幻想のピアニスト

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 リュエイユ郊外の森の近くに自然に囲まれた邸宅がある。ヴェルレーヌ家のノエルが住まう別荘である。白い外壁に赤い屋根、美が凝縮され絵に描かれたような優雅な家だ。  「ここがノエルの別荘? すごく綺麗だ」  「今は僕たちと護衛以外に誰もいない。だからゆっくりできるよ」  初めて友人の別荘に招かれたサシャ。王族と友人になれたことだけでも奇跡だというのに今は彼の家の床に足をつけている。夢のようだ。  ノエルがよく使うという部屋に行くと、美しく黒いグランドピアノが目に留まる。  真新しくて埃ひとつ被っていない。小間使いが丁寧に手入れしてくれているのだろう。  「そのピアノが気になる?」  「ちょっとね。素敵だなあ……」  このピアノは長い間ほとんどインテリアのようにして扱われており、弾く者はいないという。  「何か弾いてくれるの?」  ノエルが冗談ぽく言った。  「弾いてもいいなら……」  「ぜひ聴きたいな、君の演奏」  サシャは静かに椅子に座り、鍵盤に指をそっと乗せた。そして息を吸い、奏で始めた。  広い部屋の中に美しい旋律が反響する。ノエルはそれに魅せられていた。サシャの指が奏でる音は、心に安らぎをもたらした。  一曲終わった後、大きな拍手を送った。  「素晴らしい演奏だったよ、サシャ。すごく落ち着きのある音色だった。君の演奏は心に響く」  「ありがとう。母さんが音楽家なんだ。この曲は母さんから教えてもらった」  「君なら世界を魅了するピアニストになれるよ」  サシャは小さく首を横に振った。  「……なれないよ。そんな夢は叶わない。僕がどんなに上手にピアノを演奏できたとしても、ピアニストにはなれない。死刑執行人の血が、流れているから……」  母は確かに音楽家だが父は死刑執行人だ。息子は父の後を継がなければならない。生まれ落ちたその瞬間から人生が決まっている。王族の子が王族であるように、死刑執行人の子は死刑執行人なのだ……。  「いずれは僕も父さんみたいに処刑台に立つ死刑執行人になる。でもなぜだろう、悲しいんだ」  うまく言葉にできないけれど、と付け加えた。  「……少しは夢見たりした? ピアニストの」  「うん……」  遠い日の記憶が蘇る。  昔、まだ幼かった頃の出来事だ。  母から教わった後はすぐに弾けるようになり、それが楽しくて仕方がなかった。母はその演奏をいつも褒めてくれた。  『僕、大きくなったらピアニストになりたい』  純粋な気持ちでそう言った。たまたま近くで聞いていた父がそれを咎めた。  『サシャ。幻想を抱くな。お前は死刑執行人となるしかないんだ』  それからは父の前で夢を語ることもしなかった。否定されるのは嫌だった。自分が本当に歩みたい人生を歩めたらどんなに素敵なことか。  ノエルはサシャの肩に手を置いた。  「じゃあ、ここにいるときは僕だけのピアニストになってほしい。ピアノもずっと飾られているばかりじゃ悲しいだろうからね。また素晴らしい音楽を聴かせてよ」  「ノエル……」  技術だけが身について誰にも聴かせることなく時が過ぎていくに違いない、と過去に思ったこともあった。しかしこうして愛すべき友のために演奏を許された。それが何より嬉しかった。  「じゃあもう一曲」  再び滑らかな指先が鍵盤を叩く。  己の中の音楽家の血がこの場所で目覚め、ピアニストに仕立て上げた。  家では人知れず独りで静かに弾いていた。日頃の悩みや苦しみから解放される唯一の方法が演奏することだった。気持ちが沈んだ時は特に音楽に打ち込んだ。  ああ、本当は誰かに聴かせたかったのかもしれない。  叶わないと知っていてもピアニストになりたかった。
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