作家の神様

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 〆切まで残り十五時間の朝八時。 「先生、おはようございます。本日の午後十一時が最終です」  担当編集者の巻名が電話口で無感情な声で告知する。彼と組んでからもう五年になるが、巻名が僕に向かって『無』以外の感情を見せたことなど一度もない。  巻名はまるでターミネーターだ。以前〆切当日に都外へ逃亡しようとしたとき、彼は顔色一つ変えず僕を追いかけ原稿の取り立てを行った。出来ていないと知ればすぐさま喫茶店にぶち込み僕を無表情で見張ったのだった。過去何度も。  もちろん取り立てだけが編集者の仕事ではないので、原稿が止まると青天の霹靂のようなアイデアを授けてくれたこともある。 「デウス・エクス・マキナって知ってるかい。物語が行き詰まったときに現れる神様のことで、一石投じて解決へと導いてくれるんだ。まるで君のことだね。巻名だけにははっ」  一度そんな冗談を言ったことがあるが、彼はにこりともしなかった。  完成原稿の取り立てに異常なほど執念を燃やし決して落とさせない男。たとえ僕が何を行っても執筆させる、無表情かつ冷酷に、必ず。  だがこの関係も今回で終わる。  〆切時刻まで残り五時間。 「先生、今からそちらへ向かいます」 「今回落としたら僕はもう……あと少し、頼むから……っ」  必死さが伝わったのか珍しく彼は大人しく引き下がった。  残り一時間、主人公の心情に迷いが生じる、山場としては弱すぎる。仕方ないがこのまま進むしか……。  残り十五分。残り五分どうしてこんなことに…残り二十秒何がいけなかった……八、七、もう死ぬしかない、二、一。  九月三十日午後十一時、スマホの着信音がけたたましく鳴り響く。暗い部屋の中で煌々と光るパソコンの液晶画面の前、僕は空っぽの動きでスマホを手に取る。 「先生、原稿は仕上がりましたか」  普段と変わらず感情のない冷たい声。 「今先生のマンションの下にいます、すぐ向かいますので」 「いいや、下にいてくれ。すぐいくから」  不思議と頭は冷たく冴えわたっていた。立ち上がりベランダに向かいながらパソコンを一瞥する。結局原稿は完成しなかった。彼にいつも手渡している水色のUSB、今回は何も保存されないまま役目が終わる。 「君との追いかけっこも、これが最後だ」  窓を開けると冷えた風がさぁと僕を外へ誘いだす。 「……先生?」  手にしたままのスマホから、終ぞ聞けないと思った焦る巻名の声。  そうか、僕は初めて君の取り立てから逃げられたのか。  ざまぁみろだ。  僕は喉を震わせながら十三階から飛び降りた。  目覚まし時計の音がする。……なぜ?  すぐに目を開ければそこは見慣れた僕の部屋、カーテンの隙間から差し込む朝日、へたれた布団。スマホもテレビも、駆け込んだコンビニの朝刊も日付は九月三十日だった。  そして八時ちょうどに巻名からの電話が鳴り響く。 「先生、おはようございます。本日の午後十一時が最終です」 「は、は? え、なんで?」 「今日が最終〆切の九月三十日だからです」  なんだって?   これじゃあループだ。九月三十日の世界の再体験。  ループものの作品は何度も見たことがあるが、まさか僕が? 自分の頬を抓る、とても痛い。夢じゃない。  当たり前だが原稿は途中から。僕以外にループしている自覚のある人間もいない。どうすればこのループから抜けて無事に来世へ行けるのかも分からず、僕はとりあえず前回と同じように執筆し、間に合わず情けなくなって自殺した。  そして目覚まし時計の音がする。  三度目、唯一の話し相手である巻名を問い詰めたが、彼は冷静に冷血に「作品を書き換えて完成するのでしたらどうぞ」と言うだけだった。巻名のぞんざいな扱いに腹が立ち午後十一時を過ぎても僕は自殺をしなかった。  四度目。自殺がループを止めるキーワードではないのなら原稿の完成だろうか。たとえ納得の行く内容にならずともキーボードを打ち込む手を止めず、午後十一時に巻名にUSBを手渡した。 「これが以前仰っていた最高傑作ですか、へぇ」  その場でノートパソコンを開き目を通した彼の言葉を聞き、僕はベランダへと向かった。  十三度目で精神の限界に達する。電話口で何かを察したらしい巻名は午前の内に僕の部屋を訪れた。 「いい加減このループから脱して死なせてくれよ!」 「……何の話でしょうか?」  泣き喚きながら僕は巻名に洗い浚いをぶつけた。ループから抜け出せないこと、この長編が売れなければ自殺を考えていたことを。  発狂する僕の話を巻名は黙って聞いた。僕は以前から彼に言葉をぶつけることがあった。執筆活動が生活の安定に繋がらず情緒不安定気味だった八つ当たり。その時と同じように、話の腰を折らずに黙々と彼は聞き入った。 「つまり先生は永遠に繰り返される九月三十日の間中ずっと執筆し続け、ついにはスランプに陥りもう書けないと。こちらとしては原稿が上がるならずっとループしていただきたいのですが」 「もう無理だよ、原稿は完成しない、どの道生活に困るんだから先に死んだ方がいいんだ」  君は知らないだろう、僕が飛び降りた瞬間に自分が初めて声音を変えたことを。