2人が本棚に入れています
本棚に追加
こめかみを押さえて目が覚めた。しつこい頭痛が遠のくとまばたきが軽くなった。
ぼくは夏の休暇に湖畔のコテージを借りていた。日ごろ都会で仕事をしているので休暇のときくらい静かな場所で過ごしたい。そうおもって、この数年、山の湖のほとりにあるこのログハウス造りのコテージを夏のあいだの一週間だけ借りることにしていた。
ベッドから下ろした足に、山の空気がひんやりと触れてきた。
昨夜は友人夫妻とおそくまで過ごした。岸井夫妻とは会社の輸出入担当課にいたころに近づきになった。夫の直樹が企業弁護士事務所の弁護士で、ぼくの会社の担当だったのだ。
夫妻はぼくのことを「しゅん」と呼ぶ。名前が俊一だからだ。二つ年上の夫妻からそう呼ばれるのはなんの抵抗もなかったが、夫妻は自分たちの名前もぼくが呼ぶとき敬称をつけることを許さなかった。
「直樹さん」「ゆみさん」と口にすると、頭を振って注意してくるのだ。だから、最初は気が引けたが「直樹」「ゆみ」と呼ぶようになっている。
知り合って三年ほどになるが、夫妻とはまるで家族のようなつきあいだった。
寝室の壁紙のほそい草模様に目をならし、コテージに備え付けの少し黄ばんだスリッパをつま先に引っ掛けた。
昨日の晩はだいぶ酒を飲んだ気がするが、あまり覚えていない。
サイドテーブルに古いジャズのレコード盤が載っている。きっと直樹がへたなサックスを吹いて、ゆみが笑いながら指でテーブルを叩いてリズムをとっていたのだろう。ぼくはそのほそい背中を抱いて……。
映像は浮かばないが楽しい夜だったという記憶があった。
鏡の前に立ち、寝ぐせのついた髪に指を入れ、ワイシャツをはおった。
ゆみはぼくのまだ眠たげな顔を見ると、ラップで包んだシチュー皿を手に眉をしかめた。
名前を呼び捨てにさせているくせに、ゆみはときに弟に向かうような態度をとる。
ぼくは黙って洗面所で顔をじゃぶじゃぶ洗った。
リビングには木のテーブルと椅子が三脚あった。テーブルの中央に色の褪せたドライフラワーが差してある大きなガラスの花瓶。隅には絵葉書が安っぽいボールペンと一緒に備え付けられてあった。クロスはビニール引きで、端がテーブルの黒ずんだ脚に垂れていた。
テーブルには二人分の食事しか用意されていなかった。
「直樹は?」
「わたしが介抱をするからって、帰したわ」
コテージの車寄せをみると、昨晩はあった白のラングレーが消えていた。
朝になる前に東京へ帰ったらしい。
「だれの介抱をするって?」
ぼくがコーヒーを飲みながらきくと、ゆみは力が抜けたように笑った。
ゆるいウェーブの巻き毛の、つんとした鼻の女性である。胸のひろく開いたシャツに鎖骨がうすくかげを作っている。うでに細いプラチナのバングルをしていた。
「あなたお酒臭いわ、はやくシャワーを浴びてらっしゃい」
そういうと流し台へ立っていった。
朝の食事が済むと、ぼくたちは付近の散策にでかけた。
美しい自然のなかに身を置き、解放感にひたるのがコテージを借りた目的だった。
風はしずかで欅の細かい枝から朝日がきらめいていた。
前を歩くゆみは、腰にぴったりした短いすそのジーンズをはいていた。
道に落ちていた小枝が、彼女のサンダルに踏まれてときどき音を立てた。
湖へ行く途中に小さな小屋があった。地下水を汲み上げるポンプが入っていた小屋だが、今は使われていない。
ゆみは通りがかりに、その鉄枠の青く塗られているガラス窓へ、屈みこむようにしてまるい目を近づけた。
そして、にやりと喜色を浮かべてふりかえると、あなたも見てみたらという手つきをして、自分は湖のほうへきげんよく足を上げて歩いていった。
小屋の中にはにわとりが二三羽、慌ただしく羽根をはばたかせて、古い発電機の上へ飛び乗ったり下りたりしていた。
そのほかには、かたつむりが一匹、窓ガラスの裏にべっとりと貼りついているだけだった。
湖につくと、鮮やかな色のリュックを背負った何人かのハイカーが、湖畔の岸伝いに歩いていくのがみえた。
広々と視界のひらけた風景のなかに、ボートを繋ぐ桟橋が、うすく蚊柱を立てて湖へ突き出していた。
「水が冷たくなければ泳げるかしら」
ゆみは蚊を払いながらサンダルを脱ぐと、桟橋の端へ歩いて行った。
