79人が本棚に入れています
本棚に追加
Rosa rugosa ハマナス-3
佑輔は、郁也の合宿が終わるのを待っていてくれた。
この夏は、ふたりとも学院の補習を取ってみた。地元のH大対策にノウハウのある教師陣による補習は、特に佑輔にとって意義深いものだった。
昨日の朝郁也の家からふたりでここにやって来て、それぞれのクラスに出たままもう三十時間経つ。学院の図書室で、佑輔は郁也の部活が終わるのを待っていた。
地方随一の名門校。その図書室が閉まるのは司書の先生の休みの日だけ。それ以外は夏休み中であろうと生徒に開放されている。
合宿所として使われる古い建物は「記念館」と呼ばれていた。北国の古民家そのままのそこを、郁也はいち早く後にした。掃除や鍵の返却は、後輩たちと部長の横田にお任せだ。
佑輔クンに、早く逢いたい。もう待てない。
郁也は図書室へ急いだ。夏休み期間のこの時間なら空いている。郁也が直接向かっても、変に思うひとはいないと思った。いつもならメールを打ってどこかで落ち合うところを、郁也は待ちきれず直接教室棟の三階へ走った。
真鍮の把手を思い切り押し、郁也は図書室へ駆け込んだ。
静かな午後四時の図書室で、佑輔はひとりシャーペンを走らせていた。扉が開く音に佑輔は顔を上げた。郁也は司書室で船を漕ぐパートのおばさん先生を横目で確かめ、佑輔のいる机へ向かった。
「よお。終わったのか」
「うん。ようやくね」
郁也は司書室に背を向けて、佑輔の手をきゅっと握った。
もう出し惜しみ、しないんだ。
「早く逢いたくて、来ちゃった」
郁也は照れて笑った。
佑輔は「珍しいな。どうした」と言って、眩しそうに郁也を見上げている。
どうして早く気づかなかったんだろう。
郁也が笑うと、佑輔はこんなに幸せそうにする。郁也が気持ちを言葉にすると、佑輔はこんなに嬉しそうに笑うのに。
そして郁也は、他のどんなものより、佑輔の笑顔で幸せになれるのに。
郁也の身体。
この身体で、出来ること、与えられる感覚。
それら全てを、郁也は祝福されたように感じていた。
光の中で郁也が感じた恩寵は、郁也がそれらの全てを許されていることを教えてくれた。郁也がそれらを用いることは、今祝福の光の中にある。
この身体で佑輔を愛すること、抱き締めること。郁也はそれをもう後ろめたく思う必要がない。それらは充分に祝福された、聖なる行為だった。
「星がキレイだったよ、ゆうべ。佑輔クンにも見せたかったな」
「そうか」と佑輔は頷いて、素早く撤収準備を済ませ、布鞄を肩に吊し立ち上がった。並ぶと佑輔の方が少し大きい。郁也の目の高さは佑輔の鼻の高さにあった。
「あれ」
「ん。どした」
「佑輔クン、背縮んだ?」
佑輔は笑って郁也の頭をくしゃっと引き寄せた。
「んな訳ないだろ。どう考えても、郁の背が伸びたんだよ」
少し前まで、郁也には佑輔の唇が見えていたものだった。郁也は目を伏せ、そして笑った。
「そっか。ボクも男のコだもんね。まだまだ大きくなるかもね」
一八〇センチに届こうとする佑輔の背を、いつか追い越してしまうことがあったら。郁也はずっと不安だった。だが、背丈なんて些末なことだ。
佑輔が気遣わしげに郁也の瞳をのぞき込んでいた。こうしたことで郁也がよく悲しい気持ちになるのを、佑輔は知っている。
「……平気、だよ」
「郁」
「もう、そんなことでくよくよしないんだ。そりゃ、出来れば可愛い女のコに近い姿でいたいとは思うけど」
佑輔は図書館の扉を押さえ郁也が通るのを待った。そしてふたりはどちらからともなく手を繋ぎ指を絡めた。誰かすれ違うものと出合うまで。
「佑輔クン」
「ん?」
「佑輔クンは、ボクがごついゴリラみたいになっても、まだボクを好きでいられる?」
「ゴリラかあ。自信ないなあ」
「何だよそれっ」
郁也は手を振りほどき、握り拳で佑輔の肩をポカポカ叩いた。佑輔は笑い声を上げて応戦した。階段に差しかかり、ふたりがまた指を絡めたとき佑輔は小さく言った。
「嘘だよ。ゴリラだって、愛せるよ」
「本当かなあ」
「本当さ。……郁が悲しむといけないと思って今まで言わなかったけど」
俺にとっては、同じ学院の谷口を好きになってしまったってことが一番大変だったんだから。そこから先は、もう大して変わりないんだ。
(佑輔クン……)
郁也は嬉しくてまた泣いてしまった。
佑輔は階段の蔭で、郁也が泣き止むまでずっと、郁也の頭を撫でて抱いていてくれた。
そうキレイに生まれつくと、泣いてもキレイなんだなあ。
呆れたように佑輔が言った。
目の周りが腫れてブスじゃない? と郁也が訊いても「ちっとも。不思議だなあ」と佑輔は首を捻っていた。
休み期間は通学バスの本数が減る。ふたりがバス停へ向かっていると、路肩に停まった車からひとりの男が顔を出した。
