことを言ってはいけない。  羽鳥は、ちらりと大国に目を向ける。彼は押し黙ったままだ。  何も言わないのは、何も言えないから。羽鳥を擁護するわけでも説き伏せるわけでもない彼の態度に、縋ることもできない。  そうか、僕はこの人ともお別れになるのか。  込み上げてくる感情にとうとう羽鳥は鼻をズルズル鳴らす。 「兎澤さん、大国さん、いっ、今まで、おぉ、お、お世話になりましたぁ」 「うんうん、君の青春はこれからだからね。これからは悪い大人に利用されずに自分を大事にするんだよ」 「はぁい……うっうぅッ」  真横で大きな舌打ちが鳴った。 「飛躍したい言うなら俺はお前の本業なぞ気にせず仕事させるが構わんのか」 「もちろん。向こうはこの三年で新しいペースを定着させたから。あぁそうそう、ただね羽鳥くん、ごめんだけど君には最後に思いっきり飛んでほしいんだよねぇ」 「はあい?」  兎澤はニッコリと笑った。 「『堂島はるか』へのインタビューと本業へのインタビューが被っちゃった。変わってよ、羽鳥くん」  一瞬、何を言われているのか分からなかった。 「お前なぁ、やけに真面目な場設ける思たらそれが本題か!」 「うん!」 「なにがうんや! ハァーッほんまお前は人の心がない」 「えぇ、失敬な。俺ほど優しい男はいないよ。なんせまだ顔出し段階じゃないから、被り物付けての登場を約束させてるからね。三月の末、冥途の土産にいい思い出作らせてあげるよぉ」 「クソ野郎……」  飄々とする兎澤と説教をする大国をよそに、羽鳥は思考の海に浸っていた。  僕が、公の場で『堂島はるか』になる?  そんなことが許されるのだろうか。この三年間、ファンを裏切っているのではないかと悩むこともあった。  このインタビューは、『堂島はるか』が被り物をしていると言えど、人前に初めて登場する記念すべき取材である。『堂島はるか』の正体が男であると知られる、彼女――彼の今後の人気を左右する最も大事な……。  上手く答えられるのか? いや兎澤のこと、予め質問への答えを用意するだろう。『堂島はるか』だけじゃない、兎澤の仕草や雰囲気だって真似する必要がある。つまりそれは、僕じゃない。いやでも僕で、その瞬間は『堂島はるか』で、兎澤緑郎で、じゃあ答える僕は、僕は……。  でもそんなことしたら僕はまた、『堂島はるか』になりたくなってしまうんじゃないか?  思考の海は重く粘つき、羽鳥はコールタールの沼に身体を静めていく。  ぼんやりと中空を見つめる羽鳥に、兎澤は深く口角を吊り上げる。 「良い返事を期待してるよ、羽鳥くん」  兎澤が去った会議室で、羽鳥は隣に並ぶ大国の方向へ向いて座りなおす。  差し出されたハンカチにパッと顔を上げれば、大国は先ほどとは打って変わってバツの悪そうな表情を浮かべていた。  それだけで少し救われる。  本当に苦手なんですあなたのこと。 「大国さんは優しいですね」 「……どこがやねん。俺は酷い男よ、いつだって仕事と利益優先や」  羽鳥はハンカチを受け取らず、自信の指で涙を拭う。 あのね、と羽鳥は切り出そうとした。だが、 「インタビュー受けるんや、羽鳥くん」  大国が強くはっきりと言った。 「受けてあの人の皮を被った悪魔に目に物見せてやれ。『堂島はるか』のハードルをあげてやれ。そうして契約未更新の後悔をさせてやればえぇんや。君を手放すことが悪いんじゃない、君を手玉に取ることが悪いんや。三年間作品を作り続けた君の言葉で……」 「でもそれは、『堂島はるか』じゃない。……そうでしょ? 大国さん」  精一杯優しく微笑めば、大国が羽鳥の代わりに傷ついたような顔をする。  長く深い溜息とともに、大国が大きな背中を小さく丸めて俯いていく。 「短気な性格をなんとかしたい」 「短気じゃなくて世話焼きさんだと思いますよ。大国さんはいつだってお世話を焼いてくれたじゃないですか。兎澤さんに会いに行くときは、ずっとついてきてくれて」 「……あんな奴に君一人で会いに行かせられるかい」 「兎澤さんは実はいい人ですよ?