真面目と不真面目は、交わり易い

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真面目と不真面目は、交わり易い

 2017年、夏。  ギシギシと肌に絡みつく陽射しは体内の塩を表皮に炙り出し、拭き取らなければ痒みとして襲ってくる。館内の設定温度は節約とやらで25℃。と言っても密閉された場所ではない。開かれた警察とは、違った意味で開け放たれた館内で働く者には感じられていた。  「それにしても、今日も暑いなぁ」  「はい」  「あっ、そうだ。これから、更に暑苦しい仕事を頼もうと思っていたんだ」  「何でしょうか」  「私の助手だ、取り調べのな」  「はい」  留置管理課に所属していた貴子は、かねてより組織犯罪対策課への配属を希望しており、昨年7月から「見習い」として組織犯罪対策課の捜査の講習を受けられるようになり、願いが叶えられるレールの上を歩いていた。  高城貴子、23歳。この若さで新宿署という大規模署の組織犯罪対策課の見習いを認められたのは、将来を嘱望されていたからだ。貴子が優秀だったかは定かではないが、厳格・閉鎖された縦社会の警察組織で、同じく勤務する父親の存在は、異例の抜擢に無関係とは否定できないものがあった。  貴子の父親は、警視庁生活安全部生活経済課の現職警部。要職をキャリアが占める中、キャリアではなかった彼女の父が生活経済課の花形部署の生安部にあることは、他の署員の希望の象徴でもあった。  父親がノンキャリアの『デキる』捜査員というのは、心情的な忖度を受けやすく、その娘にはキャリアへの口に出しにくい反発も加わり、貴子への待遇に影響を及ぼさなかったは否定しがたい。  警部の父親を持ち、厳格な家庭で育った貴子は、気何事にも真面目に物事に取り込む性格で、精神鍛錬、逮捕術にも役立つ合気道で有段者となる程、勝ち気な性格も備えていた。  外見はメガネをかけているものの、目鼻立ちはくっきりしており、かなりの美人の部類にあった。  貴子の高校時代を知る同級生は言う。  普段おとなしく行動的に目立つタイプではなかったが、顔立ちが当時のAKB48の板野友美に似ていたため、クラスメイトには『ともちん』と呼ばれていた。  貴子は泳部に所属しており、部活動に熱心に取り組む夏の水泳の授業では目立っていた。泳ぎが速いということもあったが、男子生徒にとっては彼女の水着姿をまぶしく感じる者も少なかった、と。  「あっ、仕舞った。連絡を一本、忘れていた。済まんが先に入っていてくれ。直ぐに戻ってくるから」  「あっ、はい」  貴子は、一瞬にして緊張感に押しつぶされそうになり、私は警察官だ、怯むな、気丈に振るまえ、と自分を鼓舞した。  貴子の人生の歯車が狂う運命の出会いは、取調室の中だった。扉を開け、中に入ると熱い視線を感じた。  気丈に振舞おうとしたが、緊張感は、それを許さなかった。自然と伏し目がちになり、まともに相手を見ることも出来ない自分に心の中で、「がんばれ」とエールを送るしかなかった。  「おお、いいねぇ、こんな所で美人に会えるなんて、俺はついているな」  窓のない狭い部屋の中で貴子は、男と向き合った。上着のボタンは第三ボタンまで外され、黒光りした胸元が見えた。目線を上げていくと端正で自信に満ちた顔立ちが目に飛び込んできた。  穏やかな表情に反した蛙を睨みつける蛇のような威圧的な鋭い目。  その男は、その組のイケメンと言えば真っ先にその男が思い浮かぶほどの色男で、趣味はキックボクシングでガタイがよく、背も高かった。  野性味あふれた男優のような外見に、不覚にも貴子は、一瞬にして心を奪われた。  厳格・真面目を絵に描いたように生きてきた貴子の前に突如として現れたイケメン。自分とはまったく違う境遇の男に興味を惹かれるのに時間はかからなかった。  しかし、その男は、紛れもなく貴子の住む世界とは真逆の生き方をするヤクザであることは疑いのない事実だった。  男の取り調べに立ち会ったのは、組織犯罪対策課での講習が始まって間もない頃。まだ、経験も少ない取り調べの現場。偶然とは言え、狭い逃げ場のない空間で緊張していたことは想像に難くない。その緊張が、貴子の警戒心を払拭したとすれば、悪魔の所業か、神からの試練か、判断できるはずもなかった。  