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3  解約を告げられてから寝ても覚めても頭の中で走馬灯のように『堂島はるか』の想い出ばかりが流れていく。  兎澤と出会った頃は、からかわれてばかりで本当にこの人の幽霊でいいのだろうかと思い悩む日々だった。 『堂上はるか』は情熱的過ぎて好みとは外れていたが、それでも面白く読めて好きな作品だってあった。書いたことのない内容に不安も感じながら執筆し、作品がオンライン掲載され、兎澤が執筆していた作品と変わらぬ支持を得たときは安心もしたし後悔と不安にも襲われた。  俺が君を認めているのだから胸を張りなよと伝えられたときは、何もかも忘れてただ喜んだ。結局自分は小心者で、調子のいい人間なのだと理解した。  どのファンよりもいち早くプロットを、作品を読むことができて幸せだった。作品が書籍化したときは、何軒も書店を回り販売されている様子を目に焼き付けた。小規模な幸せと鼻で笑われたけど、笑った相手も楽しそうだったので文句はない。  いくら作家と仲を深めても、いつかは解約される日が来ると分かっていた。  去ることは怖くない。ではこの未練の正体は?  小説スクールで真似事ばかりでは生き残れないと言われたあの日、落ち込んでいたときに現れたのは王子様ではなく借金取りのような風貌の編集者だった。  そして退勤後、社の入った雑居ビルの前に彼はいた。 「奇遇やなぁ羽鳥くん」 「う、嘘だ……!」 「せやで」  目の前の道路脇に止められた黒い車を背に彼はいた。  夕刻を過ぎれば冬の空はもう暗く、二月ともなれば最後の力を振り絞り身も心も凍らせようとする。  いつからいたのだろう、大国は黒のロングコートに深緑のマフラーを巻き白い息を気晴らしのように吐いている。商業ビルの前で彼のような雰囲気のある男が物珍しいようで、会社員たちはみな一様に通り過ぎ様に視線をやっている。  次に直接会うのは別れの挨拶をするときだと思っていた。  彼の姿を目にした瞬間、心臓が確かに大きく弾んだ。しかし笑っているのか、泣いているのか、羽鳥は自分がどんな顔をしているのか分からなかった。  ただこちらの姿を見止めた途端、嬉しそうに目を細める彼の表情に心に熱が灯ったのは確かだった。 「お疲れさん。白のダッフルコートよう似合っとるね」 「大国さんは格好いいですね。どうしてこんなところに……解約手続きですか?」 「ちゃうよ、もっと楽しいこと」  ガチャリと、彼は開けた助手席のドアにもたれかかる。 「デートしよ、羽鳥くん」 「なっ何言って……幽霊とそんなことしちゃダメじゃないですか」 「だって君、契約終わったら俺に電話もしてくれへんやろ?」 「……あなたが電話したらいいじゃないですか」 「業務上知りえた内容は私的利用したらあかんのですよ。せやったらもう、プライベートでお誘いするしかないやろ?」 「僕の会社前の張り込みは、私的利用ですよね」 「初めて規則破るわ」  本気かと目を見れば、大国は目で頷く。 「……小説みたい、ですね」  ハードル高いなぁと彼は笑った。  車中は暖房がよく利いており、革張りの座り心地のいい座席に丁寧な運転といたせりつくせりだ。  運転席で優雅にハンドルを切る大国の姿はいつもと同じなのに、その横顔が、遠くを眺める真剣なまなざしが、コートに隠れる逞しい腕が、何もかもが格好良く見える。 「今、初デートで運転席マジックにかかっている女の子の気分です……」 「絶景やろ? ずっと見とってもえぇよ。でも、俺の方から君をあんまり見られへんのが残念やな」 「うわぁ格好いい……今の使ってもいいですか」 「職業病か」  なぜデートなのか問えば、兎澤の提案だと大国は言った。  曰く、童貞のゴーストはいつまで経っても浮いた話一つなく、デートにリアリティがあった試しがない。たまにはデートに誘ってあげなよ、ということらしい。