インタビューも、最後のプロットだって僕好みなんて……兎澤さんなりの最後のプレゼントなのかなって思いましたから」  何かを言いかけてやめる、大国は羽鳥の言葉を待った。 「『堂島はるか』の仕事が好きです、あんなに素晴らしいプロットで書ける僕は幸せ者だって。幽霊にしてくれなかったら、僕はただのサラリーマン。何者にもなれなかった」  自分を持たず、模倣ばかりがうまくって。 「書くことも、叶わなかった」  一度、羽鳥は大きく深呼吸をした。 「だから、ずっと『堂島はるか』でいたいって思っちゃったから、だからこれでいいんです。大国さんだって、僕がゴーストライターを辞めたがっていたことに薄々気付いていたんですよね?」  夢は十分見させてもらえた。  大国はその大きな手を羽鳥の肩に伸ばした。伸ばして、躊躇する。  それでいいんです、今触れられたら僕はもっとひどくなる。 「……僕、インタビュー受けます。最後の仕事として、兎澤さんに引き継ぎます」 「俺は君が良い子過ぎてちょっと心配よ」 「……ふふ、兎澤さんみたいになった方がいいですか?」 「やめとき、友だちなくすで」 「春になったら、大国さんとも会えなくなっちゃんですね」 「……せやね」  いつもは慰めてくれる彼が、今夜に限ってもう何も言ってくれなかった。 「すみません、お昼外でとってきます」 近くのデスクに座る同僚が少し驚いた様子でいってらっしゃいと言った。無理もない、羽鳥の目の下には濃い隈がはっきりと浮かんでいた。 一月末、真冬の外は日中でも身を凍えさせる。会社近所にある公園のいくつかのベンチの中で、ちょうど空っぽのものがあったので羽鳥はだるさを感じる身体でなんとか座った。 昼食は補給用ゼリーのみ。それも勢いよく吸いとる気力がないので、少しずつ口に含む。食欲もないので二三口食べられたらもう満腹だった。  原稿が、進まない。  目頭を押さえてため息を吐く。今までも筆が進まず〆切ギリギリになりそうなこともあったが、ここまで気の乗らない執筆は初めてだった。  プロットはある。会社の上司に恋をしてしまった女性が、諦めないとと自分に言い聞かせながらも衝動を抑えきれずつい彼にアプローチをしてしまう、なんともいじらしいお話だ。羽鳥は『堂島はるか』作品の中でも、今回のように激しく感情が表立つ展開を気に入っていた。  兎澤から下りてくるプロットは、章ごとにあらすじと力を入れるべき展開、さらには心情や人間関係の動きを詳細に記してくれている。文体の癖に気を付けなければならない反面、ほとんど作品として出来上がっているプロットは大変ありがたかった。  小説スクール生時代よりも執筆能力は格段にあがっている自覚はある。キャラクターと物語の作り方、緩急の入れ方に、なにより仕事と両立するための時間の見つけ方や自分の体力との相談などこの三年間で学べたことはあまりにも多かった。  まるでプロみたいに。 『堂島はるか』でないと、こんな生活はできない。  最後の作品のことを考えると気が重たくなってしまう。『堂島はるか』としてはこれからと今までの作品の中の一つでしかないのに。  それにインタビューのことだって羽鳥はどうすればいいのか分からなかった。  この間の解約通告時、大国があんなに心配してくれたにも関わらず羽鳥は『堂島はるか』を演じることを決めた。  彼が築いた賞賛を浴びて承認欲求を満たしたいのだろうか。いいや、そんなこと望んじゃいない。  兎澤にも大国にも感謝している。彼らがいなければ自分は夢に近づくことさえできなかった。  幽霊でい続けるのに不満があった? ううん、僕にはもったいないほどの恩恵を受けられた。 『堂島はるか』に成り代わりたいと一瞬でも考えてしまったのはなぜ? ファンの人たちのコメントを眺めていたら、僕の言葉で返事をしたくなっただけ。ただそれだけ。だから、インタビューであの人を乗っ取ろうなんて微塵も考えちゃいないんだ。  じゃあ解約されてホッとしたのに、この未練は一体なに?  分からない。  