しばらくして、貴子の上司が入ってき、その男を取り調べたが、貴子はその殆どを覚えていなかった。覚えているのは、胸が搾りたてられるように締め付けられ、体が心地よく火照っていたことだけだった。  我に返ったのは、その男が帰り際に放った「じゃぁな」と言う一言だった。その言葉は、貴子にとって脳裏に刻み込まれた烙印のように離れないでいた。  貴子にとって夢心地のような時間は、自制心によって男の姿と共に薄れていった。 日々の仕事に追われ、少女のようなときめきは、通学電車で見かける密かに憧れる男子生徒を思うようなもので記憶からもすっかり消し去られたはずだった。  日々の仕事にも慣れ、余裕が芽生え始めた頃、貴子の気持ちを震撼させる出来事が起きた。友人と集い息抜きの飲み会の帰りの街中で、どこからかともなく「じゃぁな」と聞こえた。ハッとして周りを見渡すもあの男はいなかった。  アルコールの仕業だ、夜の繁華街の中で聞こえてきても可笑しくない言葉だ。気のせいだと貴子は帰路を急いだ。  それからと言うもの毎晩、瞼を閉じると脳裏に「じゃぁな」の呪縛に悩まされ始めた。何を考えているんだ私は。そう言い聞かせてやり過ごすも、やり過ごそうとすればするほど粘着質な響きが、耳孔に留まり離れないでいた。  それは日毎に激しさを増し、上の空は当たり前、小さなミスを繰り返し、自暴自棄に陥っていった。  このままじゃダメだ。何とかしないと。  何とかしないと言っても考えれば考える程、あの男への思いが歯止めが利かない程、膨れ上がるだけだった。  どうしよう、どうすればいい。  そんなことばかり考える日々が貴子を精神的に追い込んでいった。  考えまいとする自分と、もう一度あの声を聞いて自分の気持ちを確かめたい葛藤の激しさは日増しに拍車がかかる一方だった。  貴子の体は、何かに突き動かされるように、同僚の目を盗み、彼に関する書類を探すようになった。その作業は容易でも、秘密裏に行うのは貴子にとって、大きな動揺を伴うものだった。  「あった、これだ」  関係書類から彼に関する情報を入手した。彼は、難葉会三次団体の三十二歳の独身組員、五十嵐大樹とう男だった。  自分の内心から仕向けられる脅迫観念に怯えながら貴子は咄嗟に彼の携帯電話番号を自分の携帯電話に打ち込んでいた。  心臓の高鳴りは水泳で百メートルを全力で泳ぎ切った時よりも、激しく高鳴っていた。貴子は携帯電話を握りしめ女子トイレの個室へと飛び込んだ。  便座で携帯電話を握りしめていた手を見つめた。  解こうとしても解けない。  必死の思いで指を一本ずつ動かした。  手の震えが止まらない。  それは罪悪感なのか禁断の実を捥ぎ取った後悔なのかはわからなかった。  欲求に任せて手に入れたはいいけど、どうしよう。  職務規定違反なんてもう頭にはなかった。  行動を犯した時点で規則は犯した。  自他ともに認める真面目さが取り柄の私が罪を犯した。  もう取り返しはつかない。  いや、打ち込んだ番号を消せば済む。  しかし、そうしてもまた私は同じことを繰り返すに違いない。  それだけは、自信があった。  貴子にとっては、初めて厳格な父を裏切る行為に手を染めた。その夜から、データを消すか、如何に使うかの葛藤が睡眠時間を奪っていった。  10月下旬の頃だった。  寝ても覚めても五十嵐の事を考える事で、貴子の欲求は罪悪感を薄れさせていった。最初に五十嵐に携帯電話で連絡をとったのは貴子のほうだった。職務上、聞き忘れた事柄の確認だと口実を設けて。  電話口の五十嵐の声は数か月ぶりにしては新鮮に感じた。  耳孔がひくひくと声の一言一言を味わっているように感じた。  貴子はそれで満足する気でいた。  しかし、それは許されなかった。  著名なダンスグループにいても可笑しくないイケメンでガタイも良く、身長もある五十嵐は、その容貌を活かして数々の女を食い物にしていた。  酒場や街中でナンパし、惚れさせ、暴力で支配する。飴と鞭を巧みに使い分け借金漬けにし、息詰まると風俗に紹介して、その上前を撥ねていた。そんな五十嵐だからこそ、貴子の電話の対応に単なる職務以外のものを感じるのは火を見るよりも明らかだった。  五十嵐の携帯電話に貴子の電話番号が残っていた。  