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二人が開けたドアの向こうは、かわいらしい薄桃色の壁紙でコーティングされていた。
少し小さめのソファ、ローテーブルの上にはちょこんと造花まで飾られて。隅々まで清掃が行き届いており、ビジネスホテルの他人行儀な雰囲気がなく不思議と部屋に迎え入れられている気がした。
窓は全て塞がれ、ダブルベッドが主役のように鎮座されているとしても、雰囲気作りの申し分のない部屋だった。決して外から見られることがない。
「こ、ここがラブホ……! あ、あ、すごい、すごく密……はっ、自動販売機ですよ大国さん」
「写真撮るのやめーや。風邪ひくからはよお風呂入り」
人生初めてのラブホテルにテンションを上げている場合ではない。どこかで使えるかもしれないと写真を撮るのは作家の性なのだろう。
春になればただの会社員に戻るのに。
肩までつかってもゆったりと足をのばせる広いバスタブに浸かり羽鳥はそっと瞳を閉じた。
交替で大国がバスルームから出てくるまではその日のニュースを見て過ごし、羽鳥はベッドへと潜り込んだ。
「もう寝た?」
布団を被って丸まっていたからだろう、「寝ました」と返せば彼は喉の奥で笑った。
きっと大国は羽鳥と同じバスローブを着ている。湯気と微かな汗を滴らせて、夜の女性が見たかった姿を晒している。
「……寝てまおか」
照明が徐々に暗くなっていく。月明りの入り込む隙のないこの部屋は、僅かな明度が保たれた暗がりと沈黙に包まれる。
掛け布団が動く音と感触がする。ギシリとスプリングがきしんだ。
ふり向かなくとも分かる、男二人分でも十分な広さのダブルベッドで、大国はすぐ後ろにいる。
「そっちよってもいい?」
囁き声が問うてくる。大きな心臓の音にかき消される不安を持ちながら、どうぞと返事をした。
ゆっくりとぬくもりが羽鳥の背に纏わりつく。湯上り特有の体温か、それとも彼自身のものか、この空気か。バスローブ越しでも彼の鍛えられた筋肉のしなやかさがよく分かる。
硬直する羽鳥の身体に触れた指先は大袈裟すぎる身震いに一度退き、だが今度こそ掌で触れてきた。肩を、腕を、そして手の甲へ重ねられる。布団の中で、二人には見えないところで。
「お、大国さん……あの、僕は……っ」
彼らの指が絡まり合う、指の合間をすり抜ける感覚がもどかしい。自然と羽鳥は両腿を摺り寄せた。
熱い息が首元にかかる。香りを堪能するように鼻先を埋められる。全身で絡めとられ、涙が出そうになった。
なのに、
「……多分、俺が今羽鳥くんを抱いたら嫌われるんやろな」
なのにそうやって囁く声は、いつものように優しくて。
「あなたが、その気にさせたくせに……三年もかけて…!」
「……そやね」
一度あふれ出した感情はもう二度と戻らない、とめどなく羽鳥の唇から流れていった。
「せ、せっかく気付かないふりしても、いつも僕に優しくしてくれて、恋人みたいに扱ってきて……」
「うん」
「だってそんなのおかしいじゃないですか、僕はただの幽霊なのに、あなたは作家よりも僕を大事にしてくれて……好きにならない方がおかしいですよぉ…」
項にかかる吐息が一瞬止められる。喜ばないでよ、酷い人。
ぼろぼろと涙がこぼれていく。冬になってからもう何度目だろう。背後から伸ばされた手が羽鳥を強く抱きしめる、いやらしさの欠片もない、涙を拭う指先はただ愛情に満ちていた。
「あのね、書けないんですよ……。ねぇ覚えてますか? 一番初めて会ったとき、ゴーストライターの依頼をしにきたのに、あなた僕がスクールで書いた小説を添削して良いものにしようとしてくれたじゃないですか」
その時偶然カバンに仕舞っていた作品に彼は目を通してくれた。持っていた赤ペン青ペンを使い分けするすると書き示していく。この表現を大切にしたい、この展開は矛盾している、キャラが弱い、日本語の繋がりはおかしいけど俺は好き。でも、君が一番書きたいことが見えてこうへんな。知ってる? 小説はな、作家の獣の本能を晒してるだけやねんで。
ゴーストライターになる人間に、添削なんてしなくていいのでは。
そう聞けば大国は首を振った。