自問自答をすればするほど、眠れなくなっていった。  大国はいつでも相談してくれと言っていたけれど、もうお別れをする相手にこれ以上甘えられるほど羽鳥はがめつくはない。  あの人は結局、僕をどう思っていたのだろう。他の作家にもあんなにやさしいのかな。でも兎澤さんには言いたい放題言ってる、違う、あれはあの人たちなりのコミュニケーションだ。僕にはあんな態度とってくれたことがないじゃないか。  きっと最後まであの人は甘くて優しい。お別れの瞬間まで僕はずっと、苦手なまま。  ちくり、不意に心が針に刺される。 「……僕はなんてことを」  一瞬でも過った想いに、眉を顰めたときだった。 「あれ、羽鳥さんお昼ですか?」  職場の後輩が前方からやってくる。精神的疲労から頭がじんじんと痛む。 「……うん、もう終わったからここどうぞ」 「いやーいいですよ半分分けてもらえたら。羽鳥さんなんか体調悪そうですし。ていうかお昼それだけですか? 俺買い過ぎたんでパンおすそ分けしますよ!」  この後輩の良いところは元気で明るくて気のいいところ、苦手なところはグイグイ遠慮がないところだ。気を使わせないようにしないといけないのに、頭痛がさらにひどくなる。  もし会社の人間に一人でもゴーストライターの仕事について相談できる相手がいれば、幾分楽になれたのだろうか。 「あー、ごめんね。ちょっと今食欲が……」 「あぁ、羽鳥くんこんなところにおったんか。おまたせ」  突然、すこぶる機嫌の良い声が降ってきた。  慌てる後輩と共に振り向けば、黒いスーツに深緑のシャツを合わせた大国がにこにこ笑顔を浮かべて立っていた。 「ごめんなぁこんなところで待たせてもうて。あ、小腹満たしてもうたんか。えぇよお、ほな軽いもんご馳走するわ」  困惑する後輩が大国と羽鳥の顔を何度も交互に見やる。分かるよ、僕にこんな雰囲気のある知り合いいそうにないもんね、僕も未だに信じらんないよ。  どう言い訳すればいいのだろう。頭痛の種が増えたのだが、大国がベンチの正面に回って「車、そこにあるから」と言って羽鳥の身体を支えるながら手をとってくれた瞬間彼に便乗することに決めた。 「ごめんね、知人と待ち合わせしてたんだ」 「会社の人? どうもお世話になってます。ちょっとこの人、お借りしてもえぇかな?」 「えっ、ははい、どうぞ!」  驚きで目を丸くする後輩を置いて、二人は公園のすぐ外に駐車されている黒のBMWに乗り込んだ。大国は助手席のシートを倒して簡易ベッドにして羽鳥を乗せた。 「仮眠し、昼休憩中やろ? 時間になったら起こすわ」  伸ばされた手が横たわる羽鳥の髪を優しく撫でる。失礼だが、後輩の気づかいよりずっといい。 手が離れていく中、ちらりと大国に視線をやるががもう窓の向こうを向いてしまっている。 「……大国さん怒ってます?」 「いいや。でも健康管理も仕事の一つやで。いいから仮眠しいや」 「喋っていてもらえますか? 大国さんの声聞いてると、なんだか眠たくなってくるんで……」 「……子守歌かいな」  車はゆっくりと振動一つなく動き出す。  本当は遠慮しないといけないのに、迷惑をかけているのに彼の言葉に甘えたくなる。実際にもう、頭痛に苛まれながらも羽鳥は意識を半分飛ばしていた。 「書店営業で近く通りかかって、羽鳥くんによう似た子がいると思って近づいたら大正解やった」 「僕ってそんなに分かりやすいですか?」 「どうやろ。いつも君のこと考えとるからセンサーが察知したんやろな」 「なんかすみません……」 「……原稿どない?」 「うまく、できません。どうしたらいいか、分かんなくて…」 「せやろなぁ……この間はえらい聞きわけが良すぎたように思えたよ。どうしたん?」 「分かりません、もう、分からないんです……。辞めたがっていたのに、辞めたくないって思っちゃって……」 「そうか、しゃあないな」 「もうあなたのお世話にだってなりたくないのに……」 「なんで? 俺は最後の日まで羽鳥くんを」 「だって、大国さんは兎澤さんのものだ」 意味のある言葉ではなかった。