Forsythia suspensa 連翹-1

1/1
前へ
/32ページ
次へ

Forsythia suspensa 連翹-1

「そのままの郁がいい」  その言葉を貰ってから、八ヶ月。  また新緑の季節が巡ってきた。  その言葉と笑顔。それを郁也は宝石箱にそうっとしまった。きらきら輝く記憶の箱の、一番目立つキレイなところに。いつでも、どこへでも、郁也はそれを持って歩いていける。この胸の真ん中に、その宝石は輝いている。  どんな困難にぶつかっても、きっと郁也は生きていける。幸福な記憶。信頼と安心。それらは郁也の生の根元を、がっちり強固にしてくれた。  しばらくは、揺らがない。  揺らいだときには、また、ふたりで話し合えばいい。  郁也の頬を、遅い春の風が撫でていく。伸ばしかけの毛先がさわさわ揺れる。郁也は頬をくすぐる髪をかき上げた。学生服の紺色の袖が目に入る。  郁也をあれほど苦しめた、学ランの紺色。  だが、今郁也が纏っているのは、郁也を守護する魔法使いのマントだ。  もう何も怖くない。  悲しいことは、何も、ない。  球技大会も終わって、六月。これからしばらくは、全院挙げて七月の学院祭へまっしぐらだ。  夏休み直前に開催される学院祭は、彼ら東栄学院生にとって最も重要な催しで、準備にかける気合いたるや並でない。そのプログラム中でも、とくに「仮装大会」は。  あと一ヶ月と少し。今や学院中が不穏な空気に満ちていた。  昼休み、郁也は横田と机を挟み、天文部&物理部の展示テーマを相談していた。机の上にはいつもの科学雑誌。父の仕事の関係で、毎号出版社から送られてくる。 「客の入りをよくするなんて、簡単だよ」 「あっさり言い放ったな、谷口」  横田は中等部からの友人で、郁也と同じインドア志向の地味タイプだ。クラスでは似たもの同士がまとまりやすい。横田と同じクラスになれて、人見知りの郁也には幸運だった。 「うん。せっかく物理部と組むんだもの。ちょこちょこっと『ゲーム』とか『占い』とかのプログラム組んでさ、見えるところに看板出せば、それなりにひとは来るんじゃない?」 「……なるほど。アタマいいな、お前」 「ふふふ」  郁也は笑って首を傾げた。ちょっと顎を引いて首を傾げる。郁也の癖だ。  昨年、郁也たちの天文部は物理部と組んで、地味なテーマで展示をした。ポスター発表と天文写真の販売だけで、訪れる客も少なかった。郁也はラクが出来てよかったが、今年最高学年としての責任を負うと、部長を仰せつかった横田などは、もう少し部の存在感を増さねばと思っているようだ。  面倒な気もするが、今年で最後だ。郁也もしぶしぶながら、つき合ってやるかという気になっていた。  突然、廊下から素っ頓狂なきんきら声が近づいてきた。 「『伝説のミス東栄』ってどれすか? 例の、谷口サンてひと。ええーっ、コレすかー? 超地味じゃないすかあ。こんなのが二年連続『仮装大賞』タイトル保持の、あの、谷口郁也?」  けたたましい。随分と失礼なもの言いなのに、声音に気を取られて内容が耳に入らない。  甲高い声で喚き散らしながら三年の教室に上がり込んできたのは、その声に負けず劣らず派手な、地域随一の名門校たる東栄学院にはあまりに場違いな人間だった。波打つ茶髪に長い睫毛、耳にはピアスが幾つもぶら下がる。芸能人のように暑苦しい(なり)をしたそいつは、まっすぐ郁也を指差していた。 「ちょ、ちょっとハルくん」  そいつを、あろうことかのっぽの水上がおたおたと追いかけてきた。水上は物理部所属の天才で、教室でも、放課後の部室でも、郁也や横田と概ね行動を共にしている。いつも飄々とした水上がこんなに焦るなんて、珍しい。 「その言い方は……」 「トシくん。ホントにコレが、あの伝説の姫君? 随分雰囲気違うんじゃない?」 「ハルくんっ」  押しとどめようとした水上は、奮闘虚しくあっさり突破された。横田は耳を塞ぎながら水上に訊いた。 「水上ぃ。何だコレ」 「い、いや。これはそのう」  級友たちが集まってきた。 「何だ水上、その、びらびらしたのは」  松山が郁也を庇うように割って入る。 「ひとが珍しく勉強してんのに、うるせーよ」  矢口が教科書を手に、「五時間目、都築のグラマー、当たってんだよ」などとぶつぶつ言いながら松山に続く。  