ねえ、千鶴、逃げようよ

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 保健室で何か言われたのだろうか。あたしは、大人であるがどこか平和で勘違いしたままの先生たちを思い出して、そう聞いた。千鶴は首を振って、あたしを見上げた。絶望と、信じられないほどの苦痛に満ちた表情だった。 「違う。違う。違う。なんにも言われて、ない。なんにも、なんにもない」 「じゃあ、何があったの? 吐いたりし――」  千鶴は強引にあたしから体を引き離すと、憎しむような怒ったような顔をして、叫んだ。 「上総さんが教えてくれたんじゃない!」 「え……」 「チヅは、チヅはお父さんに――」  そう言いかけて、とまった。千鶴は頭を抱えて、言葉にできない叫び声をあげる。  あたしはそれで、ようやく気づいた。千鶴は、あたしの言葉で、今まで自分が何をされてきたのかようやくわかったのだ。自分は性被害者だと実感して、それで苦しんでいる。あたしは千鶴をどうにかとめようとしたけど、千鶴はあたしの手を振り払って立ち上がった。何も望みがないような、悲しみに満ちた表情だった。 「どうしたんだよ」  貞晴がさすがに気になったのか女子トイレの中に入ってくる。千鶴は貞晴を見ると、また叫び声をあげる。それからあたしの隣で冷たい風が吹いた。千鶴はあたしと貞晴を突き飛ばすと、走り去ってしまう。あたしたちは千鶴の後を追った。千鶴の叫び声に何があったのかとやってきた生徒たちが「きゃ」と小さな声をあげる。  あたしは、あたしたちはどうしようもない、それこそ、先生たちのような、平和な勘違いをしていたんじゃないだろうか。  千鶴が助けを求めていたからって、何をされているかわかってると決めつけて。  でもあの子は本当はわかっていなかった。疑っていても、心の底ではわかっていなかった。だから、今、絶望して、受け入れがたい現実に悲しんでいる。 「千鶴、どこに行くの?」  あたしは千鶴に呼びかけた。でも千鶴は階段を上がっていく。どこに行くのかわからないまま、あたしたちも追いかけた。上履きのぱたぱたとした音がどこか間抜けで現実感がなかった。そしてとうとう、屋上までやってきた。 「千鶴っ!」  千鶴は屋上までやってくると、髪を乱して振り返る。真っ黒い絶望の色をした瞳がゆらゆら揺れて、綺麗な涙をぼたぼたと垂れ流していた。 「チヅ……チヅ、もう、駄目だよ……」  あたしはゆっくりと近づいて、首を振る。
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