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心臓が止まったかと思った。いや、止まっているべきは向こうの心臓のほうだろう。
「お世話になっております、XXXカンパニー営業部の上枝賢二と申します」
呆然とする本川に気づかないまま、目の前の男は名刺を差し出した。
死人の顔に、笑みを浮かべて。
「……ヒエ」
「どうしました?」
「……ナンデモナイデス」
鉄仮面と名高い営業スマイルも今日ばかりは紙のお面のようだ。言葉も発せないままマジマジと見つめる名刺には確かに「上枝賢二」と名前がある。
「あのう、名刺……」
「あ、すみませんほんと」
慌てて名刺を差し出すと、本川の指先が上枝の指先に軽く触れた。ピクリと体が震えるほど、冷たい。
「モトカワさん、ですか?」
「いえ、ホンカワです」
本川(ホンカワ)にとっては定番のやりとりを終えて、とりあえず二人は席につく。人もまばらなカフェの中に、サラリーマンの男二人が向かい合ってメニューを覗き込んだ。すぐにやってきたウェイターが手際よく注文を取る。
未だ動揺から抜けきっていない本川は、とりあえず物理的に頭を冷やすことにした。
「アイスコーヒーで」
「ホットコーヒーで」
「かしこまりました」
とりあえずはお冷に口をつけて口内を冷ましたけれど、頭が覚めた感覚はない。ウェイターの戻った厨房の方を覗きながら、手際が良いからすぐ来そうですね、だの、いい匂いしてますね、だの言う上枝の顔をじっと見ても、やはり死人の顔に相違なかった。
「あの……、私の顔、何か変ですか?」
「え?あ、いや、そうじゃなくて」
はい変です、あなたの顔は死んだ同級生の顔にそっくりなんです。———なんて、誰がどうして言えるのだろう。
上枝賢二。中学二年の時に、死んだと噂になった同級生。
たしか、噂のきっかけは担任が彼の机に花を供えたことだったか。頭の悪い教師もいたものだ、途端に広がった彼の死に関する噂は子供の好奇心を刺激するには十分すぎるもので、顔写真と名前が出回り、自殺だの他殺だの死因がさまざまに憶測された。
本川もその写真を見たくちだ。掲示板に貼られ、当時毎日のように見ていた顔を今でも憶えていたとは自分でも知らなかった。卒業してからは彼の名を聞くこともなく、もう二度と思い出す名でもなかったはずなのに。
「……知り合いに、似ていて」
「ああ、よくある顔だと言われます」
クスッと笑って、死人の顔と名前をした男が水を飲んだ。
幽霊って、水飲めるのか。
(いや、さっきちょっと触れたし、幽霊というよりはゾンビかもな)
いよいよ正体がわからないが、とにかくこのゾンビ(暫定)は人間らしく振る舞えるらしい。
「それで、本日の要件なのですが……」
テキパキと資料を取り出しては仕事の話を始める上枝もどきに流されて、結局本川は、きっちり仕事をすることになった。
ちなみに、この流されやすさは社畜に特有のものである。上司の命令を聞けない新入社員は、どんな痛い目に遭うかわからない。
「しかしここのコーヒーおいしいですね」
案外楽に話がついて追加注文したパフェを咀嚼しながら、上枝が言う。
冷め切ったコーヒーが不味いからパフェを頼んだのだろうに、何言ってるんだ、と内心思うが、大人(社畜)の本川は言葉にしない。代わりに、
「そうでしょう、ここ俺が中学の時からある店なんですよ」
「へえ、本川さんこの辺出身なんですね。俺もなんですよ」
(マジかよー思い出さないようにしてたのにさーーー)
ひくりと表情筋が攣りそうだ。営業マンとして致命的なまでに絶体絶命。普段祈らない神仏にさえ縋りたくなる。
しかしそんな本川の願いとは真逆に、事態はあまり良い方向に進んでくれないらしく。
「中学ってどこですか?俺XX中なんですけど」
「アーオレモソコカナーー」
「マジっすか、てことは同級生ですよね?さっき名刺見たら同じxxxx年生まれだったし。え、俺二年三組だったけど、本川さん何組?」
もはや敬語も覚束なくなってきた。さっきまではすごく丁寧そうな人だったのに、敬語外すと一気に男子高校生っぽくなるな。
などと現実逃避をする傍らで無情な現実は進行していく。
「一組」
「美少女がいるって話題だったクラスじゃないですか!いいなー」
そちらは死人が出たって話題のクラスでしたけどね。