――これは君のお守りや。いつか君が自分の作品を書きたくなるときまで大事に仕舞うとき。
「ちゃんとね、大事に仕舞ってます。引き出しの、下の、一番底に。目に触れない、思い出せもしない場所で。でもね、ときどき読んじゃうんです。思い知らされます。もう戻れないと、まっすぐに思い知らされます。何を書いても、兎澤さんになっちゃって、だからやめたくないんです、やめちゃったら僕は……」
未練の正体がようやく分かった。
地位も名誉もいらない。彼の物語も欲しくない。
僕はただ、
「自分のお話が書きたいのに、もう何も書けないんです……!」
本業とゴーストライター業の合間を縫って、自分の、羽鳥七生の小説を何度も書こうとした。
できなかった、何度書いても別の誰かになってしまう、違う誰かの代筆で、求められるものを書いてしまう。
「嫌だ、それだけは、僕はただ、書きたいだけなのに、『堂島はるか』じゃなくなったら、もう何も書けなくなる」
兎澤だって言っていた、活躍すればするほど、掻き立てられるのは執筆意欲だと。
でももう自分ではその意欲を満たせられない。自分を取り戻さない限りは、きっと。
子どものように嗚咽を零して胸の内を大声で吐露する。
「ごめんなさい、僕はあなたとお付き合いできません。だって僕は、もしまた幽霊に戻れるなら、戻ります。大国さんは、作家を大切にする人でしょう?」
突然、強く肩を掴まれぐいと反転させられる。背がマットに打ち付けられたとき、大国は羽鳥の身体を正面から跨いだ。大きな両手が勢いよく顔を掴み怒りにも似た激情が鼻先に迫った。
「書け、羽鳥くん」
この人は、何を。
「だから、書けないんですよお」
「いい、それでもいいから書け、最後までちゃんと書くんや。最後まで書いて提出したやつが一番えらいんや!」
「それは、プロの人だけでしょう?」
「あほか、誰でもや。誰にも見られへん〆切もない、それでも途中で投げ出したらそいつはそれまでや。どれだけ実力があってもな」
「でも、何を書いても兎澤さんになっちゃうんです、だからっ」
「つべこべ言わず書けや」
「いっいだだだだだ」
頬を抓られた。なんて人だ!
「たとえ何かに似ていてもいつかは君になる。ならんくてもプロになってしまえばこっちのもんや。君が本物を超えたら、君が本物になる。だから、」
大国は決して目をそらさなかった。それは羽鳥を幽霊にした罪悪感でも編集者の言葉でもない。
自分が恋をした年下の男への、願いだった。
「だからプロになって、俺に会いに来てくれ」
その言葉だけが、羽鳥の海を照らしてくれた。
ラブホテルの朝は早い。本当は十時までゆっくりしてもよかったのだが、昨夜のうちに自宅に戻るつもりだったので大国が取材旅行の準備なんもできてへんと言い出したため早朝六時に出発することになった。
朝日の上り切らない薄墨色の空と刺すような冷たい空気を堪能し、県道沿いにある大手牛丼チェーン店にで二人はカウンター席に座り朝食御前を頼んだ。
「え、大国さん生卵つけないんですか」
「……そんな元気もうないのよ」
朝は滅法弱いらしい。
「あとアラフォーだからですか……可哀想に」
「ちゃうがな、俺は苦行に耐えたんや。満身創痍なんや。好きなやつと共寝をしてなんの手も出されへんてほんまなんなん」
「……ずっと疑問だったのですが、大国さんは僕の何がそんなにいいんですか」
「泣いた顔」
「あ、そうですか。僕も大国さんのお顔好きですよ。お顔は」
「……やったー」
身も蓋もない会話だ。
「……ふ、ふへへ」
「なにその笑い方」
「いえ、ずっとこういう会話がしたかったなって。なんか甘言が恥ずかしくって苦痛で。幽霊より作家を優先するくせ。だから、兎澤さんが羨ましかった……です」
「……こんなんでよかったんかいな」
大国は呆れ顔で言った。
「はぁー、いただきます」
大国はしっかりと手を合わせた。味噌汁が身体に染みるのだろう、美味いと素直に言う。そういえば彼は昨夜のホテルでもきちんと手を合わせていた。
こういうところは、苦手じゃない。
「たとえ君がどれだけ良い作品を書いたとしても、弊社は君を預かることもできへん。俺は君の敵ではないよ、でも味方でもない。分かるな?」