その時は気にしなかったがやけにその携帯電話の番号が気になり始めていた。  「俺の感は、この女、釣れる、と囁いている」。いい具合に時間も経っている。そう思った瞬間、五十嵐は、躊躇うことなく貴子に電話をした。  「もしもし、五十嵐だけど」    貴子は驚きを隠せないでいた。  それは電話口でも十分に五十嵐には伝わった。  貴子は電話をしたことで自分の欲求に一区切りつけていた。  電話を掛けて数日間は、罪悪感で心穏やかではなかったが、何事もない日常が平常を取り戻してくれていた。その平穏な日常が一本の電話で崩れ去った思いがした。  悪事に慣れていないものは、罪を犯す免疫がない。それだけに動揺は隠す術など知りようがなかった。  「な、なぜ、私の番号が分かったの?」  「やっぱりな。これ、君、個人の番号だろう」  「ち、違うは。これは…」  「まぁ、いい。俺も君の声を聴きたかったんだ、有難う、嬉しかったよ」  「あああ、あのぉ、もう、掛けてこないでください」  「あれ、迷惑だった?残念だなぁ、俺はてっきり、デートの誘いだと期待していたのに」  「そ、そ、そんなはず、あるわけないです」  「なら、何故、そんなに焦っているのかなぁ、俺のドキドキが伝わったのかと喜んでいるのに」  「何、言っているんですか、そんなことある訳がないじゃですか?」  「そうか、悲しいなぁ、俺は嬉しかったのに、このドキドキ」  「じゃぁ、用事がないなら切ります」  「あっ、待って。ありがとう、君の声が聴けて嬉しかったよ、貴子、じゃ」  大樹は、貴子が恋愛に免疫がないことを直ぐに悟った。  案の定、貴子は動揺の色を隠せないでいた。  当初は、表と裏の社会での個人的な繋がりを掘り起こしてしまった懺悔の気持ちと、大樹が最後に放った「貴子」と呼び捨てにされた至福感とが貴子の心中を困惑の渦に引き込んでいった。  それから、毎日のように電話が掛かってきた。  日常の報告を砕けた言い回しで、面白く一方的に話してくる。  三日ほど連続すると、三日ほど連絡が来ない。  この駆け引きが味気ない貴子の生活に禁断の味付けを施していく。  着信拒否をすれば済むことだった。  しかし、貴子はそれを拒んだ。  何某か危険な香りの誘惑、まだ知らぬ世界への好奇心が勝っていた。  それでも、貴子の心中では、なぜ、断ち切らないの、断ち切れないの?断ち切ればこの胸の高鳴りの正体は分からないわ、私は、私はどうすればいいの、と言った葛藤が繰り返されていた。  正論は、非日常を日常に戻す。  刺激が欲しい。  平凡な生活に飽き飽きしていた貴子にとって、正論など導き出されないのは至極当然の話だった。  これが人の性か?  欲求と言う心を犯すウイルスか?  貴子の脳裏では、天使と悪魔が激しく応戦していた。  天使は言う、立場を考えろ、と。  悪魔が言う、惹かれていているんだろう、ならば、自分の気持ちに素直になればいいじゃないか、それの何がダメなんだ、と。  厳格な世界での自分の過ちより、別世界で優しくされる至福感を求めていることに貴子は気づき始めていた。  五十嵐に電話を掛けた時の記憶が蘇ってきた。  後々のごたごたを考えれば、非通知にすればよかった。  それを不審がって相手が出なければそれでよかった。  でも、そうはしなかった。  万が一、五十嵐が自分に興味を持っていてくれば、折り返し電話してきてくれるはず。電話がかかってくるか、こないかの微かな期待は、貴子の平凡な日常をざわつかせた。ダメならすっきりと忘れられる、それくらいにしか考えていなかった。予想通り、電話はかかってこなかった。  貴子にとって、それで終わりのはずだった、いや、終わりにするつもりだった。  それなのに、それなのに…。  忘れた頃に電話を掛けてくるなんて。  不意を突かれた。  単なる電話が、運命の電話だと乙女心が騒ぐほどに。  ふたりを結びつけた赤黒く熟した果実が、泥濘にへばりつきながらゆっくりとゆっくりと沈み込んでいくのを貴子が、気づくはずもなかった。  いつもより連絡のない長い日々が、貴子を正常に戻そうとしていた。  瘡蓋(かさぶた)を剥すようにふいに着信音が鳴った。  五十嵐からだった。  運命の分岐点がそこにあった。  出なければ、ときめきの記憶。  