しかし、ゾンビ(暫定)の男はちっとも人らしくない様子もなく、むしろドギマギしている本川自身がおかしいかのように普通に笑って普通に食べる。しまいにはパフェをもう一個頼みやがる。これは、多分ゾンビじゃないな。
だが社会人としてはどうなんだ、という本川の冷ややかな視線に気づいてか気づかずか、上枝はまだまだ中学の話をしたいらしかった。
「そういえば卒業式の時に一枚卒業証書が足りないとかいう事件があったの、覚えてる?」
「あー、そういえばあったな」
あれは可哀想な事件だった。卒業証書がなかった生徒は、たしかその場で泣いたのだったか。保護者の抗議がモンペレベルで散々な卒業式だった記憶がある。
(でも、その時にはこいつ死んでたはずなんだよな)
なんせ上枝は二年で死んだのだから、三年の卒業式に出席しているはずがないのだ。
「あの時卒業証書もらえなかったの俺の友達でさ、よりにもよって親がモンペなことで有名なやつの証書失くすなんて学校もついてないよな」
そう言ってパフェを一口分掬う手も、スプーンを挟む唇も、血色が良くてゾンビや幽霊のようには見えない。
あまりにも人間らしい仕草と口調、指先の感触、そして過去の記憶。
(……つまり、ただの俺の記憶違いか)
たどり着いた結論の陳腐なこと、一人で空回っていたことに羞恥を覚えていっそ可笑しかった。
クツクツと笑い声をこぼす本川を、上枝は不思議そうな眼差しで眺める。
「何?今笑うところあった?」
「いいや、なんでもない。それよりさ……」
死んだ、という勘違いを取り払ってしまえば、本川にとって上枝はただの仕事の相手で同じ中学の同級生。案外話題の尽きない話し相手との雑談は心地よく、気づけば時計は当初の予定を大幅に過ぎた時間を指していた。
「あ、やばい俺帰らないと」
「仕事?」
「そんな感じ。後輩待たせてんだよね」
「じゃあ俺も帰る」
自分の会計を済ませて、上枝はご馳走様でした、と店員に頭を下げた。
(礼儀正しいヤツ)
名前と顔を知っていた相手を、実は名前と顔しか知らなかった。
そんな当たり前の事実に驚きを感じつつも、信号三つ分程度の距離を並んで歩く。
「懐かしいな、ここ俺の通学路だった」
「へえ」
適当な相槌を打ったのちに、ふと、違和感を感じる。その細い通学路は一度不審者が出て以来、中学生の通行が禁止されていたはずだった。
たしか、三年の時に。
ふと沸いた違和感が、思わず口をついて出た。
「そういえば上枝、中学の話した時さ」
「何?」
「なんで三年じゃなくて二年のクラス言ったの?」
言い終えた途端、ただの人だった目が、ゆらりと怪しく細められた。化け狐が正体をあらわしたかのように、まるで愚鈍な本川を嘲笑うように。
ゾクリ、と冷たい感覚が背中を伝う。一瞬にして気圧されて、恐怖に体がすくんで、出した足がもつれる。得体の知れない化け物の、ソイツの尻尾を踏んでしまった———
「大丈夫?」
肩を支えられて、はっと意識が引き戻された。見上げれば心配そうに本川の様子を窺う上枝はなんのおかしなところもない人の顔をしていて、さっきまでの上枝そのものだった。
どもりながらも返事をして、本川が礼を伝えると、上枝はにこりと笑って気にするなと言う。その明るい様子に、妙な幻覚を見たものだと、本川は内心苦笑する。
まさか死んだ人間が、生き返るわけもあるまいし。
軽い下り道がまっすぐ目の前に一本伸びている。上枝は、本川が転ばないようにわざとゆっくり歩いた。本川もどこか名残惜しくて歩速を落としていた。
「じゃあね」
「またな」
最後の交差点で、二人は別れた。本川は連絡先を最後まで知らなかったが、勤務先も中学も知っていれば、また会えるだろうとあえて訊かなかった。そして、また会ったら今日のくだらない勘違いのことを笑い話に話してやろうと思った。彼はそのくだらなさに、シワを寄せた顔で人らしく笑うのだろう。
すっかり打ち解けて名残惜しそうですらあった本川の背中を、上枝は見送った。そして駅に入っていくのを見て、ひとりほくそ笑む。
すでに本川の中には、上枝という死者が生き返っているらしい。つくづく面白い。人の認識は、かくも容易く曲げられる。
にやけた口元を隠しもせず、赤信号に首をもたげる。周囲には信号待ちの人間が立ちこめて、再び青い明かりがつく。上枝、の顔をした何かは、真昼間の人混みに紛れて見えなくなった。
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