地域の名門校であるこの東栄学院は、中高一貫校である。高等部三年の彼らに見覚えのない生徒はまずいない。こんな派手な顔立ちなら尚のことだ。そいつが着ていたのは中等部の制服のテーラージャケットではなく、高等部の学ランだったのだから。 「へええ。親衛隊がすぐガードにつくんだ。流石だね」  ポケットに手を突っ込み、そいつは肩をそびやかして口笛を吹いた。水上が「ハルくん!」とたしなめるが、効果はない。 「『伝説のミス』って、どういうこと?」  それまで黙っていた郁也はようやく口を開き、郁也の目の前に立ちはだかるそいつの脇で、おろおろしている水上に尋ねた。 「いや、それはね……」  答えかけた水上を遮り、びらびらしたのが胸を反らした。 「寮に、あなたの写真が飾ってあります。門外不出のポートレートだって。去年の『白雪姫』と、一昨年の『アリス』と。寮生全員のアイドルですよ。そんなにキレイなひとなら、是非見習わせて貰おうと思って。僕たちのクラス、今年『アリス』演るんで」  水上を押しのけて、そいつは「今年の『仮装大賞』は僕が頂きますよ」と大見得を切った。   郁也は今初めて気づいたように、そいつに焦点を合わせた。 「誰」 「あ、谷口君。このコはねえ、僕の数学のサークルで一緒だった、須藤遙太(はるた)君。今年高等部に編入したんだ。一年生だよ。学院祭で『アリス』を演るから、どうしても谷口君に会わせてくれって言うんで……」  松山が「それで連れてきたのかよ」と横目でじろっと水上を睨むと、水上はその長身を申し訳なさそうに小さくすぼめた。  郁也はその整った顔立ちで相手をすっと見据えた。水上に紹介された須藤という一年は、郁也の冷たい眼差しに動じることなく郁也を見返した。 「須藤です。よろしくお願いします」  不敵に笑って須藤が片手を差し出した。郁也は無表情のまま科学雑誌に視線を戻す。須藤は悔しそうに唇を曲げ手を引っ込めた。すかさず次の攻撃を繰り出す。 「でも、実物はそんなでもないすね。メイクが良かったのかな。写真じゃ分からなかったけど、よっぽどすごい厚化粧だったの、トシくん」 「え、いや、そんなことは……」  何も言わないが郁也は明らかに気分を害している。須藤は無邪気を装って郁也を攻撃する。間に挟まれた水上は目を白黒させて困っていた。先年、一昨年と続けて仮装メンバーのメイクを担当した松山は、むっとして小柄な須藤を見下ろした。 「何だと、キサマ。俺ぁそんな厚く塗り込めたりしやしねえよ」  引火寸前の不穏な空気。郁也を取り囲む級友たちの肩が上がる。   予鈴が鳴った。水上はほっとして「ほら、予鈴だよ。自分の教室に帰りなよ、ハルくん」と、須藤の背を押した。  須藤は最後に、 「また来ますよ、谷口さん」 と言い残して出ていった。 「もう来なくていいっつの」  松山がその背に指を突き出し、「地獄へ堕ちろ」のポーズを取る。横田が水上を振り返った。 「水上ぃ、何だあれ。失礼な奴だな」 「いや、いつもは全然いいコなんだよ。『アリス』役を引き受けちゃったから、勉強したいんだって。どうしても谷口君に会わせてくれって言うから……」 「連れてくるんなら、もっと口の利き方教えてやってからにしろよ」  いつになく真面目な顔で、矢口が水上に苦言を呈した。水上はひたすら恐縮している。松山が皮肉に笑った。 「でもまあ、大した度胸だよな。三年の教室にいきなり乗り込んで喧嘩売って、揚げ句谷口のあの睨みにもびくともしなかったとは」  松山は傍らをちらりと見て、「なあ」と意味ありげに肘でつついた。 「怖いよなあ、あれは」  郁也の肩が微かに震えた。 「え、そうか。そうでもないぞ」  つつかれた方は、そう言って曖昧に笑った。郁也の背を守っていた、やはり同じクラスの瀬川佑輔だ。  本鈴が鳴る。郁也の周りに集まった連中が、ばらばらと席に戻る。 「びっくりしたな」  佑輔が郁也に耳打ちした。「うん」と郁也は下を向いた。 「何か、嫌な感じがする」  心細げに睫毛を震わせる郁也の肩を、ひとに分からないよう手の甲でそっと叩き、佑輔はゆったりと大股で自分の席に戻っていった。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

79人が本棚に入れています
本棚に追加