悔しいが、デートなどの恋人的描写はいつも兎澤の恋愛経験講釈をもとに構成していた。 「なんだ、やっぱりお仕事なんですね。なんかすみません。こんな時間までお仕事させちゃって」 「でも、俺的には仕事ちゃうよ。プライベートを作家に絶対邪魔させへんし公私混同は分けるから」 「え、じゃあ、嘘」 「言うたやろ、デートって」  一瞬こちらをちらりと見やり、大国はニヤリと口角を上げる。すっと伸ばされた指先が一瞬、羽鳥の耳を撫ぜた。  仕事中なら絶対にしない仕草にカッと羽鳥の顔も耳も赤くなる。襲い掛かる激しい感情にたまらず顔を両手で覆った。  公私混同はしないと言いながら、最後に守るのは作家だと告げながら、いつだってこの人は僕の味方をしてくれていた。  僕は今、ちゃんと口説かれている。 「感情の、整理が追い付きません……」 「……俺も」  もうお互いの顔も見れない喋ることもできなかった。  沈黙はラジオの音楽番組に任せた。まるで初対面のときのように、よく聞く音楽の話をぽつり、ぽつりと話はじめ、今の仕事に就いている理由や子ども時代の話、時事ネタ兎澤ネタなど今度は静けさを招かないように二人は喋り続けた。 「僕ら五年も一緒にお仕事しながら、そんなにプライベートの話してなかったんですね」 「仕事の話か兎澤の話か天気の話ぐらいやったね」 「大国さんに一回り下の双子の妹さんがいたなんて予想もできませんでした。大手企業正社員で高収入高学歴高身長な上に赤ん坊から子どもまでお世話経験もあるって、すごい優良物件じゃないですか」 「おまけにめちゃくちゃ愛したげるよ」 「あの…今度婚活パーティーに参加していただけませんか? どれぐらいプロフィールカード貰えたか教えてくださいよ」 「俺らデート中よな?」  やがて車は一軒のホテルに入る、思わず身構えた羽鳥の頭を大国は安心させるようにぐりぐりと撫でた。  ディナーはホテルのレストランだった。ビュッフェスタイルで友人や家族連れも気安い手ごろで気取らないスタイルのそこは、多少緊張していた羽鳥を軟化させた。  二人はいただきますと手を合わせた。食事をしながら、協賛社の接待や打ち合わせなどでよくホテルのレストランを利用すると聞かせてくれた。やはり経験のない羽鳥に合わせたプランを立ててくれているのだと知り、ますますときめいてしまう。 「参考までにお聞きしますけど、今夜のデートって生温いんですか?」 「お、自分の扱われ方から過去の女の影を詮索してるな? いややわぁ、俺だけに集中してほしいわ、いやしてるのかある意味」 「ちちち違いますよ。だから今後の参考ですって」 「たとえば羽鳥くん、ナイフとフォークの順番も分からへんのにフランス料理のコースを予約されてたら疲れへん? 相手は自分からしたら当たり前な最高のおもてなしをしてくれるから批難もできへんし、食べ方には気を使わなあかんしで」 「まぁ気疲れ起こしちゃいますね」 「そやねん。かといって、極端な話ファミレスに連れていかれたらせっかくのデートやのになぁ…ってがっかりする。俺はね、羽鳥くん。好きな人が美味しそうに食べている姿を見るのが一番好きなの。だから、お互いに気負うことのないちょっと上のランクで相手に合わせたプランを練る、つまり俺はあなたと同等レベルの価値観と金銭感覚の持ち主ですよと、安心してくださいねとアピールするのが大事やと思うのよ」 「えぇ、でも大国さんならフランス料理連れていってくれそうとか思う女の子もいるんじゃないんですか?」 「そのお嬢さんがテーブルマナー完璧やったら連れたってあげるよ。憧れだけ持ってこういうとこはじめだから~って甘える子はちょっとやな」 「ははぁ。つまり僕は高級料理には不向きだと早々に見抜かれているんですね。ナイス判断力です」 「まぁ俺も高いところは気張るからね。別に君が望むならマイフェアレディでもキングスマンでもプリティウーマンでも」  最後はセクハラになるのではないだろうか。