しかし車内に妙な沈黙が降りる。うつらうつらとする羽鳥くんを残して。 「……俺の中で一つ引っかかってるねん。『堂島はるかでいたい』って、どこから来てる言葉なんやろって。あいつの作品を書き続けたいのか、ファンや人気が欲しいのか。本人に成り代わりたくなったのか。……でも、それは君らしくない」  だって君、初めて会ったとき……。  そこから先の言葉は聞こえなかった。とうとうと語る大国の声が羽鳥を眠りの世界へといざなった。 ※※※  慣れた仕草で火を灯し一息で肺を満たす。ミントの効いた苦みを味わうことなく、大国は煙を感動と共に吐き出した。  編集部を抜け出しガラス窓で覆われた喫煙ルームは、珍しいことに人っこ一人いなかった。もしかすると極悪な面を朝から解かない大国を誰もが警戒しているからかもしれない。 一服していると、編集長の染谷が顔を出した。五十代半ば、小柄でふくよか、兎澤のそれとは違い人を真に和ませる穏やかさを持つ染谷は、隣いいかいと声をかけてくれた。  火を差し出した後、大国はパチンと音を立ててライターの蓋を閉じた。 「堂島先生は順調かい?」 「『堂島先生』は手を抜かずに頑張りますねなんて笑ってましたよ。ほんまに可哀想なこって……」 「人としての美点ですね」  ふぅと煙を吐いて、染谷は言った。 「いつ告白するんですか?」 「げほぉっ」  盛大に咽た。死ぬかと思った。 「い、いややわ、これやから恋愛ものの編集長は怖いねん……」 「あのねぇ、毎回毎回幽霊くんのお話を聞いていたら誰だってわかりますよ」  そんなに羽鳥の話をしてしまっていただろうか。自覚のないことに、大国は照れて赤らむ顔を両手で覆った。 「……ぶっちゃけですね?」 「はい」 「あの子多分、俺のこと好きなんですよ」 「……はい?」 「だって俺に会うたびにうっれしそうに尻尾振って、なんか言うたびに顔真っ赤にしてこうね、眉間に皺寄せるんですよ。なんちゅう照れ方しとるねん思いますね、毎回」 「なるほど」 「俺の声聞いてると眠くなるんですって。それもう俺の声に安心感覚えてるやんと。今俺のことゴリ押しして押し倒したら行けるんちゃうかな思うんですよ」 「……はい」 「でもそれは非人道的やないですか、ただでさえ最後通告な上にインタビューまで任されて弱ってるのに。俺アラフォーで、向こうもアラサーでいい歳してるんです。なのに俺の前でだけこんなに感情的で無防備になってくれるなんて大分俺に心許してくれてるよなと。抱きしめてキスしてもえぇんちゃうかなと」 「で、どうしたんですか」 「……耐えました」  よかった、うちの部下が強姦魔にならなくて。ただでさえ容姿が一方向に秀でていて何かと疑われやすいのだから。 「俺かて仕事にプライドを持ってるんで、辞めるとは言え自分が担当してる作家に手ぇ出すってどないなんと、一線超えたらそらもうべろべろに依怙贔屓するで俺と。公私混同なんて認めてないのに、あぁでもほんまにかわゆいんですよ」 「メロメロですねぇ」 「メロメロですわ。……でもねぇ、俺にはもったい子なんです」  誰もが憧れるロマンスを書きながら、本人は弱っているときに優しくされたらころっと落ちてしまうほどの純情で。本人もそれをよく分かっているから、大国の一挙手一投足をずっと警戒している。  知っとるよ。君、兎澤にチクチク言われてるときより俺に甘やかされてる時の方がずっと苦しそうな顔で。甘えたらあかんって全身で言い張ってるんや。  いい歳をして、いざとなったら切り捨てないといけない立場の子にちょっかいをかける自分が馬鹿らしくて仕方ない。 「しゃあないけど、忘れるしかないですね。俺はどうせ仕事人間ですから。今かて心配しながら、どうやったら〆切までに作品書かせられるか考えてしまってます。目の下にえらい隈作ってふらふらで。解約されてホッとしたのに、急に未練がましくなってでもその分からんくて悩んでるんですよ。あげく、自分が『堂島はるか』に何を求めていたのかも考え始めてドツボですわ」 「ビジネス書の類ならともかく、作家の性格や願望が反映される小説ですからねぇ。