出れば、はらはらの事態に。  何となく、そんな気分になっていた。  「久しぶりね、元気だった?」    貴子の問いかけに五十嵐は無言だった。  姿は見えなくても、様子がいつもと違うことは直ぐに分かった。     「どうしたの、何かあった?」  「…」     あるはずのものがないことは、人の不安を駆り立てる。  その緊張は、相手の物であっても自分の物のように錯覚させる。  「何があったの?私、何か、力になれる?」  食いついたぜ。電話口の五十嵐の口角が上がった。  「俺、足を洗おうと、思って…」  「えっ?」  「堅気になって、お前と暮らしたいんだ」  「どうしたのよ、急に」  「一緒になるにしても、俺、筋を通したいんだ。おとうさんに許してもらわないと…。分かってるさ、俺はゴミさ。嫌われて当たり前だ。俺が悪いんだ。でもな、本気で向き合えば分かって貰えると思うんだ、時間は掛かるけど…。まともな仕事について頑張っていれば…。認めてもらわなくてもいい、黙認してくれれば。それだけでも俺、頑張れるからさ」  「ちょっと待ってよ、付き合ってもいないのに一緒になるなんて」  「分かっているだろ貴子だって。人を好きになるのは理屈じゃない、ビビッとくる感覚さ、相性っていうか、俺、勘だけはいいんだ。その勘が貴子を失ったら一生後悔するって」  「そんなことを言われても…」  「そうだな、ゴメン。じゃ、会おうよ。それで、貴子が来なければ、俺、諦めるから、俺のケジメさ」  「一方的ねぇ」  貴子は、五十嵐の強引さが満更でもない気分になっていた。  「迷惑かなぁ」  「迷惑なんて…」  「じゃ、決まりだな」  「でも、そんなの組が許すの?簡単じゃないでしょ?」  「ああ、難しいだろうな。でも、俺の気持ちは固まっている。例え、半殺しの目にあっても、おやじに頼んでみるさ」  「無理しちゃ、ダメよ。他に何か方法はないの?」  「俺、バカだからさぁ、ぶち当たるしか思いつかないよ」  「危険な真似はしないで」    五十嵐は貴子の自分への関心が、図々しい人から同情や心配を施す人に変わってきていることを見逃さなかった。  人は人に頼られた時、浮足立つ。  自分の置かれている立場が薄れ、相手の事を優先する感情が芽生える。母性本能というか相手を守ることで自分の存在価値を見出すことになる。俗にいえば、私がいなければ、私だけが助けなければと思わせることで心を乗っ取る術をすけこましの五十嵐は熟知していた。  貴子を術中に嵌めたと確信した五十嵐は、健気な態度で不安を装い、心配を掛け、不安を駆り立てる手段に出た。  「ああ、有難う、待っててくれ、じゃぁ」  五十嵐は、心配・不安の種を貴子の心に撒き散らし、貴子の母性本能により発芽するのを待つだけだった。  貴子の心配は日に日に増し、不安と心配は五十嵐への思いへと摩り替えられていった。暇な時間があれば、ついつい五十嵐の事を考えてしまう。そんな自分に気づく。 まさに、吊り橋効果を自ら作り出していた。  一方、五十嵐は貴子の動揺を嘲笑うように着信を拒否し、繁華街で女を吊り上げ、風俗に売る小遣い稼ぎに勤しんでいた。  五日程経った頃、五十嵐は行動に移した。  「健太、ちょっとこいや」  「何ですか、兄貴」  「お前、特殊メイクをやってたよな」  「才能ないですよ。だから、ここに居ますから」  「まぁ、いい。殴られた感じに見えれば」  「何のために?」  「いいから、やれ」  「はい」  健太は、メイクに必要な道具を調達するとすぐさま取り掛かった。    「これで、どうです?」  「上手いじゃないか、それらしく見えるぜ」  「うおっす」  「じゃ、よりリアルにするため、俺を殴れ、手加減するなよ」  「いやいやいや、そんなこと出来ませんよ」  「仕事だ、仕事」  「仕事って?」  「お前には関係ない、やれ」  「じゃぁ、行きますよ」  バーン。  「はぁ~、そんなに俺が憎いか…、痛てぇ~」  「すいません」  「いや、いいんだ。これでいい物でも食べろ」  五十嵐は健太に二万円を渡して、事前に調べて於いた一人住まいの貴子の部屋に向かった。その途中に公園を見つけると転げ回ったり、地面に服を強く擦り付けて、メイクのリアル感を出した。  深夜、貴子の玄関ドアに何かが倒れ掛かる音がした。  