そのとき、湖面へ張り出していた黒松の枝のかげからいきなり大きなボートがあらわれ、エンジンのうなる音と大量の排気ガスを上げて、桟橋のすぐ前をかすめるようにして通って行った。
悲鳴を上げて桟橋に転がったゆみへ走り寄りながら、ぼくは乱暴なボートを目で追った。が、ボートは謝りに戻ってくる様子もなく白波を立てて沖へ走り去って行った。
「大丈夫だったかい?」
抱き起すと、足にすり傷ができていた。転んだときにこすったらしい。
ぼくは彼女の首にうでを回して、からだを起こした。
「へいきよ」
ゆみはショックを受けたらしく顔を上気させていた。まだからだがふるえている。白いブラウスのはだかの乳房がかたくとがっていた。
コテージへ戻る途中、急に雨が降り出した。
山の気象は変わりやすい、たちまち嵐になるとつよい北風が窓を叩いた。
ひっきりなしにいなびかりがし、雷鳴がとどろくごとにコテージの配電盤が小さな火花を散らした。
今日はもうどこへも出られそうにない。
ゆみが先に浴室に入り、ぼくは吹き荒れる雨の音を聞きながら直樹に絵葉書を書いた。
余白に三人の似顔絵、ゆみを真ん中にしたイラストをつけた。
絵葉書はぼくがまだコテージに滞在しているあいだに届くはずで、直樹はきっとよろこんでくれるだろう。
浴室からゆみが出て寝室へ歩いていく姿が見えた。
絵葉書を引き出しに仕舞って浴室に入ると、ゆみが使った香水の匂いがのこっていた。
シャワーで髪を洗っているとき、ふと冷蔵庫に鵞鳥の卵があることを思いだした。昨日の夕方、車で一時間ばかりかかる町まで買い出しに行ったとき、たまたま見つけたゆみが「おもしろそうじゃない」といってカゴに入れたのだ。
ふつうのにわとりのより少し大きめで細長い卵だ。三人とも食べたことがなかったので味はわからない。が、あまり美味しそうな見かけではない。直樹はあからさまに吐く真似をしてぼくを笑わせた。
ゆみは知性があって健康そのものの女性だったが、珍しいものやふつうじゃないものに、人並み以上につよい好奇心をもっているようだった。
排水口に引っかかっていた長い髪の毛をつまみ上げて、あの卵をゆみがどうするつもりか聞いておかなくてはならないと考えた。食べるのはためらわれるし、残して行かれても始末に困る。
浴室を出ると、リビングの木の椅子にゆみが腰掛けて、足のすり傷に薬をつけていた。服を着ていない、はだかのままだ。
テーブルに蝋燭が灯されていた。停電に備えて買ってあったものだ。証明は消されていて窓だけが明るい。隙間風でレースのカーテンがふくらんでいた。
ぼくはしばらくその様子を眺めていた。ゆみは片ひざを立ててくるぶしの上の脛にできた傷に軟膏を塗り込んでいた。乾ききらない黒い髪がまるい乳房のあたりまで垂れ、ろうそくのチラチラする光で、肉付きのよい大腿部が照らされていた。
「痛むかい?」
声をかけたぼくに、ゆみはえくぼを作った顔を向けた。
一瞬、ルネッサンス期の絵画を見ているような錯覚におそわれた。まるで裸体画の神がかった表情をしている女性をみているような気持だった。
ゆっくりと近づいて、傷をのぞきこんだぼくの耳にゆみが口を寄せた。
「知ってる? おんなってね、危険なめにあうと興奮するのよ」
椅子から立ってぼくを座らせると、はだかのうでを首に巻きつけた。
甘い体臭と傷薬のにおいがした。
「愛してるわ」
舌をからめ、ぼくを急かして手を乳房へさそい、愛撫を期待してからだをくねらせた。
ひとしきりからだを寄せあったあと、
ゆみはほそいあごをぼくの肩にのせた。
「あのにわとりを見た? 青い窓枠のポンプ小屋にいたにわとりたち。あの子たち同じかたつむりを狙っているのだけど、食べようとすると、すぐにほかのにわとりがじゃまをするから、いつまでもありつけないの」
ゆみは瞳の奥に奇妙な光を浮かべると、ぼくの首筋に舌を這わせた。
「でも、わたしたちはちがう。だってわたしは食べられることをただ待っているかたつむりじゃないもの」
舌の愛撫がぼくのからだを堅く強張らせた。
ゆみとこうしたことをするのは、はじめてではなかった。
この関係は直樹も知っていることだった。だが、ずっと友人のまま友情はこわれない。
それがふしぎなことではないと、ぼくには感じられた。
やがて、ゆみのねっとりとした肉の動きにぼくは飲み込まれていった。
///////////////////////
おわり
最初のコメントを投稿しよう!