Forsythia suspensa 連翹-2

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Forsythia suspensa 連翹-2

 放課後、掃除当番の義務を終えた郁也は、教室棟から専門棟へ続く廊下をみしみし言わせて理科室へ向かっていた。  由緒あるといえば聞こえはいいが、老朽化した建物だ。郁也たち学院生は、とりわけ歴史の長いここの廊下を茶化して「ウグイス張り」と呼んでいる。  専門棟一階の階段脇、美術室の手前で、郁也は開いた戸の外から呼び止められた。 「おーい、谷口。ちょっと来いよ」  松山が手を振っている。同じクラスの矢口、文系で美術部の中野が、松山とともに、木蔭に腰を下ろす。佑輔もいた。  郁也は丈の短い草を踏み分け外へ出た。松山が身体をずらして隣に座る佑輔との隙間を空けてくれたので、郁也はそこへ腰を下ろした。いつものメンバーだ。 「事故」の後、退院した郁也が学院に復帰した日から、彼らは郁也が安心して学院に通えるよう、何かと守ってくれている。心強い味方であった。    あの「事故」の後。  復帰一日目の放課後、今日のように理科室へ向かっていた郁也は、外で何やら話し込む一団を見た。松山、矢口、中野。郁也の「事故」の真相を知る面々だ。  郁也はその中に佑輔がいたのでどうしようか迷ったが、顔ぶれを確かめて外へ出た。彼らには、今更何を隠せるものじゃない。郁也の足許で枯葉が乾いた音を立てた。 「巨頭会談だね、どうしたの」  首を傾げてそう尋ねる郁也に、中野は「『どうしたの』じゃねえよ。お前サンのことだよ」とまばらに髭の伸びた顎をこすった。  女のコによくモテる矢口が、得意の気配りで「座りなよ」と腰を浮かせ、佑輔の隣に場所を作る。 「ボクのこと?」  郁也は不安げに佑輔を見た。佑輔は心配するなという目で頷いた。 「さて、今回のこと。知ってるのはここにいるメンバーと、それから……」  松山が切り出した。矢口が指を折る。 「谷口の休んでた先週分のノート、コピーを手分けしたのは、クラスの大塚と下谷だけど、あいつらがどこまで勘づいたかは微妙だな。俺は別に何も言ってないけど」  教室内では流動性はあるものの、似たもの同士がまとまりやすい。成績もそこそこよくてアクティブな、真面目一辺倒ではないタイプ。リーダーシップにも優れ、行事の際には中心的な役割を担う。  矢口を筆頭に、今彼が数え上げた連中は、そうしたグループに属するメンバーだった。この場にいる松山、佑輔もだ。 「あ、あの、矢口君。どうして、その、気がついたの」  郁也は頬を朱くして尋ねた。 「松山君は、その、分かる気がするんだけど。でも、矢口君はどうして?」  佑輔が「松山に殴られた」と口の端を腫らして病室に現れたとき。郁也は松山なら気づくのも当然かと思った。佑輔は松山とは中等部からの友人だ。佑輔の行動に何か変化があれば、真っ先に気づくのは彼だろう。  それに松山は郁也を大事にしてくれていた。学院祭で最も盛り上がるイベント、仮装行列で、郁也は二年連続で「仮装大賞」を獲っていた。  一年のときの「アリス」も、二年の「白雪姫」も、この松山の腕あっての入賞だった。演劇部で鍛えたメイクの技術だ。どこのクラスの誰よりも、自分たちのお姫さまはキレイにしてやるのだと張り切ってくれた。では矢口は何故。  矢口は軽く肩をすくめた。 「俺、そういうの分かるんだよ。昔から」 「おお、こうでなくちゃ、プレイボーイは気取れないぜ。なあ」  中野が口の端をにやっと上げた。  実際、矢口はプライベートでどんな遊び方をしているやら、校外にファンがわんさかいる。学院祭の仮装行列では他校の女子から、「矢口くーん」コールがかかる。噂では連れて歩く女のコがいつも違うとか。  矢口は頭を掻いたが反論はしない。プレイボーイを自認しているのだ。  郁也は「白雪姫」を演じてから、クラスの皆から一目置かれるようになっていた。  