「何?」  恐る恐る玄関に近づいた。ドアスコープで見ても何も見えなかった。しかし、人の気配はした。  「誰?誰なの?」  「お、俺だ」  貴子は、尋常でない五十嵐の声に動転し、慌てて鍵を開けた。そこには、殴られたのだろう五十嵐が座り込んでいた。  なぜ、私の自宅を知っているの?  そんな疑惑は、目の前の壮絶な光景に、あっさりと打ち消された。  「大丈夫?」  「い、痛てぇ」  「兎に角、入って」  「すまない」  冷静であれば、直ぐに分かったはずだが、事務職の貴子には見慣れない光景に動転し、真偽の判断など出来ないでいた。  五十嵐は、メイクがばれないように、近寄る貴子を遠ざけながら言った。  「すまない、シャワーを借りていいか」  「ええ」  許しを得た五十嵐は、逃げるようにバスルームに駆け込んだ。  傷口が剥がれないように気を使いながら、血糊や汚れを丁寧に洗い流し、少し時間を潰した。そして、バスルームから貴子に声を掛けた。  「貴子、すまない、何か着る物はないか?」  「着る物って言ったってぇ」  「何でもいいさ」  生真面目な女の独り暮らし。男に着せるようなものはなかった。辛うじてあったのがバスローブだった。  「これしかないけど」  「ああ、ありがとう。あっ、そうだ、電気を消してくれないか」  「どうして?」  「男に恥を掻かせるもんじゃないぜ」     貴子は言われた通り、常夜灯に切り替えた。部屋が暗くなるのを確認して、五十嵐はバスルームから出てきた。  薄明りの中でもピチピチのバスローブに包まれた五十嵐が伺えた。  「ふふふふ」  「何が可笑しいんだ」  「ああ、ごめんなさい。でも、その恰好をみると…」  「ひどいなぁ」  貴子は缶ビールを瓶に開け、五十嵐に渡した。五十嵐はビールを一気飲みした。  「大丈夫?」  五十嵐は、慌てて口内の傷に沁みた様に痛がって見せた。  五十嵐は、ことの経緯を貴子に耽々と語った。貴子は黙ってそれを聞いていた。  「…と言う訳で、おやじは組を抜けることを許してくれたよ」  「そう、良かったわね」  「ああ、おやじは許してくれたが兄貴がキレやがって、このざまさ」  「何て、酷いことを」  「仕方ないさ、俺が悪いんだから」  「ううん、あなたは悪くないわ、真面目になろうとしているんだから」  五十嵐は、俯くと泣いて見せた。  「どうしたのよ?」  「俺、優しくされるのって、ないから」  「(五十嵐)大樹」  そう言うと貴子は、俯く五十嵐を抱き寄せた。  ここまでくれば、流れに任せて一つになるだけだった。五十嵐は、貴子を一旦引き離すと激しく抱きしめた。男と女、非日常の興奮が貴子の理性を払拭した。  五十嵐の企ては見事に実を結んだ。後は、翌朝、怪我のない姿を見られない様に貴子を熟練の技と体力で甚振り、疲れさせるだけだった。  翌朝、貴子が目を覚ますと五十嵐はいなかった。テーブルの上に一輪挿しがあり、そのコップの下にメモがあった。  そこには、ありがとう、昨夜は嬉しかったよ。仕事を探しに行くわ。待っててくれ。後ろ指さされない男として戻ってくるまで。と残されていた。  貴子にとってスリリングな一夜を過ごした気分だった。その日から、五十嵐からの電話が待ち遠して堪らなくなった。  二、三日して五十嵐から電話があった。  「仕事、見つかった?」  「いや、まだだ…」  「何か力になれる?」  「ああ、いや…、大丈夫」  「何?何かあったのね」  「いや、大丈夫だ」  「いいから言って」  「…」  「私、隠し事されるのって嫌いなの、だから言って」  「ああ、実はあにきが…」  「その人がどうしたの?」  「おやじは許しても俺は許さないって。仕事が決まったら邪魔をするって」  「そんな、何とかならないの」  「なる事はなるんだけど」  「どうすればいいの?」  「ケジメの金を寄こせって…、ああ、いいんだ、働いて用意するから」  「仕事が決まったの?まだでしょ」  「ああ、でも、面倒に巻き込みたくないから…、何とかするよ」  「何とかって、どうするのよ」  「分かんないよ、そんなの」  「分かったわ、幾らいるの?」  「何言ってんだ、これは俺の問題だ」  「もう、私の問題でもあるわ、いいから言って、さぁ」  「す、すまない。