それに彼はまだお若い。欲求に苛まれる自分を嫌悪するときもあるでしょう」 「うまく割り切れたらもっと続けられたんでしょうけど……」 「作家はね、シンプルなんですよ」 「シンプル……ですか?」 「そう。才能で稼ぐために書く。名声のために書く。生活のために書く。書きたい世界があるから書く。どなたも自分に忠実だなと私は思います。幽霊くんの答えも、案外シンプルなのかもしれませんよ」  羽鳥の中の、最も単純な欲とは。 「あぁあかん、ずっと羽鳥くんのこと考えてまう。これ以上は編集の枠超えて鬱陶しがられるかもしれんのに」 「俺は脈ありだと思うんだけどなぁ」  新しい声に二人は慌てて振り向いた。いつからいたのだろう、非喫煙者の兎澤は煙たそう手で払う。 「押し倒したらの辺りからいたさ。染谷編集長、ご無沙汰しております」 「これはこれは兎澤先生、本日は文芸誌の取材でしたかな」 「えぇそれはもうつつがなく」  それで、と兎澤は大国に顔を向ける。 「デートにでも誘って、焚きつけてみなよ。きっと楽しくなるよ」 「なに?」 「俺も鬼じゃないからさぁ」 「まぁ鬼ではないな。鬼畜ではあるかな」 「大国さんのいいところは、自分が何を言っても作家がへそ曲げないと思ってるところだよ」 「そらどうも」 「残機二だね。羽鳥くんにもそういうとこ見せたらいいのに。喜ぶよ」 「いや気づいたら口説いとるねん」 「末期だね。いやねぇ、俺も羽鳥くんをただの平凡な会社員に戻すのは惜しいと思うんだよね。もったいないでしょ、筆も早くて書き方も魅せ方もこの三年でしっかりと学んでるのに。だってこの三年って、大国さんは下積みのつもりだったでしょ?」  さらりと言われ、大国は固まった。  兎澤は空気を無視して続ける。 「そりゃあ俺も忙しかったですよ、でも急にゴーストライター使えってずぶの素人連れてきて一体何かと思ったね。これであの完コピ能力なければ即切って川に流してたな。うん。ちょっとアドバイスするだけですぐ泣くし、大国さんは俺の味方なんて一度もしなかった」 「おやおや。公私混同じゃないか大国くん」 「……ちゃいます、スクールで埋もれた財宝を発掘して托卵しただけです」 「インタビューの件で俺を非難する権利なかったよね」  ゴーストライターとしての才能が十分にある生徒があると、講師から相談を受けた。しかし大国とて身体が足りないほど忙しい身であった、模倣がいくらうまいからと言って素人を育て上げる余裕がなかった。  どこかで読んだことのある物語。  烏合の衆から一歩踏み出せないありふれた物語。最後まで読ませる力はあるのに、読み終わった後で何も残らない。ただ新人の瑞々しさを感じられるだけだった。  何を考えながら書いたのかと聞いたとき、好きな作品のようなものが書きたくてと言ったその一言でよくわかった。この子は羨望が先行して、自分が本当に伝えたいことを二の次にしているのだと。  新人の彼に求めているのは上手い小説ではなく、新人だけが持っている理性を金繰り捨てた欲望の塊だ。  しかしこちらが何かを言ったところで憧憬の念を超えることができない。影響されやすいというのも問題なのだろう。  ならば影響されてしまえ。  自分の原型がなくなるほど染められて潰されてしまえ。  頭の先から足の先まで失ってしまったとき、元の自分を切望したとき、ようやく書きたいものが見つかるだろう。  これはただの、荒療治だった。 「『まさか患者相手に恋をしてしまうなんて、あの時の大国は考えもしなかった。だが』」 「ちょっとうるさいで」 「だからさ、あの子良い子過ぎて流されやすいのさ。すぐ人に合わせようとするから。でも大国さんのことだけは絶対に流されまいと警戒する。」 「言わんといて悲しいから」 「だから真皮を向いて煽ればいいのさ」 「なに?」  兎澤は実に楽しそうに、深く口角を上げた。
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