目の前の鉄仮面に笑みが込みあげてくる。 「ループが続く限り君は僕の編集者を降りられないんだ、残念だね」  そう、巻名は今回の作品を期に担当の降板を自ら申し出ていた。  だが彼は平然と言った。 「どうせずっと〆切当日なら、インタビューや潜入取材に時間を費やせばいいのでは?」 「……えっ、い、いやででも……本当だぁ」  やっぱり君は神様だ。  今回の長編はカルト教団にハマった双子の兄を弟が救おうとする人間ドラマ。僕は久しぶりに外に出た。度重なるループを利用していくつかのカルト教団を巡り、かつての入団者やその家族へのインタビューもコツを掴み次々と行っていった。  自分の発言を認知すらしていない巻名は自身の勘を発揮し、取材先で必ず僕の前に現れるようになった。  何が起きてもどこにいても必ず取り立てに来る巻名、ループの中でも一切変わらない彼の姿勢に僕は不思議と安心感すら覚えていた。  友だちもおらず帰れる実家もない。大学卒業後すぐに専業作家となったため三十歳をとうに超えてしまった僕に再就職の希望もなく貯金は底が見えている。  一度作品がドラマ化したがヒットには繋がらず、売り上げも伸び悩み仕事の依頼も極端に減った。筆を折るべきかプライドにしがみつくか、誰にも相談できない僕に会いに来てくれるのは巻名だけだった。あれだけ疎ましく思っていたのに僕は……。  ループと共に僕は物語の双子の兄の方に自分を重ねていた。心の穴を埋めたくて宗教へ傾倒する気持ちは、僕がいつまでも専業作家にしがみつくプライドに似ている。  彼は弟が何度も救いに訪れるのがとても嬉しいのだ。自分には何もないと思っていたのに入団し続ける限り家族としていてくれる。   僕にも分かるよ。 「――あっ」  僕はようやく、納得の行くオチにたどり着いた。  二十一度目。USBは巻名の手の中へ。 「頂戴致しました、では後はお任せを」  感想はないのが良い頼りというもので、巻名はノートパソコンをたたみ帰り支度を始める。  心は満足感でいっぱいだった。最高傑作が出来上がった。この作品の売上がどうなるか分からないが、恐らくこれでループが終わる。目覚めれば十月が始まり当分は執筆に追われることもない。  巻名にも。  どくり、心臓が嫌な音を立てた。 「先生?」  足は自然とベランダへ向かう。  長い溜息を吐きかけられた。 「今回も駄目でしたか」  ――なんだって? 「いつになったら原稿は完成するのでしょうか」 「ま、待て。まさか君がループの原因だったのか!?」  デウス・エクス・マキナ。咄嗟に神の名が頭に浮かぶ。彼は相変わらず同じ表情で、 「私が求めているのは死をも凌駕する完璧な原稿です」 「ぼぼくの原稿を取り立てるためだけにっ、何度もループさせて……」 「ループさせているのは先生です。この作品が売れる自信がないからまたループしようとする」 「待ってくれ! もう同じものは書けないぞっ」 「でも死にたいのでしょう?」 「それはだって……っ」 「では二十二回目の九月三十日へ」  原稿が完成してしまえば、だって、 「だって君が取り立てに来てくれなくなるじゃないか!」  君の取り立てが、僕の救いだった。 飛び出した言葉が巻名を貫く。目を丸く見開いた巻名の顔はひどく愉快で、僕は泣きたくなるのと同時に胸のつかえがスッととれるのを感じた。  そうか、君がループの原因だったのか。   目が覚めると見慣れない白い天井が広がっていた、目覚めし時計の音はしない。  身体を起こそうとするが全身に鋭い痛みが走る。首を僅かに動かせば左肩と上体がベルトで固定されているのが見えた。 「全身打撲と左肩の骨折。十三階から飛び降り車のボンネットにぶつかってこれなら奇跡です」 「巻名、くん? きょ、今日は……」 「十月一日です。一日足らずの昏睡状態からの生還です」  夢オチ。  全ては僕の夢の中の出来事だった。巻名が神であるはずもなければ、原稿も仕上がらず落ちたまま。何もかも夢。 「あ、あぁ……原稿落として、ごめん。……今までありがとう」  自業自得の別れに涙が浮かぶ。なんて情けなくて、なんて、 「……お見舞いくらいでいいならまた来ますよ。命の取り立てはもうごめんですから」  なんて贅沢な現実なのだろう。  まさか巻名はループを覚えている? いや、と僕は苦笑した。あれは夢だ、巻名が神でもない限り、誰にも知られることのない祈りなのだ。  窓の外に広がる青空を見つめ、僕はこれから訪れる未来にわずかな期待を感じた。  病院の外へと去っていく巻名のスマホが震える。 「はい、えぇ無理を言って申し訳ございません。先生の担当は以前と変わらずに続けるつもりです。長編の宣伝も全力で、はい、自殺未遂に箔を付けてでも。私が何度も取り立てた末に生まれた傑作なのですから。……いえ、こちらの話です」  鞄から水色のUSBを取り出し、彼は不敵に笑った。 END
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