ちなみにこういった場所は本当に接待ぐらいでしか利用せず、普段はファストフード店でもラーメン屋でもデパートのレストランフロアでも、美味しければどこでもいいようだ。 「……え、じゃ、じゃあこの後待ち受けているのはホテルのスイートへのルームキーではなく……?」 「……本屋かなぁ。この時間ならまだ開いてるし」  あと海でも見に行く? と少し気だるげに言われたところで、羽鳥は堪え切れず噴き出して笑ってしまった。大声は出せないので二人とも堪えるように肩を震わせて。  何を勝手に緊張していたのだろう。もう三年の付き合いで、決してプライベートの交流はなかったけれど、彼が優しい仕事人間だとずっと知っていたではないか。 「ちなみに初デートでホテルの部屋連れていく男は十中八九長続きせんと思うけれど……期待されているなら俺は頑張ります」 「えっちっ違います! そういうの本当いいですから!」  ずっと不透明な空間を生み出していた心の靄がすっと晴れていく。 そうだ、これはただの手軽な取材旅行。今はただ、大国との時間を素直に楽しみたい。  できれば互いの休日に好きなところへ連れていくつもりだったと、大国は旅行誌の棚を眺めながら言った。  しかし作家の代行で取材旅行に行くことになったため、明日の昼には東京を離れるのだと。今日は金曜日、どこまでも羽鳥のことを考えてくれる。遠出の前夜遅くに付き合わせて申し訳ないと言えば、きっと彼は苦笑いを浮かべて謙遜するのだろう。 「僕は夜のデート好きです」  羽鳥は書棚から目を離さずに伝えた。  数多くにきらびやかな表紙が並ぶ中、面出しで置かれている『堂島はるか』の作品を見つけて安堵する。 「担当イチオシやて、当然やな」  男二人で女性向けコーナーを凝視する姿は傍目に見れば滑稽か、迷惑極まりないだろう。  職場から離れた商業ビルの書店で知人と遭遇しないことをただただ祈るばかりで。もし大国のことを聞かれたら、友人と上手く答えられるだろうか。 「大国さんがティーンズラブを担当されているのはご趣味ですか?」 「……年頃の妹たちがおるとね、色々あるのよ」  ある年の瀬に帰省した際、運命に出会わされたらしい。 「あぁ兎澤さんの本だ。ちゃんと平台に置かれているんですね」 「角に置いてもらってるんか、一番良い待遇や」 「……本当ですね」  時刻はまだ二十二時過ぎ、あまり遅くなると申し訳ないと言えば、大国は日付が変わる前に送るよと車を海に走らせた。  いつしか夜空はどんよりと重たい雲に覆われていた。三十分ほどし人気のない国道沿いに暗く底のない大海原の広がりを見た。  微かな波の音とともにゆらりゆらりとうごめく水面は、遠目から見ているだけで精神が飲み込まれそうになる。 「あ、寒い」  その一言で、二人は車から出たものの決して海岸へは脚を踏み入れることはしなかった。  ガードレールの向こうに広がる冬の海、せめて月が出ていれば海を輝かせる月明りを楽しめただろうが、あいにくの曇り空。もはや夜空と夜の海の境目すらも分からない。見れば見るほど油絵具でべたりと塗りつぶしたような黒。国道のカーブ沿いにぽつりぽつりと並ぶ街頭が、なんだか信用してはいけない道しるべのように見えた。  なんとなく資料獲得がてらスマホで写真を撮るがもう何がなんだか。 「デートの思い出にしますね」 「やめて」  大国がなぜか羽鳥の右側から左側の、少し距離を開けて移動する。小首を傾げれば、「煙草吸うていい?」と煙草の箱をちらつかせた。羽鳥に煙がかからないようわざわざ風下に移動したのだ。  彼が何かをするたびに、一つずつ心が豊かになっていく。知らなかったことを体験できる喜びと、互いの未知なる部分を少しずつ分けてあげられる嬉しさ。  慣れた手つきでパッケージから煙草が取り出される。全ての仕草に釘付けになる。  不意に香ることがあるので喫煙者だと察していたが、実際にその姿を見るのは初めてだった。  なんて絵になる人なのだろう。