あにきが言うには五十万だって?」  「五十万?」  「いいよ」  「何がいいのよ。それがなければ真面目に生きられないのでしょ」  「自業自得さ」  「分かった、私が用意するわ」  「そんなぁ~。す、すまない。必ず返すから」  「男なら、簡単にすまないって言わないの」  「すまない」  「ほら、またぁ」  ふたりは、境遇を共用することでひとつとなり、笑い声が込み上げてきた。  人目のない公園で待ち合わせ、貴子から金を受け取った五十嵐は、健太を食事に誘った。  「健太、今日は好きなものを食わせてやるぜ」  「御馳になります。どうしたんすか、偉く羽振りがいいじゃないですか」  「お前のお蔭でも、ある。だから、遠慮はいらねぇよ」  「俺のお蔭…、あっ、あのメイクですか」  「そう言うことだ」  「またまたまたぁ。兄貴のことだから、怪我をしたからって、女をだました?」  「まぁな。細かい事は気にするな、さぁ、いくぞ」  健太は、五十嵐の女を誑し込む才能に憧れを抱いていた。  貴子は、五十嵐の境遇を憂えていた。金は渡した。しかし、その後の展開が何ら報告されていない。五十嵐への心配は、連絡のない怒りに変わりつつあった。  そんな貴子の気持ちを盗み見ていたように、五十嵐から電話があった。  「すまない、連絡が遅れて」  「どうしてたのよ」  「あっ、ありがとう。あの金で兄貴の怒りは治まったよ」  「それは良かったわね」  「金は必ず返すから。そのためにも、早く働き口を探さないといけないから、あちらこちらに当たっていたんだ。なぁ、喜んでくれるか、仕事が決まりそうなんだ」  「そ、そうなの?それは良かったわね。で、どんな仕事?」  「配達の仕事さ。まぁ、助手だけどね」  「真面目に勤めなさいよ」  「分かってるよ。で、早く仕事に慣れたいから、当分、連絡が取れなくなるけど心配しないでくれ。人間関係ってやつを作るために頑張りたいんだ」  「そ、そう、それは大事だもんね」  「ああ、俺にとっては一番の難関かも知れないよ」  「短気は損気よ」  「分かっているって。我慢我慢だろ」  「そうね」  「じゃ、落ち着いたらまた連絡するよ、待っててくれるか?」  「ええ。お金を貸しているもんね」  「参ったなぁ、ああ、待っててくれ、俺、頑張るからさ」  「期待しないで、待っていることにするわ」  「信用ねぇなぁ」  「はい、信用させてください」  「おう。じゃぁな」  「頑張って」  貴子の怒りはあっさり治まり、胸ときめく期待と希望に変わっていた。  メールによる近況報告は毎日のようにあった。そのやり取りは、会わずして二人の関係を親密にしていった。一ヶ月程が経ったある日、五十嵐から電話があった。  「あら、どうしたの?もう、仕事に慣れた?」  「ああ、何とか上手くやっているさ…」  「どうしたの?何か様子が変だけど?」  「いや、大丈夫だ、慣れないことで疲れているだけさ」  「はいはい、何を強がっているのよ。問題発生って感じよ」  「わ、分かるのか?」  「あんた、分かり易よ」  「そうか。実は問題が出来たんだ」  「何したのよ、また、喧嘩?」  「信用ねぇなぁ、俺?そんなんじゃないよ」  「ごめんごめん。じゃ、どうしたのよ?」  「会社の業績が悪化して、人員整理の話が噂されているんだ」  「勤めたばかりなのに?」  「ああ、詳しくは知らないけど、不当手形を掴まされたみたいで」  「それでリストラの噂が」  「ああ、それで助手の俺は危ないって、聞かされて…」  「何とかならないの?」  「俺も聞いてみたよ、そしたら運転免許を持っていればって」  「免許を持っていないの?」  「持っていない。それに先立つものもないからな。これも自業自得さ、そうなったら諦めるさ」  「自棄にならないでよ、折角、立ち直ろうとしているのに?」  「仕方ないさ、ない袖は振れないし、そんな金があったら貴子に先に返すのが男の筋だからな」  「私のことはいいのよ。それより運転免許があれば何とかなるのね」  「確実ではないけど、ないよりはましかな」  「じゃ、取れば」  「簡単に言うなよ、先立つものがないって言うのに」  「いいわ、私が出してあげるわよ」  「何言ってんだよ、幾ら掛かるか知っているのか?」  