「……あのね、大国さん。僕、好きな人とこうやって当たり前のようにご飯を食べる幸せとか、くたびれた朝に一緒に外の空気を吸うのがね、わりと好きなんですよ。そういう内容でも、採用されますかね」
「……俺は好きよ、君の個性」
インタビューの受け答えはもう頭に叩き込んでいる。
兎澤から彼が愛用してる老舗仕立て屋のスーツをオーダーメイドでプレゼントされることになった。これが『堂島はるか』なのだと思い、羽鳥は何も言わなかった。
試着室で着替えている最中、羽鳥はカーテンの向こう側に声をかけた。
「ねぇもう一人の僕、僕が『堂島はるか』を乗っ取ったらどうします?」
「君を殺して上書きするかな」
「え」
「君こそそうでしょ。俺から『堂島はるか』を奪うなら、二度と俺に上書きされないように俺を殺さないと」
カーテンを開ける。孫にも衣装だねと言われた。
「別に、あなたの名前なんていりませんし」
「あそう? じゃあスーツ代払ってね?」
幽霊として書いた最後の作品は、今までと同じ『堂島はるか』の内容だった。大国とはあの日以来タイミングが合うこともなかったので、やり取りはもっぱらメールで済ませた。
「最後の最後で仕返しされると思ったのに、なんなら後ろから刺されるとかね」
「残念ですが、それは僕じゃありませんから」
俺だって趣味じゃないよと、兎澤は言った。
今ならインタビューだって完璧に演じられる。兎澤が仕込ませた言葉を、彼の気持ちになって羽鳥はそのまま伝えるだけだ。
※※※
二年後、桜が最盛期を迎えた頃だった。
書籍情報などを取り扱う情報誌に、二人のティーンズラブ作家の対談が掲載された。
知人の編集者に無理を言いこっそり対談を見学させてもらったが、はじめましてと言うわりには馴れ馴れしく、互いの作品を読んだというわりには白々しかった。インタビュアーも笑顔を崩さないが、その裏で二人の空気感を感じ取ったに違いない。
男女の心の揺れ動きを繊細に、そして情熱的に描く『堂島はるか』と、絶妙な立場関係にある男女が時折見せるありふれた日常に恋を見出す新人作家『小鳩ななみ』。
『小鳩ななみ』の文体はどこか『堂島はるか』を彷彿させるのに、内容は似て非なる存在だとデビュー当時からジャンルの古参ファンの間で話題になっていた。
なんか二人ともアイドルみたいなペンネームやねと思ったのは内緒だ。
大国はと言えば、年度末の異動に漏れなく巻き込まれ、子会社が運営する小説スクールで元ライトノベル部門編集者という肩書きを背負った講師をしていた。二十代後半から初老まで幅広い年齢層のいる教室なのだが、みな一様に大国をネタにしようとするのはやめてほしかった。
どうせネタにするなら本気で恋をすればいい。ただの個性あふれるキャラクターの一部にするのではなく、大国への止まらない溢れる気持ちを代弁させて、大いに恋を語ってくれれば少しは立ち止まってやってもいいのに。
彼のように。
外の廊下から引き戸をノックされる。机に乗せていた長い脚を下ろし居住まいを直してから、大国は返事をした。
入室してきたのは四十代の事務員の女性であった。彼女は大国の顔を見るなりほっと安心した様子を見せた。
「あぁよかったまだいらしてくださって。大国先生にお客様がいらしています。……今日は半休をお取りになるからもう帰られると思うのですが…」
「あぁ、どうぞ。お通しください。すみません、教室を待ち合わせ場所にしていたので」
「構いませんよ、午後はもう授業がありませんから」
よかったわね、ごゆっくりと彼女は廊下の人物に声をかけて去っていった。
人間、たった二年で容姿が変わるものではない。たとえメディアに登場しても垢抜けるのはその瞬間だけ、本業がただのサラリーマンならなおさらだった。
ドアの向こうからひょっこりこちらを警戒するように現れたのは、二年前にメールであっけない別れをした年下の男。
「大国さん、人前では標準語なんですね」
「せやで。惚れ直した?」
「なんか、愛嬌がなくて不気味だなって」
「君も言うようになったなぁ」
一歩、一歩と彼は着実に歩み寄ってくる。