友人の横田は「暴走族とその『マスコット』」と笑うが、可憐なお姫さまの姿で皆の前に現れた郁也は、日頃女性に縁遠い彼らにとって、特別の敬意を払うべき存在となったのだ。 「ウケるが勝ち」の校風である。郁也をそんな風に扱うことは彼らにとって新しい、面白い遊びだった。本気の振りは、ごっこ遊びを最高に面白くする。キレイな郁也は格好の娯楽であった。  郁也が彼らの前を通るときは(みち)を空け、雨の日には傘を貸してくれる。そんな郁也と彼らをよく思わない隣のクラスのライバルたちには、故意と大袈裟に一丸となって憤慨する。  松山などは、郁也を悲しませたと言って、数年来の友人である佑輔を殴り飛ばしたりするほどだった。  佑輔は、郁也を悲しませた。「事故」の原因だ。  絶望に、郁也は理科室の窓から転落した。その怪我が癒えて、ようやく郁也は学院に復帰することが出来た。  傷は癒えるとき、周囲の組織を強固にする。細かい傷をつけることで皮膚を若々しく復元する技法が、医学にはある。人間社会にも同じような仕組みがあるのだろうか。 「担任の寺沢さん。彼も、だよな」  佑輔が郁也を振り返る。郁也はこくんと頷いた。頬が熱い。 「なるほどねえ。だから公式には『谷口は窓枠に引っかかっていた蝶を助けようとして落ちた』ことになっているんだ」  松山が感心したように首を振る。 「普通に考えたら、そんなこと、ありそうにないもんな」 「でも、当局側がそう認めてしまえば、誰も何も言えないよ」  郁也が嘘を吐いていることを分かった上で、担任がそれを認めたのだとしたら、学院側としてはそれ以上どうしようもない。彼らはホームルームで、安全に充分に配慮して行動するよう、漠然と訓示を受けただけで幕引きだった。 「担任がそういうスタンスなんだったら、何も俺が心配するこたなかったな」  中野がぼやく。伸び放題の長い髪を後ろでひとつに束ね、頬や顎には無精髭がボーボー。汚れ除けの白衣をだらしなく羽織って歩くその姿は、美術部の名物だ。    そのとき、傷だらけで地面に倒れる郁也を発見したのは中野だった。  当局が「事故」の隠蔽のためあれこれ画策しないかと、中野は急いで救急車を呼んでくれた。医療の介入は、ほんの数分の遅れが大きなダメージにつながることもあるからだ。  郁也とは中等部時代同じクラスだったこともあり、郁也を友人として尊重している。職業画家を目指す今では美術室に入り浸りで、郁也が部活を終えて帰るとき、何故か佑輔がそこを通りかかって、ふたり肩を並べて帰ることが多いのを知っていた。  だからこそ中野は佑輔に、郁也を悲しませることのないようにと忠告していたのだったが。 「とにかく」  松山がエヘンと咳払いした。 「快く思わないものもいるだろうから、まずはこれ以上事情を知るものを増やさないことだな。谷口と瀬川はこれまで通りの生活を送ること。『事故』の件は蒸し返さないように、クラスの連中には気をつけておこう。これは俺と、矢口の役目だな」 「アイサー」  矢口が敬礼で応える。 「中野サンは『顧問』つーことで、よろしく」  中野は「何でお前サンまで『中野サン』呼ばわりなんだ」などとぶつくさ言いながらも同意した。 「谷口よぉ。良かったな、その学ラン。ぴったりじゃねえか」  中野は自分の膝にだらりと肘を載せ、目を細めて郁也に言った。  二階から落ちた郁也が鎖骨のヒビとかすり傷で済んだのは、木の枝で衝撃が和らげられたからだった。その時着ていた制服は、枝にこすれてあちこち破れた。  郁也の着ている学ランにどこにも傷がないことを、中野はひと目で見抜いただろう。袖丈が郁也の腕には心持ち短かめなのを、中野は気づいたろうか。 「え……うん」  郁也は(分かった?)と恥ずかしそうに笑って見せた。中野はそれ以上何も言わず、ただ笑って幾度か頷いた。  赤、黄、褐色と、色とりどりの枯葉が降り注ぐ十月。この会議はそんな風にして始まった。
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