「分かっているわよ」  「しかし、無収入の俺が貴子に借りるなんて出来ないよ」  「いいから、さっさと免許、取りなさいよ。あんたが免許を取得するのが早いか、会社が耐えきれないかの勝負よ。戦わずに逃げるつもり?それでも男?」  「言ってくれるじゃないか、面白い、やってやるよ、その勝負」  「じゃ、あなたは教習所を探すことね。見つけたら連絡して、軍資金を渡すから」  「すまない、世話ばかり掛けて」  「乗り掛かった舟よ」  五十嵐は、いっぱしの女たらし。女性の母性本能を甚振る術は熟知していた。それに貴子は見事に嵌った。貴子にしてみれば、五十嵐は自分がいなければ上手くいかない、そう思うことで自分の存在を感じ、その快感に酔いしれ始めていた。  免許のやり取りから三日も経たずに五十嵐から、自動車学校のパンフレットと価格表がメールされてきた。貴子は前回と同じ段取りで三十万円を五十嵐に渡した。  それから数日して自動車学校の看板を前に五十嵐が立つ写真が送られてき、今から学科です、との一文が添えられていた。  それからは、学科の授業が眠いとか、教習所内の運転での感想、仮免まで進んだ嬉しさなどが送られてくるようになった。  貴子は何の疑いもなく、五十嵐のメールに応じていた。  五十嵐は、簡単に手に入れた貴子からの金を豪遊で使い果たしていた。金が底を吐きそうになると給与が遅滞しているとか、借金していた返済日が迫っているとか、何かと理由を付けて、金を無心していた。  何度か会ってもいた。  五十嵐の行動に不信感を抱いた貴子は、幾度か問い質した。その都度、貴子は、五十嵐の自分を正当化した高圧的な言動と態度に怯えと不安を抱かされた。  その後、決まって、捨て猫の様に慕い縋りつかれ、貴子は、心と体を強く求められた。それは刺激的だった。真面目な生活を送っていた貴子は逃げられないでいた。  交際を密かに続けていた貴子に罪悪感が圧し寄せてきた。    女性警察官とヤクザの許されざる恋。  仕事一筋だった生活が一変した。もしかしたら自分は利用されているのではないか。いや、一人の女性として彼は自分を愛してくれているはず、そう思う事で自制心を保ってた。  いけないことをしているとはわかっていても、気持ちを抑えるのは難しかった。そうした貴子の様子を五十嵐が見逃すはずはなく、そんな気持ちを甚振るように要求は大胆になっていった。  五十嵐は、貴子に「最近、見張られている気がする。自分または組が、捜査対象になっている事件はあるか」と尋ねきた。  貴子は、五十嵐が以前犯した傷害事件の容疑者の一人であることを知っていたが、答えられるはずもなく、曖昧な返事で誤魔化していた。それでも、しつこく聞き続ける五十嵐に不信感を募り、それは危うさに変化していった。  流石に鈍感な貴子も、五十嵐の執拗な問い掛けに自らの置かれている立場を考えざる得なかった。  「捜査が進めば、自分たちの関係が公になってしまうかもしれない。そうなれば、警察官を続けることはできない」  その裏では、五十嵐が自分を一人の女性として愛してくれているはず、と思う気持ちは正常な認識と葛藤を繰り広げていた。  ある賭けに出た、貴子は、五十嵐を信じて。  捜査情報を教えれば、五十嵐は交際の事実を黙っていてくれるのではないか?  五十嵐が自分との関係継続を望んでいるなら、きっとそうするはずだ。  まだ見習いの貴子にはたいした情報は得られない。でも、自分たちの関係がバレては困る。そこで、上司の目を盗み、こっそりと捜査書類を覗き込んだ。  思いのほかあっさり情報は手に入り、ホッと胸をなでおろす。踊る心を抑え、すぐに貴子は五十嵐に電話をかけ、事件の罪名、捜査の進捗状況を教えた。  警察官が容疑者に捜査内容を話す。超えてはいけない一線だった。  組員の知らないはずの情報をもとにがさ入れがなされた。  それが無駄に終わった。  万全を期していた。それが水の泡になった。  署員の成功の要は結束。誰もが疑わないでいた事実。  どう考えても作戦にミスはなかった。だが、破綻した。  作戦にミスがない以上、情報の漏洩しか考えが及ばなかった。あり得ないことだった。仲間を疑う苦悩、それは、当たり前のように徒労に終わった。  