「よお佑輔。遅かったじゃないか」
佑輔の顔色が変わった。
「兄貴」
手を離していてよかった。
佑輔の兄は「話をしよう」と言った。
佑輔は「話すことなどない」と横を向いたが、郁也には考えがあった。
郁也は場所を提案したが、佑輔の兄は相手のペースに嵌ることを警戒したのか、それを拒んだ。
代わりに兄は河川敷に車を入れた。街を流れる大きな川のほとりに幾つかある公園、競技場の類には駐車場が用意されてある。そのひとつに兄は車を停め、ひとのいない堤防をしばらく歩いた。
遠くに釣り人が糸を垂れていた。工場の廃液で独特の臭気のあるこの川で、魚信などあるのだろうか。郁也は不思議に思った。時代は変わり工場もかつての賑わいはないが、まだまだ川の向こう半分は茶色く変色しているのに。
「まだ続いてるのか」
苦々しげに佑輔の兄は詰問した。
「何だよ、話って。勿体振りやがって」と痺れを切らした佑輔が水を向けたのに答えて、兄は質問返しできたのだった。
唇を開きかけた佑輔を郁也は制した。
「瀬川君、君も案外ひとが悪いね。まだ話してなかったの?」
郁也はくっくっく、と咽の奥に絡んだ笑い声を立てた。
「駄目じゃないか。こんなひとの好さそうなお兄さんを揶揄っちゃ」
そう言って郁也は佑輔の兄を横目でちらりと見遣った。兄は面食らったのか目を見開いて黙っている。郁也は佑輔の表情を一瞬だけ確認した。
大丈夫だ。佑輔は郁也の意図を理解して黙っている。
郁也は数度頷いた。
「言って上げたらどう? あれは罰ゲームだったって。本気にしたりしちゃ、笑われますよって」
佑輔の兄は押し潰した声で「……罰ゲーム?」とようやく訊いた。
「ええ。クラスの何人かで、賭けをしたんです。賭けの内容については、学院生特有の下らないもので、まあ、説明は控えますけど」
地元で一番優秀な彼らの世界が余人に理解出来るものか。そんな尊大さを口調のどこかに忍ばせて、郁也は嫌味にくすりと笑った。
「それにしても、それを本気に取るひとがいたなんて。しかも、その様子を面白がってこんなに何日も誤解させたまま引っ張るなんて。瀬川君、君って結構意地悪なんだねえ?」
郁也はくすくすと笑い続けた。可笑しくて可笑しくてたまらないというような冷ややかな笑い。上品だが厭味たっぷりで、性格の悪いお坊ちゃま丸出しだ。
「瀬川君のお楽しみを邪魔して悪かったけど、これ以上つき合わされちゃ迷惑だし、喋っちゃったよ。いいよね」
郁也は佑輔をじろっと見た。「芝居につき合え」というサインだった。佑輔は肩をすくめて見せた。
「ああ。面白かったから、もう少し見ていたかったけどな」
これを親とかに告げ口してたら、もっと面白かっただろうに。佑輔は残念そうにそうつけ加えた。
佑輔の兄は口をあんぐり開けて二の句を告げずにいたが、しばらくして「お前、変わったな」と佑輔に言った。
結局「お坊ちゃま学校の雰囲気に毒されて」という兄の結論は変わらなかったようだ。
だが、佑輔が郁也とつき合っているのが知られることと、そうでないこととでは雲泥の差がある。そこだけは守り通すことが出来た。
佑輔の兄は黙って考えていたが、佑輔に「帰るぞ」と促して自分は先に歩き出した。
「ひとりで帰れよ、自分の家に。俺はまだ用がある」
佑輔は兄の背中に答えた。兄はちらっと振り返ったが、もう何も言わなかった。
これで兄がふたりに抱く印象が決まった。佑輔はいい弟だったのに、親が無理して入れたお坊ちゃま学校で鼻持ちならない金持ち共の空気に汚染され、同じように鼻持ちならない人間になってしまった。そして郁也は佑輔をそんな薄っぺらな人間に仕向けた、酷薄な学院生たちの代表という訳だ。
「あーあ。すっかり嫌われちゃったね、ボク」
郁也は遠く走り去る車を眺めそう言った。
「ごめんな。嫌な役させちゃって」
「いいんだ。これでとにかく時間は稼げた。お兄さん、もうボクらのこと疑ってないよね」
「ああ。それは大丈夫だろう」
あれだけの芝居をしたんだから、と佑輔は郁也に大きく頷いて見せた。
ふたりで一緒の大学へ行く。そうして一緒に暮らすんだ。
それまではまだ、知られたくない。
ただの友人同士。
そうでないと、共同で部屋を借りるなんてきっと許されない。
「せっかくボクが男のコに生まれたんだ。何かひとつくらいメリットがあってもいいよね」
そう郁也が言うと、佑輔は泣きそうに心配な顔をして郁也を見た。そして、言った。
「強くなったな。郁」
郁也は小さく首を傾げた。
「そうかな」
「そうだよ」
空が暗い。雨になりそうだ。
「俺たちも、行こうか」
佑輔は堤防の登り坂に足をかけた。
「ちょっと待って」
佑輔は振り返った。郁也は困ったように笑った。
「歩けない。脚、まだ震えてるの」
最初のコメントを投稿しよう!