新人にしては早い足取りだった。恐らく向こうの出版社もよく書けるこの男に何かを感じ取ったのだろう。たとえ『堂島はるか』にどこか似ていても、ヒロインの相手役がみな一様に『ヒロインだけに優しいずるい男』だったとしてもそこに需要を見出した。
「あの、僕プロになりました」
「うん」
「本屋さんでも、平台の、角っこに置いてもらってます」
「知っとるよ」
「ちゃんと、自分が書きたいもの書かせて、書いて! ……ます」
「それにしても君、俺のこと大好きすぎるやろ」
「だって……っ」
自分でも眉尻が下がり、口角が上がっていくのを感じる。二年ぶりに動いた表情筋だ。
あと一歩というところで我慢していた涙がぽろぽろと零れていく。
「だってあなたに会えないなら、書いて会いにいくしかないじゃないですかぁ……!」
大国は最後の一歩を踏み出した。迷わず飛び込んできた小さな身体を受け止める。たしかな質量にあたたかなぬくもりが胸いっぱいに広がる。
「大国さん……!」
「おかえり、羽鳥くん。ほんまにようやったで」
何度も何度も、顔中にキスの雨を降らせる。
あの夜とはまた違う涙を分厚い舌で拭い取り、一度瞳を覗き込む。潤んだ瞳にはっきりとかわいいと告げてから唇を塞いだ。
「ふぅ、んんっ……」
初々しい声が二人の間に籠る。舌で唇を嘗めたあと閉ざされた歯列をゆっくりと割って入る。一本一本の歯に舌先で触れて、奥に逃げる舌を捕まえようとしたがどうにも捕らえられない。
焦れた大国は一度口づけをやめ、迷わず指を羽鳥の口内に侵入させ舌を引っ張り出した。
「ふぁっ、ふぁにすん……!?」
「そら二年分、いや五年分か? 待ちくたびれたご褒美もらわな」
羽鳥の腰にしっかりと腕を回し抱きしめたまま机の上に座る。
唾液にまみれた指先は彼の舌の肉の感触とざらつきをしっかりと堪能する。
口内を蹂躙する指使いは確かに性的なもので、羽鳥は身体全体で強烈な支配力を感じとっていた。
羽鳥の口から短い息と悲鳴がこぼれる。確かにそれは混乱と恐怖心に溢れていたのに、いつしか熱の籠った恥じらいが混じり始める。
抵抗を示していた両腕は今では大国にすがり付くだけ。爪先が上顎をくすぐり声が上擦る。ぞくぞくとする、身体が熱い。
「……すごい顔」
うっとりと呟き、羽鳥の舌に己の舌で唾液をすり込む。突き出した舌同士が淫靡な音を奏でた。
「あ……っ、ん、お、おおくにひゃ、ん……っ」
「んー?」
「ん、んぅ……!」
じゅると大きな音を立て一気に唇を奪う。吸いつき食み流し込み、このまま食べてしまうほどのキスに、ついに羽鳥の腰が抜けてしまった。
「おぉ、大丈夫?」
ぐったりとする羽鳥を抱き寄せ心底愛しい気持ちを込めて頬ずりをし背中を撫でて落ち着かせる。
荒い息を整えて、羽鳥は耳まで真っ赤にしぐりぐりと頭を押し付けてきた。
「感動の再会もそこそこに、肉欲に溺れるって……」
「まだまだですよこんなん。どないしたの羽鳥くん。キス嫌やった?」
「いえその……キスって…すごいんですね…」
大国はまさしく雷に打たれた。なんだこの愛しい生き物は。知っていたけれどあぁまさか、二年間ずっとこの子は。
「待っててよかった……」
「うわっ」
再び正面からぎゅっと抱きしめる。
まだ少し、この甘さが苦手だなと羽鳥は思った。きっとどれだけ与えられてもずっと慣れることはないのだろう。
でも、それがいい。
どんな小説で描いた人より、今目の前にいてくれるあなたがずっと。
「好きです、大国さん、僕はずっとあなたが好きです」
上目遣い気味の瞳でしっかりと視線を合わせて伝える。大国はすぐに破顔した。くすぐったい感覚に、また泣きたくなってしまう。
「俺も羽鳥くんがずっと好きでたまらんかった」
「……顔でしょ?」
「そっちかて。さて、顔洗ってからデート行きますか。本屋行って君の本探そ。ほんで今度こそ綺麗な海見てホテルで美味しいご飯食べて、今夜はちゃんとしたスイートルームやで」
窓の外で桜が舞う。春に別れた幽霊が実態を伴って帰ってきた。
「……お手柔らかにお願いしますね」
もうこの甘さとくすぐったさは、永遠に。
END
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