一線を越えてしまった貴子に明らかな弱みができた。それを放置する程、五十嵐は甘くなかった。その日を境に五十嵐からの要求はさらにエスカレートした。  捜査情報を尋ねるだけでなく、小遣いをせびるようになった。  額は数万円から数十万円とどんどん膨れ上がっていた。貴子が五十嵐に貢いだ金額は、総額で100万円にものぼった。もう、限界だった。金の切れ目は縁の切れ目。虚しい現実を目の当たりにした。  やはり、自分は利用されていただけなのか?  貴子の気持ちは急激に冷めた。女性の心は秋の空。厄介な事に巻き込んだのは五十嵐だ。私が悪いわけではない。そう、自分に言い聞かせた。  一旦嫌気がさせば、呆気ない程、潮目が引く。男性程、執着心を後に引き摺らない。交際を一方的に解消した。  五十嵐もまた相手が相手だけに深追いは、身を滅ぼすことを熟知していた。  新宿署の「ともちん」にとっては高い授業料となったが、本来ならばこれですべて闇の中、終わる話のはずだった。しかし、想定外の出来事が起こった。  五十嵐の舎弟の佐藤健太が美人局の容疑で逮捕された。  その取り調べで、追い詰められた健太は苦し紛れに、「俺の兄貴はヤクザで、その女は刑事だぞ」と見栄を張った。  誰もが最初は、耳を疑った。  自慢気に馬鹿げた巨勢を張る健太を落とすことぐらいは、ベテランの捜査員にとっては、赤子の手をひねるように容易い事だった。  詳細を聞き出すとすぐにその女の刑事に該当する対象者が浮かび上がった。  真面目を絵にかいたような女性警察官。その父は、現職の警部。  当然ながら、捜査は極秘に行われた。  新宿署は、貴子について張り込みも含めた捜査を開始した。  警察署内部の不祥事。  しかも、その親は模範の叩き上げの警察官。捜査は慎重の上にも慎重を期した。  捜査過程で新たな事実が発覚する。  内偵捜査が入り、貴子の行動確認がなされていた。その最中に現職の警視庁の警察官と貴子が一緒にホテルに入るところを目撃・確認された。その現職警察官は、妻子持ち。いわゆる不倫だった。  職務規定違反を犯すほど男に入れあげたのに、結局、利用されただけだった貴子。  ポッカリと空いた心の穴。その穴を美味しく頂こうとする者の欲望には、見逃せない上物に映った。貴子にしては、他の男性と付き合うことで、心と体の寂しさを埋めようとしても致し方ないことかもしれない。  一度、落ちた者には試練が付き纏う。  急がば回れ。  心の隙を衝かれぬ事。  貴子の落ち込む姿は、飢えた狼には美味しい餌に見えた。優しさと言う隠れ蓑に身を包み、親身になって相談者になる。  言えない苦しみ、犯した罪悪感を脱ぎされる時間をたっぷりお膳立てし、浸透するのを待つだけでよかった。  その罠、心の隙には得てして、羊の皮を被った狼が近づいてくるもの。冷静でいられない時こそ、神は、冷静さを保ち客観的に物事を見られるかの試練が与えられる。この試練こそが、今後の生き方を左右することになる。  暗いと文句を言うより、進んで灯りをつけましょう、と誰かが言った。    貴子は、明らかに灯りの灯し方を誤った。  縋る事によって現実逃避を選んでしまった貴子は、底なし沼に足を踏み入れた。  警視庁は、捜査線上に浮上した貴子に事情聴取した。貴子は自分を清算するように、すべてを認めた。その結果、警察内部からの秘密漏洩が発覚した。  新宿署の女性巡査・高城貴子、23歳は、交際していた難葉会三次団体の暴力団組員の五十嵐大樹に捜査情報を漏らしたとして書類送検された。   警視庁は、貴子に停職六ヵ月の懲戒処分を課す。同日付で貴子は、依願退職した。  その後、貴子は実家に引きこもった。  暗い部屋の中、ひとり、自分の犯した過ちと後悔と向き合う時間を過ごすことになる。過ちを犯した者が思う事、それは、時間よ、戻れ。その願いは叶わない。  走馬灯のように押し寄せる思い起こしたくない過去の出来事と向き合い、自分自身を責め立てる。与えられた試練の向き合い方を誤ったツケを貴子は、新たな孤独と言う牢獄で過ごすことになった。  確かなのは、もう、父のような立派な警察官になるという夢が叶うことはない、と言うことだった。
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