ただ火を灯すだけで、女性誌を飾るモデルのようだ。暴力的な印象とは対照的に真っ直ぐに正された背筋と手入れのされた肉体が美しく、色気もある。  薄く綺麗な唇に挟まれたフィルターに一瞬舌が触れたとき、不覚にも羽鳥は悲鳴を上げた。  分かっていたのだろう、大国がニヤニヤと頬を緩ませる。 「なにぃ? 大声だして」 「……やらしい人ですね」 「まだ何もしてへんよ」 「僕、煙草苦手なので反対側に回りますね」  おや、と言われるよりも先に羽鳥は車道側に回り、車に背を預けてしゃがみ込んだ。真冬の空気が火照った頬を鋭く染みる。しかし羽鳥を現実に連れ戻すにはまだ足りなかった。 「大国さんっていつから僕のこと気にかけてくださっていたんですか」 「三年前から」 「さすがにそれは嘘でしょう」 「ほんまよ。俺が君を幽霊に指名したんやから」  初めて兎澤に会ったとき、相変わらず穏やかな微笑みを浮かべてはいたが向けられる言葉には棘があり羽鳥の決意をすぐに後悔させた。  今ようやく合点が行った、兎澤はゴーストライターを求めていなかったのだ。 「三年間、僕は……よく頑張ったほうだと思います」 「あの偏屈とよう付きおうてくれたわ。ありがとう」 「でも、兎澤さんはいい人ですよ。僕が仕上げた作品を読むとき、あの人は少し嬉しそうな表情をするんです。最後には決まって、俺のプロットだって言ってくれるんですから」 「……そうやって真面目にいいとこ探しする健気さが、かわいいと思うんよなぁ」 「……兎澤さんにも教えてあげたいな。きっと次のプロットのネタにするって言ってくれるのに。もう今書いているので終わりなんだもの」  大国からの返事はない。せっかく明るい空気を作ってくれていたのに、自分から触れてはいけない空気に変えてしまった。  いつまでも大国の声がせず、不意に羽鳥は不安になった。いつまでもうじうじしているから怒ったのだろうか。呆れたのだろうか。  僕はあなたに失望されるのが何より怖いのに。 「大国さ……」 「コーヒー買うてくるわ」 「っ!」  耳元で聞こえた声に慌てて顔を上げる。  革手袋を嵌めた手が一度羽鳥の頭を撫でてから、大国は少し離れた場所にある自動販売機まで歩いていった。  今夜はよく頭を撫でられる。好きなのだろうか。頭一つ分離れているので、きっと彼はいつも僕の旋毛を見下ろしているのだろう。  歯の浮くような言葉ばかりをくれる。触れてくれる。ずっと楽しそうに、嬉しそうに笑ってくれていて、釣られて羽鳥の気分も高揚していく。  こんなにドキドキしてしまって、まるで僕が物語のヒロインみたいで。  今まで自分が書いてきた物語は、兎澤緑郎の頭の中の物語でだった。そして羽鳥の憧れでもあった。いつかこんな物語を自分なりに書いてみたいという目標だった。  でも目標を持つと、また模倣になってしまう。 「こんなデート、兎澤さんは馬鹿にするだろうなぁ……」  ロマンチックじゃないね、現実をしっかり見てきた女の子はトリップできないんじゃない?   それでも好きだなと思った。僕はこれがいい。  道路の少し先、ぼんやりと浮かぶ自販機の前を黒い影が塞ぐ。  好きだから、もうここでお別れしたかった。  ふいに鼻孔を懐かしい香りが擽る。幼少の頃から親しんできた、深い場所を掘り返された土の……気付いた瞬間、ぽつりと大粒の雨が鼻先に触れた。 「あ、」  あっという間に大雨のシャワーを浴びせられる。あかーんと大国が叫んだ。  真冬の夜にびしょ濡れになった二人は、急いで車中に戻り夜道を走った。  いくら暖房が効いているとは言え冷たい海風に晒され雨を浴びせられ身体の芯まで凍ってしまっている。大国は羽鳥に温かい缶コーヒー二本を抱え込ませてくれたが、小さなくしゃみは連続して続いた。 「……これは不可抗力や」  小さく呟きながら、車は再び一件のホテルへと入っていった。
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